笑い話
第七章
さてさて、なんとここから、カズちゃんの人生「世界編」が始まってゆきます。
なんて、いえいえ、冗談です。世界編なんて大仰なものではなく、ただほんの少しだけ、海外に行っただけの話なのです。ですがまあ、海外には行っているのです。
意外でしょうが、私にはそれなりに冒険心というものがあるのです。ええ、読者の皆さんが覚えているかはわかりませんが、私が臆病になるのは、いわゆる普通の人間関係においてコミュニケーションをとることであり、むしろ、孤独は苦にならない性質なのです。普通という厄介な概念が要求されない場においては、私はむしろ、強気になれるのです。留学も旅行も含め、私は人生で六度、海外に行くのですが、これから、そのうちの二回を、お話しようと思う次第でございます。それはもう、楽しいこと、この上ない経験でございました。
さてさて、カズちゃん世界編、第一弾は、出ました、イタリア、イタリィでございます。私はサークルにも行かず、友達ともろくに遊ばない隠遁生活をしておりましたから、少し食費を削るだけで、アルバイトをせずとも、それなりにお金を貯めることができたのです。そのお小遣いを使って、一人、ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィアの三都市に行ったのでございます。とはいえ貧乏学生であることには変わりありませんから、極限まで旅費を抑えるために、わけのわからないローカル航空便を使い、カタールで六時間ものトランジットを経てから、一日以上かけてイタリアに向かった次第でございます。ローマは汚い街でした。フィレンツェは綺麗な街でした。ヴェネツィアはもっと綺麗な街でした。以上でございます。
さてさて、カズちゃん世界編、第二弾は、はい、エジプトでございます。今度はロシア・シェメレーチェヴォ国際空港にて狂気の十四時間耐久トランジットを経て、一人、エジプトに向かったのでございます。ウーバーというタクシーサービスを使って、ピラミッドくんだりまで出向いたりしました。野良タクシーの青年と翻訳アプリを使って語り合ったり、相撲、富士山と連呼する気のいい老人に市場を案内してもらったり、帰りの空港で寝落ちしかけたところをロシア人カップルに助けてもらったりと、まあこれでもかというほど人情というものを味わった二日間でございました。はい、そうです、私は一泊二日の弾丸エジプト旅行を決行したのでございます。理由は単純、単に、お金が足りなかったからです。エジプト編、以上でございます。
やはり海外というのは、一人で行かなければなりません。友人なんかと行ってしまえば、日本人学生の常識というものが持ち込まれてしまいます。やはり海外というものを味わうには、一人で行くことが重要なのでございます。日本の常識なんてものは、まったくもって不純物以外の何物でもなく、そうした枷を外すことで、ようやく、私は息ができたというものです。はい、これが、私の心からの喜びの、最後の記憶でございます。
第八章
第九章
そろそろ学業の話をしましょう。相変わらず、私は勉学において無能であり、特に数学なんかは、勉強に時間を割いているにも関らず、常にギリギリ合格のラインを綱渡りしていました。一方で、実際に手を動かす実習的な科目においては、特段困るようなこともなく、結果として、私の成績表はいつも、AとCの二文字で埋め尽くされていました。Bという評価はほとんど登場しなかったのです。それと、そうです、グループワークはこの頃から極端に苦手でしたから、それが要求される授業の成績も、まあひどいものでした。
勉学以外の時間は、友人と遊ぶこともほとんどなく、一人コツコツ、パソコンの前で手を動かしていました。作曲、アプリ制作、イラスト、電子工作、小説執筆、動画制作などなど、とにかく、色々なことをやりました。奇妙な取り合わせに思えますが、これには一応、理由があります。当時の私の周りには、いわゆるクリエイティブな人々が揃っており、私はそのすべてに追いつこうとして、結果としてこうなったのです。この経験は後々活きてくるので、一概に愚かだと言い切るのには抵抗がありますが、しかしやはり、はい、愚かではあると思います。周囲の人々は、一人一分野、特技を持っていただけなのに対し、私はそのすべてを手に入れようとしているわけですから、やはり無謀なことをしていると言わざるを得ません。
一点、強調しておきたいのは、これらの活動は純粋な創作欲求や野心などによって行われたものではなく、むしろその対極にある、強い恐れの感情によって、突き動かされたものであるということです。私は、この環境においては、クリエイティブな特技を持つことが、存在を許されるための必要条件だと思い込んでいたのです。ゆえに、それを持たない者は、人間としての資格を持たないと思い込んだのです。誰かが電子工作をやっていれば、ああ、それを持っていない自分はダメな人間なのだと強く思い込み、誰かが動画を作っていれば、やはり、ああ、それを持っていない自分はダメな人間なのだと強く思い込み、そうして、気が付けば、すべてを手に入れようとする、強欲な人間になっていたのです。
この学類では、「成果物」という概念が絶対的な強さを持ちました。分野はなんでもいいのです。とにかく、自分が作った、他者に披露できるだけの何かを持つことが、重要なのです。私は成果物を持っていませんでした。中学から作曲はやっていましたが、あれはただ、しょうもないとしか言えない音楽の断片を作っていただけにすぎず、作品と呼べるほどの強度のものを作ったことはなかったのです。持たざる人間が、持つ人間に追いつくためには、どうすればいいでしょう。私の頭は、ほぼ自動的、かつ脅迫的に、倍の時間をかけなければならないという結論を導き出しました。休みは悪という信念は、日に日に強化されていきました。性暴力の直後ですら、私は制作を続けていました。
学部二年の夏ごろから、眠ることが怖くなりました。眠りすぎないようにするため、あえて布団を使わず、ごつごつとした床の上で睡眠をとりました。そうして生まれた時間を、私はすべて制作に注ぎ込みました。もちろん、睡眠時間は足りていませんから、退屈な講義では、いつも船を漕いでいました。中学高校時代に私が希死念慮を持っていたことは、皆さん、覚えているでしょうか。大学に入って以降、その強さや頻度は徐々に増していくのですが、この頃の私は、まさか睡眠が死への衝動に直結しているとはつゆほども思っていませんから、どんどん睡眠を削る方向に傾いていきます。そのうちに、食事も最適化しようと考え始め、いつからだったか、食事はカロリーメイトだけになりました。
ここから急速に、私の精神状態は悪化していきます。悪化のトリガーは、能力至上主義に基づく、半ば自傷的な生活様式でしたが、しかし、その基盤には、私の人間関係の致命的な脆弱性があったのではないかと思います。
Hの後遺症を踏まえれば当然の流れでしょうか、気が付けば私は、積極的に男性を避けるようになっていました。もちろん、すべての男性がHのような人間ではないことくらい、わかっています。ですがそんな理性は、身体的な恐怖を前にすれば、なんの意味も持たないのです。私は男性に近づくことができませんでした。私は男性の友人を作ることができなかったのです。
私にとって最も恐ろしかったのは、私のすぐ近くで、男性グループが大声の雑談をしていた時間でした。それはまるで、家の前で銃撃戦が行われているようなもので、私はいつも心臓をバクバクとさせながら、ひりつくような緊張を強いられていたのです。いえ、男性たちが私に何かしてくるわけではないのです。ですが私は、怖かったのです。理由のわからない、本能的な恐怖でした。
かと言って、女性ならば安心というわけでもありませんでした。例の事件からかなり時間が経ったある夜、私は、ある女子学生(Aさんとします)に、一緒にテスト勉強をしようと誘われます。私がいいよと言うと、Aさんは、ファミレスは空いていないだろうから、カズちゃんの家でやろうと言うのです。(今になって思えば、この「ファミレスは空いていないだろう」という言葉は、まったく雑な誘い文句ですが、当時の私は、勢いに飲まれて納得してしまいました。)その頃の私は、マキちゃんたちのいる女性グループに入り浸っていたものですから、女性というのは、比較的気楽に過ごせる相手であり、友人になれる類の人々であるという程度の、ごく軽い認識しか持っていませんでした。しかしAさんは、私の家で勉強を始めて一時間ほど経ったあたりで、ふと、試すように、じっと上目遣いで私を見つめてきたのです。そして、「異性を部屋に入れてるって、どういうことか、わかってる?」と、静かに聞いてきました。
一瞬で、身体が凍りつきました。わかっていないわけではなかったのです。異性が二人で同じ部屋にいることの意味は、一般常識として理解していたつもりでした。ですが、まさかそれが、自分に適用されるとは、愚かにも、この瞬間まで思ってもみなかったのです。
言い訳をさせてください。私は中学の頃からずっと、女性グループに「友人として」受け入れられてきました。大学では、男性たちに「カテゴリの外にいる者として」欲を向けられてきました。私の中ではもはや、同性や異性、女性や男性という区分が、一般のそれとは大幅に乖離していたのです。自分は完全に、ジェンダー規範の外側にいるつもりでした。しかしそれは、私が「つもり」になっていただけで、私は、男性なのでした。
私が固まっていると、Aさんは何か諦めたようにため息をつき、「なんでもない」と小さく笑いました。そして深夜十二時になる前に、彼女は帰っていきました。いえ、帰っていきましたというより、彼女の要望により、私はAさんを家まで送り届けたのですが、とにかく、Aさんとは何事もなく終わったのでした。ひとまず、助かりました。ですがあの時のAさんの上目遣いは、今でも時々、悪夢の形でフラッシュバックします。それほどまでに、自分の足元の地盤を崩落させた、恐ろしい体験として刻み込まれたのです。
別の夜、私は、これまた別の女子学生(Bさんとします)に夕食に誘われ、その帰りに、付き合ってくださいと告白されました。食事の内容がすべて、胃の中から出てくるかと思われました。この瞬間に脳裏に浮かんだのは、白いうさぎのぬいぐるみの映像でした。無害に思われた白いぬいぐるみの腹は、突然、ぶちりと音を立てて裂け、そこから、生々しい肉の色をした女性器が現れたのです。
私は何重にも嫌悪しました。まず、まっすぐに気持ちを伝えてくれたBさんに対して、そんなイメージを抱いてしまった自分を嫌悪しました。そして、その程度の欲ですら、受け入れることができない自分を嫌悪しました。最後に、それほどまでの不快感を抱いてもなお、申し訳なさげな笑顔を張り付け、必死に許しを乞うようにしか告白を断れない、どこまでも深く道化精神が身についた自分を、嫌悪しました。
そんな出来事が重なった後に、私は、マキちゃんたちのいる馴染みのグループに「女子会」に誘われたのですが、結局は、曖昧に「ごめんね」と言いながら、断ってしまいました。それ以降も、数度、女子会には誘われたのですが、突如芽生えた男性としての意識が、強烈なストップをかけ、私は彼女たちの誘いに乗れなくなってしまいました。
そうして彼女たちとは、キャンパス内での浅い付き合いに留まるようになり、繋がりは徐々に希薄になっていきます。学年が上がれば上がるごとに、共通の授業も減っていきますから、繋がりはなおのこと消えていきます。そうしている間にも、希死念慮の波は強まっていき、ついに、本格的に助けが必要になった時にはもう、私の周りには、誰もいませんでした。