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笑い話

​第十三章

 今まで、動けていた方がおかしかったのです。
 布団から、起き上がれません。寝返りも、うてません。指一本動かすのすら、億劫です。
 動こうと思えば、動ける気がします。ですが、なんだかやる気が出ないのです。白い天井を見ていると、やっぱり修士の頃に死んでおけばよかったかなと、無感情に後悔の念が湧いてきます。今はもう、死ぬ体力すら、なくなってしまったのです。
 神奈川に来て、生活水準は一気に下がりました。つくばに比べれば、神奈川の家賃はどこも高いですから、安い部屋を探そうと思うと、必然的に水準は下がるのです。とにかく部屋が狭いので、私は、電子ピアノと、書籍のほとんどすべてを手放しました。手元にあるのは、数冊の教科書だけです。私は、文化を失いました。
 神奈川は物価が高いです。かつて二百円ほどで買えた卵は、今では三百円以上出さなければ買えません。何か見落としがあったのかもしれないと、私は何度も、舐めるように卵のコーナーを見ましたが、何度見ても、一番安い卵で、三百円は出さなければならないのです。肉も高いです。野菜も高いです。納豆だけは安かったので、私は、白米と納豆だけを食べるようになりました。
 神奈川は、空が狭いです。川もありません。森もありません。そのくせ、飛行機だけは、やたらと近くを飛びます。知らない人もいるでしょうが、筑波大学は、森に囲まれていたのです。運動不足対策と称して、そこを散歩することが、私の、焦燥の中での、数少ない、安らげる時間だったのです。しかし神奈川は、どこを見ても、コンクリートです。しかも、東京のいくつかの街のような、なんらかの突出した個性を持つわけでもありません。見ているだけで全身の全感覚が鈍っていくような、パッとしない人工物に囲まれて、頭が、おかしくなりそうでした。
 創作も、やめました。やる気が出ませんでしたし、やってはいけないとも思ったのです。創作なんかより、ずっと、もっと、他にやるべきことがあると思いました。そのやるべきことをやっていないうちは、創作になど手を出してはいけないと思ったのです。とはいえ、そのやるべきことが、具体的になんなのかは、よくわかっていませんでした。
 買い物をして、トイレに行って、白米を食べて、二日に一回、シャワーを浴びる。それ以外の時間は、ずっと、布団の上で天井を見ていました。
 八日です。よく覚えています。四月の八日から、新しい研究室のゼミが始まるのです。それまでに、立て直さなければならなかったのです。結果から言えば、ゼミに行くことはできました。ですが、その時の私の顔といったら、それはもう、ひどいものだったはずです。死んだ目で、表情筋は下がりきり、すべてを呪うような空気を、醸し出していたに違いありません。それでも、魂の奥深くまで染み付いた道化精神はここでも発揮され、いざ自分が発言する番になれば、笑顔ではきはきと、口を動かすことができたのでした。腐っているとしか思えない自分の性質に感謝した、数少ない瞬間でした。新しい研究室の人々は、気のいい人たちばかりで、事務的なコミュニケーションで困ることはまずありません。仮に問題が起こったとすれば、それはすべて、私が悪いのです。
 研究室から帰った私は、すぐに布団に横になりました。起き上がっていることなど、とてもできませんでした。本当は、勉強しなくてはならないのに、です。新しい研究室に来たのだから、当然、新しく学ぶべきことは山ほどありました。それに、本来なら、新しい指導教員ともっと積極的に、今後の話をすべきでした。ですが、身体が動かないのです。きっと指導教員には、ちょっとやる気のない学生として、見られていたのではないでしょうか。ああ、皆に、修士の頃の働きぶりを示せたら、どんなによかったことでしょう。悔しさに涙が出てきました。実に小学生ぶりの、涙だったと思います。
 四、五月中に、奨学金の申請の締め切りもありましたから、私は、布団の上で横になりながらも、書類を書こうとしました。ですがどうやら、どの奨学金も、修士と博士で同じ研究を続けていることを前提としているのです。博士で研究室を変えた私は、どう頭を捻っても、書きようがありません。それに奨学金のほとんどは、博士の初年度にしか申請できないというのです。申請が通ればいいな、どころではありません。私は、申請することすらできなかったのです。私は、制度に見放されました。
 新しい研究テーマを決めるために、布団の上で、私は論文を読み漁ります。しかし、一向に文章が入ってきません。音読はできます。単語の意味もわかるのです。ですが、文章の意味が、さっぱりわかりません。ここで思い出しました、そうです、私は、研究においては有能であっても、勉学においては完全なる無能だったのです。
 私は急に、恐ろしくなりました。私は、自分の能力を勘違いしたまま、ついうっかり、頭のいい集団の中に入り込んでしまったのです。ああ、どうして、入試の段階で落としてもらえなかったのでしょう。ですがもう、博士を辞めるには遅すぎました。引っ越しを終え、入学手続きを終え、昔の指導教員に笑顔で送り出され、新しい指導教員に笑顔で迎え入れられ、今更、どうすればいいというのでしょう。
 頭に入っているのか、入っていないのか、わからないままに、一ヶ月ほど、ただひたすらに論文を読み続け(頭に入っているのかもわからないのに、読むという動詞を使うのもおかしな話です)、五月の面談で、私はついに、研究テーマを決めることに成功します。大まかな方向性は指導教員と一緒に話し合って決め、最終的なテーマと実験の内容は、私が考えたのです。そうです、自分で思いつくことが、できてしまったのです。インプットはボロボロでも、アウトプットはどうにかなるのが、私という人間なのでした。私はまた、自分の無能を隠しながら、皆を騙す形で、有能な人間の外皮を得るのです。
 大学の多くの人間は、学生とは、「勉強はできるが研究ができない者」と「勉強も研究もできる者」に二分できるものだと思っているようでした。筑波大に比べ、東工大は、特にそのような考えが強く存在していたように思います。では、私のように、「研究はできるが勉強はできない者」はどうなるでしょう。少なくとも私の場合は、いくら口で自分の無能さを説明しても、ただ謙遜しているだけなのだと思われ、その性質をないものにされました。私の本来の性質は消され、私は、人々を騙し続ける生活を、余儀なくされるのです。
 私は恐ろしくて仕方がありませんでした。いつ自分の無能が「本当に」明らかになり、「本物の」失望をされるか、考えただけで、息が苦しくなりました。自分で自分の無能を説明し、それが納得されることは、問題ないのです。私が本当に恐れたのは、他人が、まさか本当に無能なわけがないだろうと信じた上で、私の絶対的な無能の根拠を発見し、静かに、絶対の確信とともに、失望していくことだったのです。
 実験の内容が決まり、自分で手を動かす段階になると、私は一時的に加速します。ですが、すぐに失速します。どうも、体力がもたないのです。皆が働いているはずの、平日の昼間に、私は何時間も寝ました。夕方になって、起きて、深く後悔して、ぼんやりと、輪っかにしたロープを手に持って、眺めました。死ねたらどれだけいいだろうと思いながら、死ぬ気力はありませんでした。
 遠藤くんとは、週に数回、通話をしました。さらに、月に一、二回、電車に乗って会いに行きました。私は、彼に弱音を吐いたか、あるいは不調を隠し通したか、まったく記憶がありません。多分、まったく弱音を吐かなかったということはないだろうと思います。ただ、このあたりのタイミングで、いくらかのお道化が発動したことは、薄ぼんやりと覚えています。新しい場所で成功していると思わせたいという、いくらかの見栄が発生したことも、なんとなく覚えています。多分、努力をして、明るく振る舞ったと思います。そうでした、ここから私は、彼に対しても、道化の仮面を被るようになったのでした。
 研究では結局、その年の夏に、実験データが揃いました。この頃になると、もはや寝ることが一日のメイン行事となっていましたが、それでも、ちまちまと研究を進めてはいたので、最低限の出力はできたのです。実験データから、発表に耐えうるだけの面白い傾向が読み取れたのは、誠に幸運であり、その一点の幸運によって、助けられた形なのは間違いありません。私の堕落は、幸運によって見逃されたのです。国内のとある学会に出そうという話もあがりましたが、その学会の入会費は一万円もするというので(しかも研究室から資金が出るわけでもなく、自分で払わなければならないというので)、その話は断念しました。私にはお金がありませんでした。
 金の切れ目が縁の切れ目という言葉を、強烈に意識したのは、この頃でした。ある時、私はカホちゃんとマキちゃんに、実に数ヶ月ぶりに、東京での遊びに誘われるのです。彼女たちは二人とも、修士を終えたタイミングで、就職していました。数ヶ月ぶりに会った二人は、妙に洒落た、都会に馴染んだ格好をしていました。それは学生の頃とは、明らかに違う服装でした。
 私は一瞬で、彼女たちとの身分差を理解しました。そしてすぐに、刺すような恥の感情に支配されました。彼女たちに比べて、私の服装の、なんと見窄らしいことでしょう。彼女たちの服の滑らかな質感に対して、私の褪せたシャツの、なんと惨めなことか。さらに悪いことに、私がこの日に着ていった服は、比較的「マシ」な部類の服だったのでした。
 私は理解しました。彼女たちはいまや、自らお金を稼ぎ、自らの力で豊かな生活を作り出す立場にいるのです。それなのに、私ときたら、どうでしょう。二十五になってもなお、親に寄生し、親の管理下で、少額のお小遣いで、貧相な(しかも自堕落な)生活を送っているのです。この時ほど、自分が女性でないことに感謝した日はありませんでした。もし私が女性であったら、きっと、もっと露骨に、悲しいくらいに、階級差が可視化されていたことでしょう。
 さらに恐ろしかったのは、ランチとおやつの時間でした。二人は、二千円以上もするランチと、八百円以上もするケーキに、なんの躊躇もなく、お金を出したのです。いえ、遊ぶとなった時点で、いくらかの出費は覚悟していましたから、出費それ自体は良いのです。私が恐ろしかったのは、彼女たちの、その躊躇のなさでした。(思い出してください、私は三百円の卵にすら、お金を出すことのできない人間なのです。)
 階級だなんて、そんな概念に縛られることが、いかに低俗で愚かなことであるか、私はわかっているつもりでした。しかし、いざ自分が「下側」として位置付けられた時に、それを意識せずにいることは不可能だったのです。私は、低俗で愚かな人間だったのでしょうか。それとも、それを低俗で愚かだとみなすことこそが、愚かだったのでしょうか。
 金の切れ目が縁の切れ目という言葉は、実に正しい言葉だと思いました。この社会で大人たちが遊ぶには、どうしたって金が必要なのです。そして、その事実に直面した、金のない側の人間が、勝手に惨めを感じて、一人、去っていくのです。もしかしてこれも、常識だったのでしょうか。私はこの事実を、この時になって、初めて知りました。
 貧乏を表明することの、なんと難しいことでしょう。金がないと表明することは、ただ自分の惨めさが露呈するだけではないのです。場を、猛烈にしらけさせる効果があるのです。あらゆる遊びには金が必要です。金がないと表明することは、私にはその遊びができないのだと告げることであり、私と一緒に遊ぶあなた方も、その遊びができないのだと告げることになるのです。
 私は先手を打つように、お決まりの道化の笑顔で、「俺、貧乏学生だからさ」と何度も言いました。しかしそれが、どの程度の効果を持ったのかは、わかりませんでした。帰ってから、私は、布団に沈み、遊びに行ったことを深く後悔しました。なけなしの自分の価値は一瞬にして崩れ、生きていることが、ただただ苦痛に思えました。ロープは相変わらず、輪っかの形のまま、部屋の隅に置いてありましたが、そこまでのことではないと、自制しました。いえ、単に、気力がなかっただけかもしれません。
 その後、数日間、私は布団の上から動けなくなりました。私は愕然としました。こんな、ただ友人と遊んだ程度のことで、動けなくなるほど、自分が弱くなっているだなんて。私の精神は、いつの間にか、吹けば飛んでしまうほどに脆弱なものとなっていたのです。いえ、あるいは、元から私の精神というものはひどく弱いもので、それがやっと露呈しただけの話なのかもしれません。私は何を恨めばよかったのでしょう。消費を通してしか人とつながることを許さない、この社会の構造でしょうか。私の「貧乏学生だから」という言葉を無視し、高級レストランに真っ先に向かったカホちゃんとマキちゃんでしょうか。それとも、お金がないことを曖昧にしか表明できず、そもそも遊びを断ることもできず、ただへらへらと笑うことしかできない、そのくせ自分の惨めさだけは一丁前に嘆く、自分自身でしょうか。



第十四章

 さてさて、ここからどんどん、極まっていきます。気づけば私は、身の回りのものすべてが、自殺のための道具に見えるようになっていたのです。公園の木は、ロープを引っ掛けるのに、とても良い形状をしています。踏切があります。自動車も、走っています。大学に行けば、高層ビルなんかもございます。
 いつか本当に死にたくなった時のためにと、エンディングノートなんかも用意したりしておりました。皆さん、エンディングノートが何か、ご存じでしょうか。自分が死んだ後に遺族が困らないように、各種手続きをまとめておくノートでございます。私なんかの場合は、財産なんてものはありませんから、デジタルデータの処分方法やサブスクリプション、死んだ後に連絡をしてほしい人の一覧なんかを書くわけです。(この一覧、遠藤くんと指導教員は入れましたが、カホちゃんやマキちゃんは入れませんでした。)
 そして、ついについに、やってきました。十一月の末、私は、自殺を試みます。きっかけなんてのは、本当に、些細なものです。隣の研究室の教員に、三十人の前で、私の研究発表を詰められたという、たったそれだけの、ごくごく小さな出来事でございました。
 私の研究室では、月に二回、隣の研究室と合同でゼミを行うのです。そして、私は十一月にその担当に選ばれ、研究の内容を発表したわけです。ええ、私はインプットがひどくても、アウトプットはどうにかなる性質でしたので、今回も、そうひどい結果にはならないだろうと鷹を括っていました。ですが、現実は無情! 結局、ひどい結果になったのでございます。内容は、思い出したくないので、すいません、省略させて、いただきます。
 私はついに、自分の無能が暴かれたのだと思いました。ついに誤魔化しの効かないフェーズにやってきたのだと思いました。やめちまえ、大学院なんて、やめちまえ。大学院なんて、自分程度の人間がいていい場所ではなかったのだ。けれど、面倒を見てくれている指導教員に、やめますなんて言いづらい。期待して、ここまでお金を出してくれた親に、やめますなんて言いづらい。博士課程にいる私をなんだかすごいものだと思っている、カホちゃんやマキちゃんにも、言いづらい。どうやら来年博士課程に進もうとしているらしい、遠藤くんにも、言いづらい。それなら死んで、すべてから逃げよう。そうして私は、ドアノブにロープを括って、首吊りを試みたわけでございます。
 死というものは、死として捉えると、怖くも、悲しくもないのです。ですが、すべてのものとの別れと捉えると、急に、深刻なものに思えてくるのです。私の机には、高校の時にスーパーで買った、カービィのフィギュアがありました。よだれを垂らしながら、ぽんにゃりと寝ている、とっても可愛らしいフィギュアでございます。あの子と別れることになるのかと思うと、なんだか無性に悲しくなって、自然に、鼻水と涙が流れてきたのでした。
 私はそれなりに健闘します。首に体重をかけて、意識が飛ぶ直前までは、いけたのです。ですが不思議な力によって、あ、本当に、やばいかも、というところで、体勢を戻してしまうのです。何度か繰り返しましたが、やはり、不思議な力に阻まれます。三時間ほど格闘したところで、もう今日は無理なのだということを悟り、また明日やろうと、リベンジマッチを誓います。泣き疲れた私は、電気をつけたまま、そのまま夜中まで泥のように寝て、明るい部屋の中で後悔とともに起床し、シャワーだけ浴びて、軽い頭痛を感じながら、今度は電気を消して、ごく浅い眠りについたのでした。
 その後も何度か試みましたが、やはり、毎回毎回、不思議な力に阻まれてしまいます。私には、てんで死ぬ才能が、ないのでございました。
 ところで、世の中には、人と人との繋がりが大事だという言説がございます。孤独は健康に悪いものであり、幸福には人間関係を保持することが絶対であるという、あれでございます。私にはこの言説の正当性が、甚だ疑問なのです。と言いますのも、私は、誰かと一緒にいればいるほどに、不幸になっていっている気がしてならないのです。
 意外に思われるかもしれませんが、ここまで落ちぶれてもなお、私は完全に孤立しきったわけではなかったのです。遠藤くんとは関係が続いておりましたし、なんと、カホちゃんが、こんな有様になっても、私を遊びに誘い続けてくれていたのです。高校時代の友人とも、本当に、ごくまれにですが、連絡を取り合って、会う機会がありました。精神科にも通っておりましたし、親とラインでやり取りすることもありました。
 ですが、不思議なことに、彼らと言葉を交わした後、私はきまって、布団で寝込んでいたのです。それだけではありません。さらに不可解なことに、彼らと話した後は必ず、私の頭の中は、世界に対する恨み言でいっぱいになっているのです。あらゆる人間、事象が、憎くて、憎くてたまらず、最終的にその憎しみは自分に向かっていき、気づけば、ロープを握っていたのです。誠に、不可思議な現象でございます。
 なんて、しらばっくれてはみましたが、原因はわかりきっているのです。原因は単純、道化の外し方がわからなくなったという、ただそれだけのことなのです。そうです、いつの間にか、私は、本心を表明する方法を、きれいさっぱり忘れてしまったのです。悲しみも苦しみも、どのように表現すればいいか、もはやまったくわかりません。この頃の私はと言えば、ほとんど苦しみだけで構成されているようなものですから、苦しみを無きものにすることは、すなわち、自己を消すことと同義なのです。自己を消しながら笑っていれば、それはまあ、疲れるというものです。疲れ果てれば、恨みの一つも出てくることでしょう。
 苦しみを表すには、眉を下げて、声のトーンを下げて、目線をわずかに下にやって、ぼそぼそと、小声で喋ればよいのでしょうか。いやいや、そんな、照れてしまって、どうしようもありません。そんなことをしたら、最後まで話し終わるよりも先に、笑いが込み上げてきてしまいます。それに、遠藤くんも、カホちゃんも、高校の友人も、精神科医はどうか知りませんが、沈んだ私など望んでいませんから、これで万事、良いのです。
 皆さん、ご存知のことでしょうが、感情を受け止めるのにも、道化の顔と声を作るのにも、それなりに体力を使います。疲れるならやらなきゃいいじゃないかと、思われるでしょうか。それは玄人の発想です。私には、やらずに済むやり方がわからないのです。そんなわけで、人間関係なんてものは、体力をただいたずらに消費するだけのものでしかありませんから、むしろ、ゼロにした方が、健康に思われるのです。
 しかし、ここからが本当の不幸なのですが、ご察しの方もおられるでしょう、私には、断るという能力が存在しないのです。そもそも、断るという選択肢が、最初から消去されているのです。他人に「それは断った方がいいんじゃない」と言われて、初めて、断るという選択肢が頭に上ってくる有様なのです。そして選択肢に上がれば断れるかと言えばそんなこともなく、断りの文句を考えようとすると、途端に、まるで至近距離にヒグマが現れたかのような、もはや本能的としか言えない類の恐ろしさに飲まれてしまい、結局、断るくらいなら我慢した方がいいという具合に、思考が流れてしまうのです。
 カホちゃんと一緒にいる時の私ほど、滑稽な人間はいないでしょう。カホちゃんが、コナンにほにゃほにゃというキャラクターがいて、ほにゃほにゃという行動をして、どう、やばくない? と言うのに対し、私は、口角を上げて、へぇーやばいね! と言うのです。やばくない? かわいくない? すごくない? おもしろくない? いずれに対しても同意を続けたことで、いつしか私は、カホちゃんの中で、なんと、コナンが好きな人ということになっておりました。(本当はコナンを強く嫌悪しているというのにです!)そして、いざ私が、少しくらいならいいだろうと、自分の話をしようとすると、「暗い話はやめよ!」と笑顔で遮られ、再びコナンの話に戻ります。これにも私は、お決まりの道化の笑顔で応じてしまうものですから、結果として、傍目にはお似合いのカップルが出来上がるのです。同意の強要、共感の押し付けを断れないがゆえの、悲劇でございます。
 遠藤くんには、別種の道化が発動します。彼にはできるだけ、自分を見せない方向に、努力が向いたのです。と言いますのも、少しでも気を抜けば、彼にどっぷり、深くまで依存することが目に見えていましたから、本気の弱さなんかを口にしてしまえば、壊れた水道管のごとく、私の口は止まらなくなり、それこそ、一巻の終わりだと思ったのです。希死念慮のことは、言うには言った気がするのですが、それは何十倍にも薄めて伝えたものだったと記憶しております。それでも十分、彼にとっては重い話だったに違いありませんが、私は、一応、遠慮というものをしたのです。遠藤くんには遠藤くんの人生がありますから、私ごときが、未来ある若者の邪魔をしてはならないのです。なんて言いつつ、一ミリでも希死念慮の話をした時点で十分邪魔になっているぞと言われてしまえば、はい、返す言葉もございません。
 人間関係は、私を削ります。研究も、私を削ります。研究以外の大学の業務も、私を削ります。貧乏が、私を削ります。希死念慮が、私を削ります。孤独は、どうでしょう、毒なのか、救いなのか、もうよくわかりません。
 精神科に行っても、どうにもなりません。大学のカウンセリングルームに行っても、どうにもなりません。遠藤くんのラインに、死にたい、助けてと、メッセージを打ってみるものの、やっぱり最後には消してしまって、どうにもなりません。限界を感じて通話ボタンを押そうとしても、指が固まってしまって、いやいや、やっぱり、どうにもなりません。
 そしてそして、一月のとある日、私はついに、「あるもの」を手に入れることになるのです。それはもう、何年もの間、喉から手が出るくらいに待ち望んだものでございます。あるものとは、一体なんのことでしょう。答えは、そうです、典型的な、うつの症状です。うつの症状を、手に入れたのでございます。典型的であることが重要なのです。食欲がなくなりました。強烈な倦怠感が現れました。努力しても睡眠がうまくとれなくなりました。そして何より、涙が、止まらなくなりました。
 私は症状を確信した瞬間、心の中で、力強く、ガッツポーズをいたしました。ガッツポーズをして、飛び上がって、その場でくるりと、一回転いたしました。これでようやく、私は、胸を張って病人だと言えるようになったのです。私はもう、医者の前でびくびくせずに済むのです。死にたいと言っても、信じてもらえるかな、死にたいなんて、大袈裟かな、自分の苦しみって、もしかして全部、気のせいだったのかな、なんて、くだらないことに、おどおどしなくて済みます。もう「脳みそを蛆虫が這い回る」だなんて意味不明なポエムを言わずに済みます。食べれない、眠れない、涙が止まらない。これだけで、もう、十分になったのでございます。
 病人としての強力な通行手形を手に入れた私は、次年度から、二度目の休学に入ります。この時の親の、菩薩めいた憐れむような表情といったら、なんとも不気味で、滑稽なものでした。人はわかりやすいものに対しては、わかりやすく同情するのです。わからないものには、同情しないのです。(つい当たり前のことを言ってしまいました。許してください。)
 正直に言えば、修士の頃の衝動の方が、何倍もつらいものでした。しかしそれでも、博士の苦しみが嘘だということにはなりませんので、私は、半年間の休みを受け入れます。実際、首吊り未遂は習慣になっておりましたし、だるさとわけのわからない悲しみのせいで、研究をするどころではありませんでしたから、こうする他なかったのです。
 休学の申請のために、医師から診断書というものをもらうのですが、ここで初めて、私は自分の診断名を知ることになります。双極性障害。ちょろりと、そんなふうに、書いてありました。なんだ、医者って、意外と俺のことを見ていたんじゃないか。私はこの時になって初めて、ちょっぴり、主治医のことを、見直しました。

 

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