笑い話
第十章
多分、学部の三年頃の話だったと思います。私は連日、床をのたうち回っていました。死にたくて死にたくて、ほとんど正気でいられないのです。
中学から高校の間に味わった、脳味噌の表面を大量の蛆虫が這い回るような感覚は、以前よりも激しい形で現れました。死ななければ死んでしまうという、わけのわからない衝動が、頭の中を常に暴れるように渦巻いていました。やはり首を絞めることで、衝動を抑えようと試みるのですが、その効きは日に日に薄くなっているようでした。電車でも、トラックでも、とにかくなんでもいいから、早く俺の肉体を破壊してくれと、強く望むようになりました。かつて甘い蜜に思えた死というものは、いつしか、空腹の中のご馳走にまで、格上げされていました。
シャワーを浴びていると、ふと、Hの荒い息遣いが蘇り、気が付けばホースで首を絞めていました。自転車で買い物に行くと、気が付けば、車道の自動車たちの領域に、吸い寄せられるように傾いています。今になって思えば、異常な状況です。即刻、精神科にかかるべきでしょう。しかし、当時の私にとっては、このような衝動は中学高校時代から長く味わってきたものの延長でしかなく、特段、対処するようなことではないと思ったのです。
そして、今になって思えば不幸なことですが、当時の私の肉体は、まったく健康でした。睡眠こそ乱れていましたが、食欲不振も、倦怠感も、胃痛も、頭痛も、熱も、吐き気も、なんの症状もなかったのです。それに、睡眠の乱れは私があえて選んだものであり、つまり、睡眠ですら完全にコントロール下にあったわけです。このことが、私を病院から遠ざけました。
学部四年で、私は研究室に配属されました。ここから世界は、まるきり変わります。私が所属した研究室の人々は、恐ろしいほどに静かで、穏やかであり、私がこれまでに晒されてきたような野蛮な価値観というものは、嘘のように少しも存在せず、立ち上がる話題といえば研究に関することのみで、俗な欲を見せる人など誰もおらず、そういう目で見られるのではないかと身構えた私の方がかえって恥ずかしくなるほどでした。そうです、男性しかいない環境にもかかわらず、私は、少しの恐怖も感じなかったのです。
そしてここから、私は奇妙に認められていくことになります。私はどうやら、研究に適正があったらしいのです。指導教員は、初期の頃から私を異常に褒めました。指導教員の中で、私は「有能な人間」になったのです。私は、この老人は何か致命的な勘違いをしているに違いないと思い、本格的に失望される前に、早く、無能な側面を見せなければならないと焦りましたが、結局、最後まで、教員の認識が変わることはありませんでした。
研究は楽しくて仕方がありませんでした。テーマこそ教員から与えられましたが、手を動かせば動かすほどに、考察の材料がたまっていくことが、ひどく面白かったのです。材料をまとめて、考察し、文章にまとめる、この一連の作業も、私に大きな快感をもたらしました。私の体感時間は加速していきました。私はさらに、眠らなくなっていきました。
希死念慮(自殺衝動と言った方がいいでしょうか)はさらに極まり、一日の中の、床でのたうち回る時間はさらに増えました。これは研究を進める上で邪魔でした。学部四年の夏になってようやく、私は効率化のために精神科に行き、衝動を消そうと試みます。ですが、当時の私の躁的な精神状態のせいか、身体症状の薄さのせいか、あるいは、内臓の奥深くまで染み付いた道化精神が、診察室でも発揮されたせいか、医者には、まったく深刻ではないものだと判断されました。ごくごく効き目の小さい錠剤だけを渡されて、私は家に帰されたのです。錠剤を飲み始めた最初の三日間は、視界がすっと開けるような、爽快な感覚を味わいました。しかし、すぐにまた、重苦しく暴れるような自殺衝動に包まれ、私は、再び底へと沈んでいきます。それでもなお、医者が薬を変えたり増量したりすることはありませんでした。私はきっと、自分の苦しみをプレゼンするのが恐ろしく下手なのでしょう。当然です。これは、今までの人生を振り返れば、当然の結果です。
これでも一応、困ってはいるので、私は独自に希死念慮や自殺衝動について調べたりします。ですが出てくるのは、どれもうつ病患者の事例のみで、私の抱えていたそれとは、どうも違うのです。私の死にたさは、重苦しいと言えば重苦しいのですが、もっと、暴れるような激しさを伴うものなのです。医者は当てにならないので、自力で対処することにします。私は生活を改め、カロリーメイト以外の食品も食べるようにします。積極的に散歩や筋トレをするようになります。日光も浴びます。睡眠もしっかりとるようにしました。並の学生よりも健康的な生活を送っていたはずです。ですがやはり、死にたさは消えません。
さて、夏の同じ頃には、進路の決断を迫られました。学部四年で卒業して、就職するか、大学院に進学して、さらに二年間研究を続けるか、これ以外にもあるのかもしれませんが、基本的にはその二択です。噂を聞く限り、どうやら、私が俗悪で野蛮だとみなした学生(例えば、飲み会で私の胸を触ろうとしてきたり、SNSに「今年の女子は奇跡的にかわいい子揃い」と書いたり、教室の中で大声で騒いだりする人たちなどです)ほど、就職の道を選んでいるようなのです。いえ、別にそれだけが理由ではなく、それ以上に、私は研究に適正と楽しみを見出していましたから、どちらかといえばそちらの方が比重として大きいのですが、そのような理由で、私は迷わず、大学院に進むことを決めました。
休みは悪という信念は、余裕は悪という信念に形を変え、いつしか、自分は限界を見なければならないという強迫観念を生み出すに至りました。限界を知らないということは、つまり、極限まで自分を追い詰める経験をしておらず、それは、伸ばせるはずの能力を伸ばさないという怠惰であり、自分の能力に対する最悪な形での裏切りだと思ったのです。なんともおかしなロジックです。ですが、私は本気だったのです。本気で、限界に到達していない自分は人間として半端であるのだと思い込み、本気で、半端な自分を憎みました。憎悪のままに、私はさらに研究にのめり込みます。
私は「有能な学生」という外面を保ったまま、卒業研究を終え、修士課程に突入していきます。学部の卒業式にも出ず、春休みも研究室に通い、四月になり研究室に新たな後輩を迎え、研究を続け、そして、五月になる頃、私は、カフェイン中毒を狙った自傷行為を起こしました。
今になっても、なぜこのようなことをしたのか、私にはわかりません。自傷の動機はわかるのです。ただ、なぜこのように中途半端な手法を選んだのかが、さっぱりわからないのです。死なない程度に、死のお試し体験でもしてみたかったのでしょうか。それとも単に、本当に「効く」薬を調べるのが面倒で、手近なカフェインに飛びついただけでしょうか。とにかく私は、瓶いっぱいに詰まったインスタントコーヒーの粉の塊に、お湯を注いで、ゼラチンを入れて、超高濃度コーヒーゼリーを作り、砂糖を入れた牛乳をかけて、それを一気喰いしました。平日の、爽やかな朝八時の出来事でした。
食べ始めてすぐに、猛烈な吐き気が襲ってきました。心臓がバクバクと暴れ始め、手足がガタガタと震えます。起き上がっていることなど、とてもできず、布団の上で「気持ち悪い、気持ち悪い」と呻きながら、背中を丸めて、寝返りをうち続けることしかできません。死にたいなんて気持ちは飛んでいきました。ただ肉体の内側で大暴れする苦痛のことしか考えられず、ある意味、幸福と言えば幸福な時間でした。
この日は、研究室のミーティングがありました。私は震える指で、何度も打ち間違いをしながら、体調不良により欠席する旨を伝え、水をがぶ飲みしては、トイレと布団を往復します。後で読み返したメッセージには、誤字が残っていました。
これは今まで味わったことのないほどに強い苦痛でしたから(私は健康体だったので、肉体的な苦痛を味わった経験がほとんどなかったのです)、私はいよいよ、やっと死ねるのではないかと、のたうちまわりながらも、胸に淡い期待を抱きます。ですが現実は無情でした。お昼頃になると症状は徐々に落ち着いていき、二時頃にはもう、あの地獄のような苦痛は綺麗さっぱり、なくなっていたのです。私は研究室に行きました。夜まで普通に研究をして、何事もなく、帰りました。
限界の影は、近づいてきていました。それにも薄々、感づいていました。いつの間にか、研究に向き合うことが、苦しくなっていたのです。ですが、私の中では、自分は研究が好きなのだということになっていますから、この苦しさを認めるわけにはいきません。私は必死に、自分は研究が好きなのだと思い込もうとします。ですがそれも、徐々に苦しくなっていきました。いつだったか、街中でオレンジと青(解析で使っていたソフトのアイコンの配色です)を見るだけで、心臓が跳ね上がる心地がしたのです。
私は限界を認めます。もう無理だ、助けてくれと、明確に、はっきりと、思うようになりました。ですがそれは、あくまで精神の限界であり、肉体は未だ、異常なほどにピンピンしていました。だるさも吐き気も、身体の痛みも、何もありはしなかったのです。私の中で、精神の限界は、本当の限界ではありませんでした。この限界は、偽物の限界だと思いました。肉体に異常が現れていないうちは、甘えだと思いました。私は、本当の限界が来れば、きっと自動的に、自分の意思に逆らう形で、物理的に倒れるのだとばかり思っていました。しかし、待てども暮らせども、一向に体の調子が悪くなる様子はありません。
早く壊れてくれ!
ちょっとだけ、ほんの少し、わずかに頭痛が起こるだけでも良かったのです。しかし私には、それすらありませんでした。
私は結局、自分で終わらせることにします。
実にあっけないものでした。夏休みの、少し手前のことでした。結局、最後まで肉体が壊れることはなく、私はただ、自分の精神にだけ敗北し、ある日曜の朝に、休ませてくださいと、指導教員に連絡を入れたのです。きっかけがあったわけではありません。ドラマチックな出来事など、何もありません。ただ、もう、静かに、無理だと思いました。まさしく敗北でした。
次の日に教員と面談をし、私は、半年間の休みを手に入れます。精神科医同様、指導教員も、私の精神状態を深刻なものだとは捉えていないようでした。指導教員は、冗談めかした様子で、この機会に世界一周でも行ってきなよと言いました。私は道化を張り付けたまま、はははと笑うことしかできませんでした。
第十一章
多くの人は、私が休みを手に入れたことにより、一般的なうつ病患者同様、ろくに家事もしないで一日中布団の上で寝転がるなどいった教科書的な療養生活を始めると、予想するかもしれません。実際、私もそのようになるかと思いました。ですが、研究をやめた直後から、むしろ、私の活力はますます漲っていくのです。
研究はやめました。代わりに、創作活動を始めました。学部の時のように、恐怖に駆られてやるものではありません。今回は、本当に今回は、純粋な創作欲求に突き動かされて、自分の世界を表現しようと試みるのです。
私の頭の中では、既に、何人ものキャラクターが、自由に踊り、漫才をし、愉快なお茶会を開いていました。役者は揃っていたので、後は、彼らを実世界に呼び出すだけでした。彼らを最高の舞台に立たせるために、私はゲームという媒体を選びました。ゲームという媒体では、小説や漫画と違い、シナリオやセリフだけでなく、モーションのクセ、音楽や効果音、ゲームシステムすらも、キャラクターの表現に寄与するのです。この多面性に惹かれ、私は、システムの構築から始め、プログラム、ドット絵、音楽、テキストなどなど、必要なものをすべて自前で作り上げ、一本のゲームを完成させるのです。(実際に完成したのは復学後の話なのですが、今後この話をする予定もないので、いったん時系列を無視し、ここで「作り上げた」と言い切ってしまいます。)学部でのめちゃくちゃな活動経験が、初めて活きた瞬間でした。悲しいことに、この頃には既に私の周りには誰もいませんから、誰に自慢することも、認めてもらうこともできないのですが(誠に滑稽なことです)、それでも私は「ようやく人間としての資格を得た」と、実に満ち足りた気持ちになったのでした。
創作をしている間は、死にたくなりませんでした。創作は鎮痛剤であり、興奮剤だったのです。ここから私は、創作に呑まれていきます。クリエイターの成功物語にありがちな、没入の美談を語りたいのではありません。私は文字通り、創作の中毒に溺れ、創作に蝕まれていくことになるのです。いったん、別の話をしましょう。
私は親に養われている身分で、学費も、生活費も、親に出してもらっていました。ゆえに半年もの休学というのは、私にとっても、親にとっても、大問題でした。いえ、正直に言って、大学生の留年など珍しい話ではありませんから、親に話すまで、私は楽観視していたのです。しかし親にとってはそうではなかったようで、私は、寿司屋で親に涙ぐまれてしまうのです。
親が私に向ける目線は、まさに、「これだけお金をかけて育てたのに、お前は失敗作でしかなかったのか」という、落胆と非難のメッセージを多分に含んだものでした。こうなると話は変わってきます。私の楽観は急速に萎んでいき、空いた心に、するすると親の涙が入り込んでいきます。私の脳は、一瞬で、いっぱいの罪悪感に支配されました。私の自己像は更新され、粗大ゴミになりました。いえ、粗大ゴミという認識は、私の厄介度合いを少し低く見積もりすぎたかもしれません。粗大ゴミの処分よりも、人間の命の処分の方が、何倍も大変ですから。
こんな、生きている価値もないゴミは、さっさと死ねばいいんでしょう? と喉まで出かけますが、言えば怒鳴られることはわかりきっていましたから、なんとか飲み込みます。親には退学の話も持ち出され、私も一瞬、そちらに傾きかけましたが、研究でそれなりの成果を出してきたことは事実であり(実は学部の頃から色々発表をしていたのです)、中途半端なところでやめるのは、私の完璧主義が許しませんでしたから、私は内心冷や汗だらけになりながらも、大罪人の気持ちで頭を下げ、なんとか、休学中の資金提供を許してもらうのです。
私には、親の前で愛想よく振る舞う習慣がありませんでしたから(これは自然体というより、無愛想に振る舞うという、別種の道化であったように思います)、私の死にたいという訴えは、深刻さの評価はさておき、ひとまず信じてもらうことができました。しかしいかんせん、身体が元気だったものですから、やはり親には「単なるサボり」だと思われていたような気がしてなりません。私が精神科に通っていることを告げた時、親は、「何をそんな、大袈裟な」とでも言いたげな表情をしました。
ですがある時、親の過保護が妙な方向で爆発します。いつだったか、私がちらと、何の気なしに、「つくばの精神科には、ろくに話を聞いてもらえない」と言ったことを覚えていたのか、突如、私の意思を無視して、地元栃木の別の精神科に私を引き摺り出すのです。少し前には、「大袈裟な」と、怪訝な目を向けていたにも関わらずです。(私は未だに親のことがよくわかりません。)結果として、そこの医者と私は、少なくともつくばの医者に比べれば断然、相性がよく、博士課程となった今現在に至るまで付き合いが続くのですが、それでも、親には意思を無視された屈辱感があるので、得意げな顔をされても、感謝より苛立ちの方が勝りました。
創作の話に戻ります。創作は、アルコールよりも遥かに気分を良くしてくれました。創作を始めると、陶酔のまま、一瞬で数時間もの時間が飛んでいくのです。私は創作を、死の影から逃れるための麻薬として使いました。創作をしていない、例えば買い物やシャワーの時間は、それはもう恐ろしいもので、いかに創作以外の時間を削るかが至上命題となりました。スランプというものは、少なくともゲームを作っている時期には存在しませんでした。というのも、グラフィックに飽きれば作曲をし、作曲に飽きればプログラムを書き、プログラムに飽きればキャラクターのセリフを書くという、いくつもの逃げ道があったからです。ゆえに私は、純粋に、創作をする時間を確保すればいいだけなのでした。
一.二あった視力は、急激に落ちていきました。情報系でありながら、鮮明に見えていた月は、気づけば、三重に見えるようになっていました。家族とは離れて暮らし、研究室にも行きませんから、コンビニの会計だけが唯一の声を発する機会となり、声帯もどんどん衰えていきます。
眼精疲労でしょうか、頭が痛くて、画面が見られなくなることがありました。画面を見ずにできる作業などありません。そんな時は観念して、布団に横たわり目を閉じるのですが、ものの数秒で、焼けるような焦燥に襲われます。焦燥の詳細は、今になって思い出そうとしても思い出せません。あの時期の記憶は、特に曖昧なのです。
復学した時の私は、休学前以上に、疲弊していたかもしれません。しかし創作によって多幸感でいっぱいになっていましたから、指導教員は、私が元気になったのだと思いました。創作が牙を剥き始めるのは、むしろここからです。ゼミの間も、創作のことが頭から離れなくなります。創作の時間が、研究の時間を侵食していきます。もはや研究は二の次となります。
先にも述べたように、ゲームをリリースした瞬間、私は達成感により、満ち足りた気持ちになりました。自分は人間としての資格を得たのだと、安心しました。しかしすぐに不安が襲ってきました。あまりにも稚拙な作品を世に出してしまったことが、恐ろしくなったのです。好きな点やこだわりはいくらでもあったはずなのに、もう、欠点しか思い浮かびません。研究は痛みを忘れさせてくれませんから、逃げるように、次の作品を構想します。次の作品は、ゲームよりも制作期間の短い小説にしましたが、それもやはり、踊るような高揚感を味わえるのは書き上げた瞬間の、あの一瞬だけであり、その後は強い恥の感情と虚無感が残るだけでした。そこから逃げるように、さらに別の作品を構想します。
初めは、創作の良いループに入ったものだとばかり思いました。しかし、時間が経つにつれて、作れば作るほどに、不幸になっているのではないかと思うようになりました。それでも、やめることはできませんでした。創作以外に、痛みを忘れる手段がなかったのです。(アニメや映画の視聴は、ただ焦燥を煽るだけでした。)それに、稚拙であっても創作をする能力があるからこそ、私は、生きる価値があるのだと思えました。創作を手放すことは、自分の価値を手放すことに等しかったのです。
こんな生活をしていてもなお、研究で困ることはありませんでした。私の出す進捗は、むしろ多い方だとみなされたのです。このあたりで、おや、もしかしたら周りは、私が思っているほど研究に時間を割いていないのではないか、と思い始めます。(ですが私は研究室でも孤立していたので、確認する術はありませんでした。)
さて、復学してそれなりに時間が経った頃だったでしょうか。なんとマキちゃん(覚えているでしょうか、学部の頃の友達です)から、グループ全体に対して、一緒にランチに行かないかとお誘いがくるのです。
マキちゃんたちは、仲が良かった方だとはいえ、やはり道化を演じる対象であり、しばらく道化としての振る舞いを忘れていた私は、また仮面を被らなければならないのかと、一瞬うんざりした気持ちになります。それでも私は、意外なことに、人間の繋がりはあった方がいいという社会通念を持ち合わせており、いいえ、それ以上に、芯まで染み付いた奉仕の精神(最近は道化というより、こちらの言葉の方がしっくりくると思います)が、断るわけにはいかない、悲しませてはいけないと、半ば自動的に結論を導き出しましたから、私は、グループ内の誰よりも早く、いいね、行きたいと、返信したのです。女子会を断る要因になった、男性だからという意識は、奇妙なことに、ここでは発動しませんでした。彼女たちと離れた期間が、私の感覚を、再びフラットに戻したのかもしれません。
結局、私も合わせて、四人の友達が集まりました。皆、修士で各々の研究室に散らばり、研究に忙殺されて誰かと遊ぶ暇もなかったからか、全員が全員、それなりの孤独を感じていたようで、集まった瞬間の空気は、久しぶりに会えたことによる弾むような喜びとは違い、ほっと、自分は一人でないことを確認しあうようなところがありました。
皆、雑談のやり方を忘れてしまったのでしょうか、久しぶりの会話は明らかにぎこちなく、あまりの気まずさに、私は猛烈に帰りたくなりました。はっきり言って、地獄のようなランチ会です。それでもなぜか、私たちは次の約束を取り付けました。皆、孤独を恐れていたのでしょうか。ここから修了まで、私たちは毎週金曜日に、四人でランチを食べることになります。
休学の話は、なかなか言い出せませんでした。私の周りは、揃って、ストレートに道を進む人しかいなかったのです。数回目のランチ会で、なんとか、休学の話を伝えることはできましたが、死にたかったからとまでは言えませんでした。それどころか、精神科というワードを出すことすら、できませんでした。そんなもの、普段のお道化の私からは、あまりにかけ離れていたからです。それに、仮に私が道化でなかったとしても、メンタルの話をするには、マキちゃんたちはあまりに健康で健全すぎました。
カホちゃんという子について、話をさせてください。カホちゃんはこの四人の中の一人です。ある日突然、カホちゃんは、ランチ会とは別に、私個人を遊びに誘ってきました。そして私は、カホちゃんに流される形で、毎週木曜日に、カホちゃんの家で一緒にアニメを見ることになるのです。
AさんやBさんの件を忘れて女性の部屋に一人のこのこ行くなんて、お前は学習しない大馬鹿者かと思われるかもしれません。ですが、信じてください、カホちゃんだけは、絶対に違うと思ったのです。カホちゃんはずっと同じグループで友人として過ごしてきた人でしたし、カホちゃんは男性の友達が何人もおりましたし、何より、自分が恋愛に興味がないことを繰り返し口にしていたのです。私はカホちゃんと二人で、恋愛って意味わかんないよねと笑い合っていたのでした。であれば、そのような疑いを持ち込む方が、不誠実というものでしょう。
スーパーで買ったお菓子を囲みながら、カホちゃんと私は二人で並んでアニメを見ます。話数が軽く千を超える長寿アニメでしたから、カホちゃんおすすめの回を、彼女の解説を聞きながら見ます。
正直に言って、私はそのアニメに興味がありませんでした。知れば興味が湧くかもしれないとも思いましたが、いつになっても、興味が湧く気配はありません。それどころか、逆に、嫌悪の気持ちが湧き始めました。そのアニメは、もう言ってしまいます、名探偵コナンなのですが、コナンは私の知性観と真っ向から衝突したのです。泥臭い研究的な知性に浸っていた私にとって、知性が、素早く鮮やかな、かっこよさの記号として使われることが、耐えられなかったのです。カホちゃんは本当に、同じ研究をする人なのかと、疑いを持ってしまうほどでした。それでも、染み付いた奉仕の精神を今更剥がすことなどできず、私は、へぇー、面白いねと言いながら、笑顔を作ってしまうのでした。
アニメが流れている時間は私にとってつまらないものですから、自然と、あちらこちらに注意が向いてしまいます。ふと、隣を見た瞬間、カホちゃんの、白くて丸い肩が目に入ります。
うわ、女だ。
反射的に、そう思ってしまいました。そして、すぐに、雨のような罪悪感に襲われました。女性を女性として見てしまうことは、私にとって、友人たちに対する最大の裏切りに思えたのです。
事実、カホちゃんは、誰とでも純粋なる男女の友情を成立させられる、稀有な才能の持ち主でした。私は、恋愛、とりわけ異性愛を取り巻く文化の正当性について、甚だ懐疑的であり、男女の友情などありえないという言説も、人々が男女という枠組みに縛られる風潮も、そもそも男女という枠が存在することも、男女という言葉自体さえも、すべてが嫌になっていましたから、カホちゃんの作る世界はまさに理想郷でした。
だというのに、それを、私は自分から壊しそうになったのです。私は自分自身がひどく気持ち悪くなり、必死にお茶を飲みながら、胸に湧いた不気味な意識をなんとか消そうと試みました。目の前で流れるコナンは、あまりに空虚で、誤魔化すのに役に立ったのか、立っていないのか、わかりませんでした。帰ってからも、不快感は続きました。
第十二章
修士二年目の春、研究室に新たな後輩が来ました。三人いて、三人とも、男性でした。大人しそうな人々でした。実際、大人しい人々でした。
いつからだったでしょう、後輩のうちの一人、遠藤くんという人に、私は突然、興味を持ち始めます。遠藤くんは、無害そのものでありながら、つつけば何か面白いものを出してくれるという、確信めいた予感を抱かせるような人でした。
遠藤くんに対する関心は、恋愛的・性的な興味というより、奇妙な生命体に対する知的好奇心といった方が近いものでした。学部時代にあれほど他者の目線を嫌悪していたというのに、この時の私は、これは純粋なる子供の興味なのだという強烈な感覚に上書きされ、なんの罪悪感を持つこともなく、遠藤くんに侵襲的な関心を寄せ続けるのです。後にも先にも、私が自発的に人間に興味を持ったのは、遠藤くん、ただ一人だけでした。
学会直前のある日、私は遠藤くんと研究室で二人きりになります。既に遠藤くんを面白い存在と見ていた私は、学会の準備に飽きたタイミングで、遠藤くんに絡み始めます。不思議なことに、この時は、言いたい言葉がポンポンと思い浮かんだのです。罪悪感や遠慮の気持ちは、ふわふわと、どこかへ飛んでいき、気が付けば、道化の仮面を被ることもなく、思いつくままに遠藤くんに言葉を投げかけていました。遠藤くんは優しいので、先輩の迷惑なうざ絡みにも丁寧に応じてくれました。
そのうちに話は深い方向へと進んでいくのですが、これは私にとって、まさしく革命でした。会話が、面白かったのです。会話が面白いなんて感覚は、私の人生で初めてのことであり、まさに隕石が落ちるほどの衝撃でした。
私はそれなりに深い思考をしているつもりですから、うざ絡みの一環で、複雑な内面をそのままにぶつけます。すると、遠藤くんは、それ以上に複雑な内面を返してくれるのです。私の言葉は、摩擦なく受け止められ、理解され、それが遠藤くんによって、次なる議論に昇華されていきました。反対に、遠藤くんの言葉も、透明な水のように、異常なほど静かに、するすると私の中へ入り込んでいきました。アイちゃんやユカリちゃん、Hやマキちゃんたちの言葉とは違い、遠藤くんの言葉に、難しいところなど何もありませんでした。
革命でした。私はずっと、人間の言語がわからないのだとばかり思っていました。ですがそれは違ったのです。私はずっと、異国の地で、自分が外国人であることを自覚しないまま、ただその広大な土地をうろうろと彷徨っていただけなのです。遠藤くんと出会ったことで、私は初めて、母語で会話をする感覚を得ました。調子に乗った私は、内臓を見せるように、あらゆることを喋りました。希死念慮のことすら、喋りました。
その後遠藤くんとは、一緒に学会へ行き、そこで一気に仲良くなり、一緒に夕食を食べる機会も増え、家に遊びに行くことも増え、泊まりで遊ぶことも増え、そして、数回目の泊まりの夜、なぜか、布団の中でキスをし、パートナー関係になることが誓われます。遠藤くんから、してもいい? と聞かれ、私はそれに対していいよと言ったのでした。この時、あれだけしつこい病魔のように巣食っていた、私の奉仕の精神は、意外にも、少しも顔を出しませんでした。
驚くべきことです。奉仕の精神が出てこなかったことも驚きですが、まさか、恋人になってしまうだなんて。(私はてっきり、深い友人になるのだとばかり思っていました。)しかし、その恋人というラベルに対して、不思議と嫌悪は発生せず、遠藤くんに対して抱いた奇妙で特殊な形の親密さにおいては、恋人という肩書を持つことにも友人という肩書を持つことにも、大した差はないように思えました。私が遠藤くんに抱いた感情は、恋人や友人という枠を超えたものに思われたのです。いえ、本当は、どうやら存在するらしい本物の友情というものも、愛情というものも、経験したことなどありませんでしたが、きっとそうだろうと、思ったのです。だから肩書はなんでも良かったのです。
これまでも十分に多かった、遠藤くんとの遊びの頻度はさらに増え、秋頃には、毎日遠藤くんの家で一緒に夕食を食べ、そのまま同じベッドで寝る生活が始まります。夜の八時頃、研究室から帰った後に、二人でスーパーまで買い物に行き、一緒に料理をして、おいしいねと言いながら出来上がったものを食べるのです。遠藤くんがフライパンや鍋の前で、食材を焼いたり煮込んだりしている間に、後ろから抱きつくのが私の趣味でした。私の人生では珍しく、素直な気持ちで幸せだったと言える、数少ない時間だったと思います。
とはいえ、創作への依存は続きます。遠藤くんとの時間は確かに幸せでしたが、内心、こんなことをやっていていいのか、こんなにも創作から離れていていいのかと、やらなければ頭がおかしくなってしまうと、ひりついた焦燥感に焼かれていました。私は以前よりも早起きすることで、ベッドの上で静かに寝ている遠藤くんを横目に、消えた時間を取り戻すように、創作に勤しみました。遠藤くんとのデート中も、彼がトイレに行っている間、私は必死にスマホにアイデアを書き留めていました。
次なる進路も、私を悩ませる種でした。多くの人は、修士を終えた時点で大学から離れ、就職していきます。これが私たちにとっての「普通」のルートであり、安定を約束されたルートだったのです。しかし私は、どうしても就職したくありませんでした。
なまじこれまでに研究実績を残していたことが、私を、凡百の企業の一社員という肩書に収めることを、強烈に忌避させたのかもしれません。私の行動原理は、小学生から修士に至るまで、ずっと一貫しています。ある時はサル山の王、ある時は道化、ある時は有能な学生、ある時は創作者として鎧を纏うことで、私は自分という存在を保ってきたのです。名のない社会人という立場に埋もれず、博士課程で突出することを選ぶのも、この延長でしかありません。これは見栄というより、生存の危機に対する防衛反応の誤作動だったのです。
あるいは、過去の野蛮な人々を思い出し、彼らと再び一緒になる恐怖が、私を企業から遠ざけたのかもしれません。私は企業の説明会というものに参加したのですが、この時点で、ああ、企業という場の文化は、あまりに粗雑で人間味がなさすぎると、深い絶望をともなう直感を得ていたのです。短い説明の間にも、私は、企業に行けば確実に死ぬだろうと確信しました。易々と境界を踏み越えられ、自己を削がれながら、銃撃戦を耐え抜いた日々など、もう二度と味わいたくありませんでした。
結局私は、親の許可を得て、博士課程に進むことを決めます。これまでの研究実績から、勝算は十分にあると踏んでのことでした。親に許可をもらえたのは実に幸運なことでした。親は親で、博士という高学歴者に夢を抱いていたのです。(私は学歴を持ち上げる当時のメディアに感謝しました。)私は、親の夢を壊さないように気をつけなければと、内心冷や冷やしながら、博士課程では東京工業大学に進むことを決めました。
実を言えば、博士課程で別の大学に移ることは、非典型的なルートなのです。多くの人は、修士から博士に進学する場合においても同じ研究室に残るものなのです。しかし私の場合、指導教員が定年により退官するために、異動せざるを得なかったのです。この異動は、先に言ってしまえば「失敗」であり、私の精神状態を、一気にどん底にまで突き落とす契機でしかなかったのですが、進学するまで、私はそんなことになるなどつゆほども思わず、ただ就職を回避できたことだけを、無邪気に喜ぶのです。いえ、研究室との相性は良かったのです。それ以外が、最悪だったのです。
修士論文を発表し、大学院入試もこなし、不運にも重なった学会発表と論文の雑誌投稿も終え、引っ越し手続きを終え、新しい神奈川の地に来た時、私の身体は、ついに動かなくなりました。