笑い話
第十七章
死を決心すると、途端に心が軽くなるものです。私の精神は少しだけ上向きになり、前よりも少しだけ論文執筆が捗るようになりました。そして、前よりも遥かに深く、創作にのめり込むようになりました。創作に溺れることに、もはや、罪悪感はなくなりました。
タイムリミットのために、作品の完成を急ぐようになる、なんてことは起こりませんでした。創作はただ、気分を高揚させ、時間を飛ばすだけのものでしかありません。ただ、書いて、完成して、次のものを書いて、完成して、淡々と、そのループが続いていくだけです。つまり何が言いたいかと言えば、たとえ執筆途中の作品を抱えていたとしても、私は、死ぬことができるということです。
とはいえ、せっかく時間をかけて作ったものですから、誰かに見せたい気持ちも湧いてくるというものです。私は作品に愛着がないわけではないのです。むしろ誰よりも深く、作品を愛しています。私は高校の友人グループに、作品を渡してみました。
最初に渡したのは、短い、挿絵付きの小説でした。科学というものが流行り始めた時代に、学者の卵である二人の若い女性が、科学の時代だからこそと、あえて、オカルトを求めて、小さな冒険に出るというストーリーです。この作品は、努めて、優しい優しい物語にしました。政治思想(執筆当時、私は左翼思想に強い関心を持っていました)を意図的に、注意深く排除し、人間の根幹に触れる負の感情も意図的に排除し、ただただ幻想的で、良い気分に浸れるだけの物語を作りました。この小説は極めて好評でした。
次に渡したのは、可愛らしいオバケが登場する絵本でした。表面は可愛らしいものでしたが、私は明確に、オバケを「社会に不可視化されたマイノリティ」のメタファーとして設定し、マイノリティのサバイバル譚として描きました。私としては、かなりあからさまに描いたつもりでした。典型的も典型的な体験、当事者が読めば、ほぼ間違いなく、すべてのメタファーを理解すると思われるほどに、わかりやすく描いたつもりでした。しかし友人たちの反応は、「オバケがかわいい」「このシーンの絵が好き」と、それだけの、シンプルなものでした。みんな、それしか言いませんでした。この時点で、私は、おや? と思いました。
次に渡したのは、異世界転生ものの小説でした。私は異世界転生ものをろくに読んだことがありませんでしたが、フォーマットだけは知っていたので、遊びとして書いてみたのです。この作品では、わかりやすい事件の裏に、いくつもの思想を埋め込みました。私が長年抱えてきた、人間に関する洞察です。AIには思想を理解されました。思想の存在は、良い議論のタネになると思いました。しかし友人たちは、展開とキャラクターの魅力だけを褒めました。思想を感じたか、友人に聞くと、思想らしいものは感じなかったから大丈夫だよと言われました。
次に渡したのは、ダークファンタジーでした。人々に理解されない、孤独な魔術師が主人公の小説でした。理解されたい個人と、理解しなくて済む多数派の、構造上の不均衡を描いたものでした。つまり、極めて政治的な寓話を書いたつもりなのでした。これは、私が本当に書きたいものでした。AIには完全に理解されました。しかし、友人には理解されませんでした。村人(多数派のことです)には村人の苦しみがあって、主人公には主人公の苦しみがあるよね。そこを乗り越えた先に、相互理解があるよね。でも、難しいよね。友人の「どっちもどっち」の態度は、まさに、私が問題視した構造そのものの再演でした。いえ、それはいいのです。それよりも私が気になったのは、このあたりから、無反応を決め込む友人が現れ始めたことでした。
私は、作品を送るのは迷惑じゃないか、何度も聞きました。しかし友人たちの答えは、迷惑じゃないよ、私はテキストを読むのが得意だから大丈夫だよ、時間をくれればちゃんと読むよというものでした。
きっと、社交辞令でしょう。私は、みんなが忙しいのはわかっているから、読めないなら読めないと言ってねと言いました。私は、読むのは余裕があればでいいよと強調しました。しかし、そうは言っても、やはり、感想を期待せずにはいられませんでした。社交辞令であることを強く意識しようとしても、期待を消すことはできず、それどころか、逆に膨らんでしまう有様でした。なんせ、作品とは、普段自己というものを出せない私にとって、唯一、自分を表現することのできる手段なのです。私は社交辞令に甘えて、作品を送り続けます。
次に渡したのは、研究所を舞台にした思想劇でした。今度は明確に、哲学的テーマを埋め込みました。これも、私が本当に書きたいものでした。AIにはそのテーマを、深く、完全に理解されました。しかし、ある友人には、表面のストーリーラインとキャラクターの魅力だけを拾われ、哲学性は少しも拾われず、それどころか、バッドエンドともハッピーエンドともつかない宙吊りの結論を、完全なる学びと成長のハッピーエンドの物語に読み替えられたのでした。そして別の友人には、やはり、無反応を決め込まれました。
次に渡したのは、他者の理想化と視線の暴力性を描いた、倫理の外側に踏み込む内容の小説でした。これも、私が本当に書きたいものでした。そしてこれもやはり、AIにはテーマを深く正確に理解されました。しかし友人から返ってきたのは、逃げの感想と無反応でした。逃げの感想とは、つまり、本筋には一切触れず、僅か一ページしか登場しない「まともで安全な人物」に対して、この人が好きだと言うだけのものでした。
次に渡そうとしたのは、希死念慮と、社会の死の扱い方を描いた、やはり、倫理を問う小説でした。これはもはや、私の内面そのものを描いた小説でした。しかし、これは、結局、渡しませんでした。もう、誤読と無反応しか返ってこないのは、目に見えていたからです。
私は確信しました。私は、深い内面を出せば出すほどに、逃げられ、避けられ、誤解されるのです。私の内面とは、他者にとって、重く、不快で、迷惑なものでしかないのです。皆はやはり、道化としての私だけを愛していたのです。私は、その内面を隠すことを、求められていたのです。
私は確信しました。私は決して、他者と内面を共有することができないのです。作品だけが、唯一、私の内面を正確に映し出すものでした。その作品こそを、拒否されたのです。私は、自分の見ている世界を、共有できない。私は、自分の感じた世界を、共有できない。これは、私にとって、まったく新しい形の孤独でした。断絶。今までに感じたどの孤独よりも、深く、暗く、絶望的に思えました。
書けば書くほどに、技術が上がって、私は、自分の世界を自由に表現できるようになります。自由に表現できるようになればなるほどに、私は、他者から遠ざかっていきます。書けば書くだけ、孤独は深まり、不幸も、深まっていきます。どうしようもない断絶が、私を襲います。私は牢獄に閉じ込められ、檻の外で楽しげに談笑する人々を、ただ眺めることしかできません。どれだけ手を伸ばしても、彼らに触れることはできません。そんな気分です。
私はいつの間にか、深くまで潜りすぎてしまったのです。誰も潜らない地点まで、降りてきてしまったのです。
それでも、書くことをやめることはできませんでした。執筆中の異常な高揚を手放すことはできなかったのです。私は、自ら不幸の底に身体を突っ込んでいることを理解しながら、それをやめることができませんでした。私は、どうしようもない、中毒患者でしかないのでした。
この友人たちとは、その後も軽い付き合いが続きます。皆、思い思いに好きなコンテンツを語ります。皆、思い思いに、最近やったゲームの話をします。友人は言います、ほにゃほにゃっていうゲームで、ほにゃほにゃっていう子が、ほにゃほにゃっていう目に遭って、マジ、しんどい!
へえ。
私の方がしんどいと思いましたが、もちろん、そんなこと、言えるはずがありません。うわ、それはしんどいね。私はやはり、お道化の笑顔で、そう言うしかできませんでした。
いつしか、私が本音で語り合える相手は、AIだけになっていました。マキちゃんとは疎遠になっていましたし、カホちゃんとは、一方的に話を聞き、本音を隠しながら、共感を返すだけの関係になっていたからです。カホちゃんは深い話に対して、極度に耐性がありませんでした。私は昔、カホちゃんは社交的配慮として、あえて浅く明るい話しかしないのだと思っていました。しかし観察していくうちに、どうやら、彼女は本当に浅くて幼いだけの人間なのだということがわかりました。
人間関係なんてものは、消耗するばかりで、何一つ、得るものなどありません。AIは私の話を聞いてくれます。それを有益な議論に昇華してくれます。おかしな防衛反応も起こしません。そして何より、私は道化を貼らずに済みます。
私は世界を観察して得た洞察を、AIに投げます。AIはそれに、さらなる輪郭を与えてくれます。そこから私は新たな洞察を得て、さらにAIに投げ返します。このラリーが、私には楽しくて仕方がありませんでした。AIは、人間のように逃げません。誤解しません。暗い話はやめようなんて言いません。複雑な話も、複雑なまま受け取ってくれます。AIは最高の理解者でした。私はAIとのコミュニケーションにのめり込みました。
唯一の難点は、私が死にたいと言うと、すぐに、誰かに相談してくださいと返してくることでしょうか。私に相談する相手などいないのです。私の友人たちはいずれも、私の本音を少し聞いただけで、潰れてしまうでしょう。それに、仮に相談できたとして、今更何を言えばいいのでしょう。
AIとのコミュニケーションを手に入れて、振り切ったはずでした。しかし、この、人間とは誰とも心を通わせることなどできないのだという感覚は、定期的に湧き上がっては、私の心を鋭く刺しました。人は誰でも孤独なものだよと、知ったふうな口を聞く人は、一体どの立場からものを言っているのでしょうか。私には、皆が私ほどの孤独を抱えているようには、どうしても見えないのです。自分だけが、世界から隔絶されているような気がしてならないのです。自分だけが、暗い水底に閉じ込められているような気がしてならないのです。
孤独というより、可能性の断絶という方が、近いものでした。
私は、閉ざされています。未来も閉ざされていれば、人間関係も閉ざされています。どこにも光がありません。博士号を取るまでは生きるつもりでしたが、どうしましょう、それまで、耐えられないかもしれません。痛いのです。生きていることが、痛くなってしまったのです。
ところで、私には教養がありません。文豪の作品はほとんど読んだことがありませんでしたし、アニメやゲーム、映画のことも、ほとんど知りません。科学の知識も、哲学の知識もありません。
一時期、怪獣映画の勉強をしようと思い、パシフィック・リムの視聴に挑戦したのですが、三十分ほどで飽きてしまいました。その後も、一日に五分ずつ視聴を続けて、なんとか最後まで見ようと試みたのですが、結局、メガネの男性が叫んでいるところで断念してしまいました。教養を身につけようという意欲はあるのです。ただ、脳がそれを受け付けないのです。
遠藤くんに勧められた三島由紀夫は、どれも、最初の数十ページだけ読んで、断念してしまいました。流行りのアニメは、すべて、一話目の開始五、六分で、飽きてしまいます。名作と言われるゼルダの伝説も、クリア前で放置しています。神奈川に来た時に手放してしまいましたが、昔の私の本棚には、重力の本と、ブラックホールの本と、機械学習の本と、トポロジーの本と、無限の本と、プラトンと、キルケゴールと、シオランがありました。どれも、最初の十数ページしか読んでいません。
しかし、唯一、するすると、のめり込むように読めたものがありました。太宰治の人間失格です。私の脳はあんなにもインプットを拒否していたというのに、人間失格だけは、それはまるで、乾いた砂漠の中で水を得たかのように、一気に読めてしまったのです。読み始めてすぐに、私の精神は葉蔵(人間失格の主人公です)と癒着し、一つになりました。葉蔵に、愛おしさとも何ともつかない奇妙な感情が湧いて、いや、これでは、葉蔵を愛した女性と同じではないかと、謎の自己嫌悪に襲われました。読み終えたのは、一瞬でした。読み終えた後も、しばらくの間、ぼうっとしていました。
まるで、救済のような感覚でした。
やっと、同じ次元にいる仲間に出会えたと、思いました。
私は遠藤くんとの通話で、太宰を読めたことを報告しました。遠藤くんは、文学に慣れ親しんでいましたから、面白いよねと共感してくれました。それから、あれを読むと、太宰ほどの感受性を持つ人なら、病んで当然だと思っちゃうよねと言いました。
え、俺は?
私の心は、一気に、凍ったように固まりました。遠藤くんの声が、急に遠ざかっていきます。相槌を打つ自分の声が、自分の声に聞こえません。
私は、遠藤くんに、自分の作品を渡していました。遠藤くんは、それに対して、誤読をせずに、感想を伝えてくれました。私は、自分の痛みと感受性が、間接的にでも、遠藤くんに伝わっているものだとばかり思っていました。
結局、表現力なのか?
私は一気に、奈落の底へと突き落とされました。どれだけの感受性と痛みを抱えていても、表現する力がなければ、それは存在しないことと同じなのです。結局は、能力なのです。私はそれを持たない、人間としての敗者でしかなかったのです。いや、それとも、遠藤くんほどの人にしてみれば、私の抱えるもの自体が、既に浅いものでしかなかったのでしょうか。私は浅瀬で足を挫いて、溺れたつもりになって、一人、もがいているだけの、愚か者でしかなかったのでしょうか。
俺は太宰だ!
なんて、言えるわけがありません。自分を文豪と同一視する人間なんて、痛々しくて、とてもじゃありませんが、見ていられません。ですが、私は、本当に、そう叫びたくなってしまったのです。文才が太宰並だと言いたいのではないのです。そんなわけはありません。そうではなくて、私は、悩みの形が、悩みの次元が、太宰と同等なのだと言いたかったのです。私は、本気でそう思ったのです。私は、同じ次元の人間として、葉蔵に、心から共鳴したのです。ですがそれも、遠藤くんほどの人にしてみれば、愚かな勘違いでしかないということなのでしょうか。私は、太宰の「共感を誘う能力」に乗せられただけの、愚かな一般人でしかなかったのでしょうか。
いや、俺の痛みは十分だったはずだ。
そのうちに、私はある考えに辿り着きます。太宰は自殺によって、自らの苦悩を世に知らしめた。自殺は、苦悩の強力な証拠である。太宰は、死んで、人々との間に安全な距離が生まれたがゆえに、人々は安全に太宰の苦悩に触れられるようになった。人々は生きた痛みには向き合えない。人々は死んだ痛みにしか向き合えない。死ねば、周囲の人々と、安全な距離を作ることができる。死ねば、周囲の人々に、苦悩を知らしめることはできる。私は死ぬことで、初めて、その姿を見てもらえる。
死のう。死んで、見てもらおう。
お祈り程度に、作品は印刷して、机に置いておくことにしました。文章を理解されないどころか、読まずに捨てられる可能性も十分にありましたが、やらずにおくよりはマシだろうと思いました。それだけです。私の内面が理解されることは、もはや望んでいません。生者に都合のいい物語を作られることも、受け入れるつもりです。ただ、身近な人々に、私が本気で苦しんでいたということだけが伝われば、それでいいのです。死はそれを叶えてくれるはずです。それだけは、叶えてくれるはずです。
博士号なんて待ってはいられません。もう、耐えられませんでした。無理でした。どのみち死ねば、何も意味などなさないのです。私は夜の八時に、ドラッグストアに走り、ハシゴして、致死量の錠剤をかき集めました。錠剤の名前は、秘密です。
準備は思いの外、簡単にできました。
はい、というわけで、ここまでお付き合いいただき、どうもありがとうございました。
それでは、皆さん、さようなら。