笑い話
第十五章
四月から、私は廃人になりました。それまでは、もっと、色々なものに追い立てられていたような気がするのですが、もう、なんの感情も動きません。
親の言いつけにより、私は栃木の実家で過ごすことになります。朝七時に起きて(私の家では、その頃に朝食が用意されるのです)、吐き気を我慢しながらレタスを食べ(私の家では、必ずレタスが出されるのです)、掃除機の騒音に怯えながら、再び寝て、十二時になると吐き気を我慢しながら昼食を食べ、三時に吐き気を我慢しながらおやつを食べ、認知症の祖父の怒声に怯えながら、六時に吐き気を我慢しながら夕食を食べ、吐くことのできないまま、吐き気と、それから、謎の頭痛と寒気に耐えながら、家族の足音に怯えつつ、夜の九時に就寝します。(この頃から、なぜか、毎晩きっかり七時に、吐き気と頭痛と寒気が現れるようになっていたのでした。)そして再び、次の日の朝の七時に起床し、同じような一日を過ごします。ご飯とご飯の間の時間に、何をしていたのかは、覚えていません。本当に、記憶がないのです。どれだけ思い出そうとしても、その部分の記憶だけが、ごっそり、欠落しているのです。
昔は、廃人になることを、極度に恐れていたような気がします。廃人どころか、趣味がなくて、休日はぼーっとしてるしかないんだよねという若者にでさえ、恐怖とも軽蔑ともつかない感情を抱いていました。それが、今はどうでしょう。私は、その若者未満の存在に成り果てました。しかし、いざ自分がその立場になると、意外にも、残念な類の気持ちは少しも湧いてこないものです。いざ廃人になれば、自分が廃人であることを認識する能力が弱まり、何も感じなくなるのかもしれません。自分を客観視する能力を失うというのは、なるほど、ずいぶんと幸福なことなのかもしれません。
五月ごろに、創作を再開しました。一週間ほど編み物に熱中し、クラゲのぬいぐるみを十二体作って、その後、興味を失い、小説の執筆を始めます。研究所を舞台にした、思想劇を書きました。研究によって病んだというのに、それでもなお、研究の話を書くなんて、私は一体、何に執着していたのでしょう。
創作はやはり、あの頃と同様、私を高揚させました。時間の感覚が歪み、まるで酔っているような感覚になりました。説明のつかない快楽物質が、脳の奥から、とめどなく溢れてくるようでした。なんとなく、体温も上がっていた気がします。とはいえ、全盛期のような集中力は続かず、私は、一日に五時間だけ、創作をします。創作以外の時間は、すみません、ほとんど記憶がないので、とりあえず寝ていたということにしておきます。
創作は優秀な興奮剤でしたが、それでも、夜間に現れる謎の体調不良を消すことはできませんでした。立っていることも、座っていることも、布団の中でスマホを見ることすら、つらく、ただ眠るまで、じっと耐えることしかできなかったのです。
私は内科に行きました。実に高校生ぶりの内科です。乳児の頃から世話になっていた、馴染みの小さな病院に行きました。老人しか来ない、本当に、小さな病院です。そこの院長は、私の子供時代をよく知る医師であり、私の現在の状況に大いに関心を示しました。体調不良云々より、私が東工大の博士にまで進学したことが、面白かったようです。(院長は高学歴の人間が大好きなのです。)
私がメンタルを崩して休学中であることを言うと、院長は、なんでそんなことになっちゃったかなあ、こんなに成功してるのになあと、しきりに不思議がりました。
そんなの、知りません。私の方が、知りたいくらいです。私はなぜ、こんなにも死にたいのでしょう。なぜ、こんなにも、不幸を感じるのでしょう。
私は精一杯、頭を回転させて、いつか読んだ自殺学の教科書の内容を思い出し、自殺は複数の要因が重なって起きるらしいですから、一つの要素に理由を求めるのは危険らしいですよと言いました。それから、もう一段階、頭を回転させて、私の場合は、博士までに蓄積したストレスと、プレッシャーと、燃え尽きと、双極性障害と、人間関係と貧困が重なったからかもしれませんと、説明しました。その中でも特に、双極性障害のところを強調した気がします。私が死にたいのは、悲劇によるものではなく、ただの脳内物質の異常なのだと、何度も言いました。それでも院長は頭を捻り続け、なんでだろうなあと呟き、最後には、こんなに元気そうなのになあと、わけのわからないことを言いました。
私は、内科医というものを、高く見積もりすぎていたようです。院長も結局、わかりやすい物語を求める、人間という生き物の性質をただなぞるだけの存在でしかなかったのです。
私はその後、血液検査と胃カメラ検査を受けますが、結局、どこにも異常は見つかりませんでした。私の肉体は健康そのものだと言うのです。これには困りました。異常がないのなら、どうやっても、対処できないではありませんか。私はその後も半年間、謎の寒気と頭痛と吐き気に耐えることになります。修士の頃の私が見たら、この体調不良を、羨ましいと思うでしょうか。
院長は診察の終わりに、私の研究内容を聞いてきました。私は自分の研究を説明し、どんな学会に出ているのかという院長の質問にも丁寧に答え、最後に、こんなに才能があるのにもったいないなあと言われ、家に帰されました。才能、とは、一体なんでしょう。私とは、単なる才能の器なのでしょうか。私に才能がなければ、私は、一体、どうなっていたのでしょう。
第十六章
七月になると、私は少しずつ論文を読むようになり始め、八月あたりには一人暮らしを再開し、九月の中ごろに教員と復帰に向けての面談をして、十月には、見事復学を果たします。動ける時間は、昔に比べて、ずっと短くなっていましたが、それでも、研究をやれるだけの体にはなっていました。
私は退学を選ばず、二度の休学をして、なお、大学にしがみつきました。もう、後戻りはできません。できなく、なってしまいました。
復学後の調子は、どうだったでしょう。滑り出しは、好調でした。これまでの実験結果をまとめて、雑誌投稿用の論文を書こうという話になったのです。論文執筆、アウトプット、私の得意分野です。医者には「無理だけはしてはいけない」と言われていましたが、私の体など、とうに無理のできない肉体になっていましたから、無理のできない中で、最大限の力を使って、執筆に取り組みました。最大限の力を使ってもなお、全盛期の平常時のパワーには、到底追いつきませんでした。
しかし、二週間ほど経ったあたりからでしょうか、私は、得意なはずの論文執筆すら、できなくなっていきます。手が止まり、休学中の後遺症でしょうか、創作のことで頭がいっぱいになってしまうのです。もっと悪い時は、ただただ、眠くなってしまうのです。創作のことを考えて、寝て、わずかな時間で論文を進める、そんな有様でした。
いつだったか、カフェに行くと研究の作業が捗ることを発見したので、五百円払って、なんとか創作と眠気を頭から追い出し、無理やり手を動かして、三時間分の進捗を手に入れます。ですがこの作戦も、徐々に効かなくなっていきます。カフェの中でも、ぼんやりしてしまうのです。貧困の中、五百円もの大金を払っているというのに、です。
気づけば私は、逃げるように、創作に走っていました。創作だけは、どこまでもできるのです。論文をほったらかしにしている強烈な罪悪感はあるというのに、それでも私は、創作から離れることができませんでした。中毒になっていたのです。論文に当てる時間は、一日の中の、ほんの僅かな間だけになっていました。それでも指導教員に、何か言われることはありませんでした。病み上がりだからと、大目に見てもらえていたのでしょう。私は、創作に飲まれながらも、一丁前に、本当ならもっと素早く大量に進捗が出せていたのにと嘆く気持ちがあったものですから、指導教員の甘い目には、情けなさが込み上げてきて仕方がありませんでした。
遠藤くんは、いつの間にか博士課程に進学し、関西の大学へと移っていました。彼は週に数回のビデオ通話で、新天地での活動を語ってくれました。
彼は、新しい知識を、順調に吸収しているようでした。一方で私は、知識の習得など、少しもできません。彼は、新しい同僚と、順調に仲を深めているようでした。一方で私は、今の研究室でも孤立しています。彼は、大学や研究室のイベントにも、積極的に参加しているようでした。一方で私は、ゼミと実験以外で大学に行くことなど、ありませんでした。
なんと、情けないことでしょう。あまりの情けなさに、私は泣きたくなりました。ただただ絶望の淵に沈んで、己の惨めを、嘆きたくなりました。ですが、目の前の画面の中にいるのは、未来ある若者なのです。未来ある若者に、醜悪な絶望の感情をぶつけるなど、できるはずがありません。私はお道化の笑顔を張り付け、彼に祝福の言葉を送りました。吐き気が襲ってきて、長時間の通話ができなくなりました。ここから私は、自分はひょっとしたら、研究の世界に居場所などないのではないかと、察し始めます。
ところで、東工大では、博士課程になっても授業を受けなければなりません。授業といっても、数学の知識を教わるといったお勉強的なものではなく、説明が難しいのですが、アカデミックな場での発表の方法論を教わったり、博士人材のキャリアを教わったりなど、研究の世界で生き抜くための知恵を授かるというような類のものです。要は、一般に想像されるような授業とは毛色が違うのです。
その中の多くでは、いわゆる、グループディスカッションというものをこなす必要があるのですが、これには大いに困りました。というのも私は元々、グループでの活動が苦手だった上に、この頃には、議論という形式で見知らぬ人と話すことが、極度に恐ろしくなっていたのです。(考えるだけで、動悸と指の震えが止まらなくなりました。)私は博士二年目の後期になって、ようやく、合理的配慮というものがあることを知り、ディスカッションを免除してもらう代わりに、追加のレポートを提出するようになりました。
授業の一つに、研究者として活躍している「先輩」を呼んで、講演をしてもらう形式のものがありました。これです。これが、私の精神を、急速に削っていきました。
研究者というのは、どうやら、成功のルートが極端に狭いらしいのです。皆、オリジナルの物語を語っているようで、同じことしか言いません。要は、学振が採択され、海外で活動した実績を作り、積極的なコミュニケーションにより、研究者のネットワークを作ることが成功の条件だというわけです。研究は寝食を忘れて没頭するものだという、根性論を持ち出す名誉教授すらいました。そしてやはり、皆、科学への好奇心が大事だと言うのでした。
博士課程で研究室を移り、不調も重なったことで、学振の採択に悩むどころか、申請することすらできなかった私は、どうなるというのでしょう。月に一回の通院が必要で、海外に行くどころではない私は、どうなるというのでしょう。研究室で孤立し、合理的配慮に頼らなければならないほど、人とのコミュニケーションがうまくいかない私は、どうなるというのでしょう。寝食を削れば、簡単に衝動が湧き、命が危うくなる私は、どうなるというのでしょう。科学への好奇心、いや、それどころか、あらゆるものへの好奇心を失った私は、どうなるというのでしょう。
毎週毎週、同じような話を聞かされ、その度に自分の無能を再確認し、ついに私は、自分は研究の世界にいてはいけないのだという確信を得ます。博士号だけはとろう。でもその後は、研究の世界から離れよう。しかし、研究の世界から離れて、私は生きていけるのだろうか。一日中、寝てばかりの人間に、八時間オフィスで働き続けなければならないという、普通の社会人の生活ができるだろうか。
無理だ。
私は、博士号をとった瞬間に、自殺することを決心します。