笑い話
※ 第六章後半には性暴力描写があります。ご自身の体調に合わせて、適宜読み飛ばしてください。
「Hという人物に加害された」ということだけ把握していただければ、その後の章も問題なくお読みいただけます。
第四章
私はアイちゃんと別れた後、しばらく孤独な一年生時代を過ごします。そしてその後、二年生に進級するわけですが、意外でしょうか、なんとここから、私は道化としての道を突き進んでいくことになるのです。
私の学校はそれなりに人数がいましたから、二年生になってクラス替えが起こると、知らない生徒とも一緒になります。担任も、違う人間になります。私の行動原理は「憐れまれないこと」ただ一点だけでしたので、この年には学期が始まった瞬間に、友達を作ろうと考えました。
昨年度に、私は、アイちゃんを通して異星人の言語を学びました。人間の言語ではありませんが、それがサルの言語よりも、人間の言語に近いことは間違いありません。脆弱な武器でしたが、それでも私は、それを頼りに、友達というものを作る努力をすることに決めたのです。
一年生での生活から、既に形成されているグループに入ることは難しいと学びましたから、学期が始まった初日に、私は血眼になって、まだ誰のグループにも属していない生徒を探しました。そして幸運なことに、一人だけ見つけることができました。ユカリちゃんという女の子でした。
ユカリちゃんは、教室で一人、黙々と絵を書いていました。移動教室でも、昼食でも、誰かと一緒に過ごしている様子がないことを確認し、私は、ユカリちゃんに話しかけました。笑顔(それは曖昧で引き攣っており、いかにも不気味なものだったと思います)を作って、「それ、ボカロだよね」と、できる限りの柔らかいトーンで言ったのです。(柔らかいトーンと言っても、人間初学者のやることですから、やはりこれも、引き攣っていたと思います。)ユカリちゃんは、笑顔とも無表情ともつかない顔で、私の言葉に応じてくれました。(なんという言葉で応じてくれたかは、ごめんなさい、思い出すことができません。)
幸運なことに、ユカリちゃんは、自分からよく喋る子でした。絵を描きながら喋り続けるという器用な芸当を、なんなくやってのけるのです。おかげで私は、自分から話題を提供し、話すという、恐ろしいことをせずに済みました。ただ聞き役に徹していればよかったのです。
私は人間の言語を知らない割に、人間の空気を読むことには長けていました。スピーキングは苦手でしたが、リスニングは得意だったのです。ですから、「今この人は笑って欲しいんだ」「今この人は共感して欲しいんだ」「しんどいねと言って欲しいんだ」という微妙な機微を、正確に察知することができたのです。ユカリちゃんは、好きなコンテンツの話を好みました。そして、コンテンツ話というものには、やや大袈裟な共感と驚きが要求されるものでした。私はできる限り、最大限、表情筋を駆使して「えぇー、そうなんだ!」「それはやばいね!」「それはすごい!」「それはしんどいねえ!」と連呼しました。オーバーなリアクションを続けたことで、酸欠になることも度々ありました。私は加減というものを知らなかったのです。おかげで、休み時間が終わった後は、いつも私の顔はほてり、頭はふらふらとしていました。これが、道化への第一歩です。
幸運は続きます。ユカリちゃんと一緒に過ごしていると、なぜだかわかりませんが、いつしか、他の女子生徒たちにも囲まれるようになっていったのです。これにはどういった力学が働いたのか、今になってもよくわかりません。ユカリちゃんは後々、私が思っていたよりも遥かに成熟した人だったのだとわかるのですが(そして私は、その成熟に甘えていたことを知り、羞恥に悶えることになるのですが)、この頃のユカリちゃんは周囲と積極的に関わっている様子はなく、どうも、ユカリちゃんの人徳だけでは説明がつかないように思うのです。とにかく私は、わけのわからないまま、女子生徒のグループ形成に巻き込まれる形になったのです。この時の私には、ただ、「これで周囲に憐れまれないだけの土台が出来上がった」という安堵だけがありました。
次の転機は、林間学校でした。私たちは二年生で、スキー合宿に行きました。そしてその最中の昼食の時間に、事件が起こりました。いえ、他者から見れば、それは事件でもなんでもなく、ただの日常の一コマでした。しかし私にとっては、大事件だったのです。
私は幼少期に受けたアレルギー検査で、一部の食物にアレルギー反応が出ました。しかしそれはごく微量なもので、私は、食物アレルギーを持たない大多数の人々と同じものを食べても、なんの問題も起きませんでした。しかし、なぜかここで、親の過保護が発動したのです。学校側に、私の知らない間に、うちの子にはアレルギーがあるから何々は食べさせないで欲しいと伝えていたようで、私にだけ、違うメニューが出されたのです。そして出されたお重には、テープでこんな張り紙が付けられていました。
「小黒和樹 カツ重」
それだけならなんの問題もありません。しかし私は、ここで失態、いえ、正確にはその対義語に当たるものを犯すことになるのです。
私の学校には、専属のカメラマンがいました。その人は学校のOBだそうです。実に陽気な人でした。そのカメラマンは私たちの林間学校にもついてきて、とにかく、生徒の写真を撮って回りました。そしてもちろん、私を含めた女子グループのところへもやってきました。しかし、思い出してください。この時期の私の自認は、不気味で汚らわしい、得体のしれないサル、あるいは餓鬼や河童、垢舐めといった類の、不快な妖怪なのです。そんな人間が、写真に写されたいと思うでしょうか。私はカメラを向けられた瞬間、半ばパニックになり、咄嗟に紙で顔を隠しました。その挙動の滑稽さに、私は大いに笑われました。しかしその笑いは、アイちゃんに向けられてきたような嘲笑ではなく、温かい笑いでした。
それは、優しい抱擁にも似たような心地でした。私は調子に乗りました。テープを前髪に貼り付けて、キョンシーのように顔を紙で覆い、「これで撮ってください、これで撮ってください」と、必死に懇願しました。もちろん、この必死さは演出です。私はさらに笑われました。誰かが言いました。「カツ重の神じゃん」と。そして私のあだ名は「カツ重様」になりました。この瞬間、私は神になったのです。世界で一番、愚かで滑稽な神です。
皆の注目を一心に集める快感、そして何より、皆に見下しでも嘲笑でもない目線を向けられる安堵に、私の脳は誤作動を起こしました。私の頭は溢れんばかりの快感に支配されたのです。私は道化としての強烈な快楽を味わってしまいました。そうして、私の人生の方向は決定づけられました。ここから、私の道化としての振る舞いは加速していくのです。
結局私は、紙を外した状態で写真を撮られることにもなるのですが、この時ほど、歪で醜悪な笑顔をしていた瞬間はなかったと思います。
その後、カツ重のあだ名は定着していきます。誰かが私に向かって「カツ重様!」と言い、私は必死に「カツ重じゃないよ!」と言います。これだけで笑いが起きます。(もちろん、この必死の否定も、私の演出です。)皆は面白がって、私を構いました。私は壊れたテープのように、笑いながら、歪な表情で、否定を続けました。いつしかそれだけが、私の拠り所になっていました。彼女たちが笑っている間だけ、私は息ができたのです。彼女たちが笑っていることが、私がここに存在できるだけの、最低限の資格に思えたのです。彼女たちを笑わせることで、ようやく、醜い妖怪は、存在を許されるのだと思ったのです。
こんな調子で女子グループとの交流は続いていくわけですが、ある日、その中の一人に言われました。
「カズちゃんって、自分の話、しないよね」
心臓がドキリと跳ね上がりました。背筋がふっと冷たくなり、徐々に心臓の鼓動が早くなっていきます。今になって思えば、なんてことない一言です。「そうだね」などと言って、適当にかわせばよかったのです。しかし当時の私は、ああ、ついに、その醜悪な本性が暴かれてしまったのだと、ひどく恐ろしい心地になりました。地獄の閻魔に断罪される、罪人の気持ちです。本当は人間の言語を理解しないまま、人間のふりをして、烏滸がましくも人間の世界に混ざり込んでいることが、明らかになってしまったのだと、とにかく恐ろしくなりました。
「ねぇ、なんか愚痴とか言ってみてよ」
女子生徒は続けました。ああ、どうしましょう、どうしましょう。私には言いたい愚痴など、何一つありません。どうしましょう、人間としての通行手形を、本当は持っていないことが、バレてしまいます。
私の口は凍ったように、動かなくなってしまいました。手なんかは、情けなく震えていたと思います。その時でした。
「カズちゃんはそういうんじゃないんだよ!」
別の誰かが言いました。この言葉により、その女子生徒は「そっか、そうだよね」と納得し、私は断罪を免れるのです。
私は女子生徒によって、「そういうんじゃない人」として定義づけられました。まあ乱暴な定義です。ですがその言葉によって、私の強張った顔は、少しだけ、ゆるりと解けていきました。危なかった、正体が暴かれるところだった。助かった。その安堵だけが私を包みました。
とにかく、この一件で学びました。私は本当に、本格的に、人間の言語を学ばなければならない。特に、スピーキングを学ばなければならない。私は見たくもない俗悪なバラエティ番組を見ました。そして、笑いのポイントをメモしました。私は「雑談術」と書かれた本を買いました。親に隠れて、こそこそと、読みました。それでも、私にはやはり、人間の言語がわかりませんでした。
いや、嘘です。本当のことを言えば、何を言えばいいのか、うっすら掴みかけてはいたのです。きっと私は、ただ、自己開示をすればよかっただけなのです。私には、言いたい愚痴はありませんでしたが、好きなコンテンツはありました。(この頃はレトロゲームに傾倒していました。)帰り道の夕焼けが綺麗だったとか、昨日食べたハンバーグが美味しかったとか、そんな感情も持っていました。実は皆が部活をやっている裏で、プログラミングや作曲なんかも、一人コツコツとやっていました。きっと私は、ただ、それを言えばいいだけのことでした。ですが、言えなかったのです。
本当のことを言ったら馬鹿にされるかもしれない。本当のことを言えば嘲笑されるかもしれない。本当のこと、すなわち、心の柔らかいところを棒で刺されたら、自分は立ち直れないに違いない。
そんな感情が、私の発話に、強烈なストップをかけました。いえ、正直に言えば、ストップがかけられているという自覚すらありませんでした。選択肢に上がりかけては、当然のように、自然に、即、するりと却下されたのです。私はそのことを、人間の言語がわからないという認識に押し込めただけなのです。「かっこいいと思ってるでしょ」と言われ、「うん」と答え、嘲笑された記憶、それだけが、鮮烈に思い浮かびました。
それでも、「話をできるようにならなければならない」という脅迫的な義務感は生まれてしまいましたから、私は、苦肉の策として、一からエピソードを作ることにしました。誰でも楽しめる笑い話です。私は、ぼーっとしていて電柱にぶつかったというエピソードを思いつきました。そして、帰り道、実際に、電柱にぶつかりました。いえ、正確には、ぶつかるというより、そっと触れるだけのものだったのですが、それでも、ぶつかったという話が完全に嘘ではないことを、証明できるだけの行動はしたのです。人間とは不思議なもので、ぶつかろうと思えば思うほど、目の前の障害物を無意識に避けてしまうのです。あと数十センチのところで、ぶつかれず、あと数十センチのところでぶつかれず、それを七、八本繰り返したところで、ようやく、コツンと、電柱に頭を触れさせることができました。これでエピソードの出来上がりです。私は翌日、そのエピソードを何十倍にも誇張し、不都合な部分は隠し、見事、ぼーっとしていて電柱にぶつかってしまったという、間抜けなエピソードを語ることに成功しました。この話は、中学生女子特有の独特な感性に刺さったのか、大いにウケました。これで見事、道化の完成です。
第五章
中学二年生だったか、あるいは三年生だったか、もしかしたら高校に突入してからだったか、記憶は定かではありませんが、私に異変が訪れます。なんと、教科書の文字列が、一切理解できなくなるのです。
私の人生は能力至上主義と密接に結びついていますから、この話をしないわけにはいきません。先に述べましたが、私は小学生時代に経験した団体行動の非合理性により、部活に入らない選択をします。部活に入らないことで、自分の能力を効率的に伸ばそうと考えたのです。ゆえに、人より能力が劣ることは、あってはならないことでした。
皆が部活に精を出している間、私は、必死に勉学に励みました。勉学以外の時間は、プログラミングや作曲、イラスト制作など、比較的関心があり、かつ、独自である(と当時は思っていた)能力の獲得に励みます。アニメやゲームなどのコンテンツは、ほとんど人間理解の勉強のための道具でした。休みやサボりというものは許されませんでした。(こういうスキルの選び方を見せると、なんだ、お前はクリエイターになるつもりだったのかと思われるかもしれませんが、それは半分当たりで、半分外れです。クリエイターに憧れがなかったわけではありませんが、私にとってクリエイターとは遠い星のような存在であり、少なくとも当時は、自分がそれになるつもりは毛頭ありませんでした。つまり、クリエイターっぽいことをしていたのは、たまたまなのです。)この活動は、実は後年、活きてくることになるのですが、クリエイターの話はまあいいでしょう。
とにかく、勉学です。勉学の話をしたいのです。私の学校では、テストの成績の上位十名は教室に貼り出されましたから、私はそこに載ろうと躍起になりました。そして、そのランキングに載ること自体は達成できました。しかし、どうにも、一位になることができません。これはおかしなことです。なぜなら、皆が部活をやっている間、私は勉強をしていたからです。他人より何倍もの時間をかけて勉強をしているのに、一位になれないのは、どう考えても不可解な現象でした。いえ、今になって思えば、それは不可解でもなんでもなく、ただ、学校教育型の学習が、私の脳に合っていなかったというだけの話なのですが、当時は本気でわけがわからず、私はただひたすらに焦りました。私の感情は、焦りの方向に向かっていきました。
そうして冒頭の件に戻っていきます。私はどんどん、文字が読めなくなっていくのです。音読はできます。単語の意味は理解できます。ただ、何を言っているのか、まるでさっぱり、理解できないのです。
私は演習を繰り返すことで、テストを乗り切りました。問題文と出力のパターンを覚えることで、「勉強ができるフリ」をしたのです。本当は、何一つ、理解していないというのにです。これはまさに、私の人間関係の再演でした。私は人間のふりをして、人間の世界にまぎれこみました。私は勉強ができるふりをして、勉強ができる人々の世界にまぎれこみました。
私は理解できなくなればなるほどに、勉強にのめり込みました。普通に勉強ができないのならば、その分、他人より時間をかけなければならないと思ったからです。思えばこれが、私の精神を確実に、着々と蝕んでいきました。この頃からです。私はふと三階の廊下で、窓の外を見た時に、ここから飛び降りたらどれだけ気持ちがいいのだろうと思いました。電車を見ても、同じことを思いました。屋上の風景を見ても、同じことを思いました。私は、肉体が破壊されることを、望むようになりました。それは、純粋な快楽の希求でした。苦痛からの逃避が、死と快楽を結びつけたのです。
いつの日だったか、家で、物理の演習を解いていた時のことです。私はやはり答えがわからず、回答を見ても理解できず、解説を見ても理解できず、理解できず、理解できず、理解できず、理解できず、ついにコップを窓ガラスに叩きつけるように投げました。ガラスの表面は、コップを中心にパリパリとヒビが広がっていき、ついに、じゃらじゃらと崩れ落ちました。やけにスローに見えたのを覚えています。物音に、母親が駆けつけました。母親は割れたガラスを見て、次に私を見て、静かに、「みぃが怪我するから、片付けておいて」とだけ言い残していきました。(みぃというのは、当時の飼い猫の名前です。)
それはまさに、理解できないもの、異物、あるいは地球外の生命体に向ける目線と同じでした。狂人に向ける目ですらありません。(狂人という単語には「人」という字が入っていますから、狂人という呼び名は、人に向けられたものなのです。)私は、ついに親からも、人間だとみなされなくなってしまったのです。この瞬間、私は本当に怪物になってしまいました。妖怪という呼び名すらかわいい、まさに、怪物です。得体の知れない不気味さは元から持っていたものですが、今度はさらに、手のつけられない、理解もできない、恐ろしい存在という属性が付与されてしまったのです。
ここまできてもなお、私は、勉学への執着を手放すことはありませんでした。なぜでしょう。理由は簡単です。小学生時代の栄光によって、私は、「勉強ができない自分」というものを許すことができなかったからです。そうです、ここでなんと、サル山の王時代の記憶が顔を出すのです。妖怪になり、道化になり、怪物になってもなお、サル山の王としての記憶は、亡霊のようにまとわりついてきたのです。
学校では相変わらず、道化としての役割を演じていました。私がちらと、三階から窓の外を見ても、もちろん、誰もその意味を理解することはありません。私はいつだったか、勇気を出して口に出してみました。
「生きるって、意味ないよね」
思春期らしくて微笑ましいと言えばそうですが、希死念慮を語るには、やや幼稚な表現です。これに対するユカリちゃんたちの返答は、「え、何言ってんの?」というシンプルなものでした。彼女たちは笑っていました。彼女たちの笑いは、いかにも無邪気なものでした。私は一瞬で、奈落に突き落とされた心地になりました。私は、やはり自分は彼女たちの次元にはいないのだということを、強く再認識しました。私は一人、暗闇の底に閉じ込められました。彼女たちは、明るい太陽の下で笑っていました。女子生徒の一人と、僅かに目が合いました。私は口元を歪めて、精一杯笑いました。
高校三年生になっても、私は相変わらず、女子グループの中で道化を演じていました。しかし何年も道化をやっていれば、さすがに、その技術も熟達していくというものです。私は落ち着きというものを覚えました。穏やかで優しい共感という武器を手に入れた私は、より一層、彼女たちの感情の器として機能していくことになりました。私は無邪気な承認欲求も醜い自己顕示欲も、あるいは他者への純粋な攻撃も、等しく受け止めました。区別なくすべてを受け止めた理由は、単純です。ただ役割を全うすることだけに集中していたからです。私は彼女たちの欲望だけを理解し、その欲望を満たすことで、どうにか日々を生き延びていました。私は十七になってもなお、人間の外側にいました。
勉学においても同じです。私はやはり教科書を理解せず、問いと答えのパターンを覚えることで、勉強ができるフリをしていました。私は相変わらず、誰よりも勉強に時間をかけていました。休憩時間を悪とみなしました。プログラミングや作曲に当てていた時間はすべて手放しました。あらゆる勉強法を試しました。家のトイレには、手描きの公式が壁一面にびっしりと貼られました。ベッド脇の壁にも、主要な化学反応式の一覧が貼られました。食事以外の時間は、すべて、勉強に費やされました。それでもなお、私は一位になることができませんでした。私の自己像に、「馬鹿」「低脳」「痴呆」「無能」が追加されました。
私は無能である。
無能は死ぬべき。
私は死ぬべき。
いつしか、死ななければならないという観念が、私を支配していきました。他の人は良いのです。私ほど、勉強をしていませんから。ですが私は勉強をして、このざまなのです。であればそれは、無能と言う他ないでしょう。
おそらく、この頃だったと思います。急に、世界がパッと明るくなりました。花壇の花々や街路樹の青が、やけに鮮明に見えるのです。頬を撫でる風が、妙に優しく感じられるのです。初夏の香りが、微細な粒子となり、どこまでも詳細に感じ取れるようでした。眠れなくなりました。そして、眠らなくとも大丈夫になりました。ほんの少し、カフェインを注入するだけで、私の体は、溌剌と動きました。私の口は、ストッパーを失いました。普段ならば言わないような自己開示を、難なく行いました。自己開示どころではありません。下劣なジョークすら、口走ったように思います。女子生徒たちは、ただカズちゃんが陽気になっただけだと思い込み、むしろ歓迎しているようでした。女子生徒たちは、私の「意外な一面」を楽しみました。このわけのわからない高揚は一週間ほど続き、その後、急速に落ちていきました。私の脳は、黒くて鈍重な、得体の知れない何かに支配されました。カッターの刃をカチカチと伸ばしましたが、刃が肌に触れた瞬間、その冷たさに驚き、結局はやめてしまいました。私の自己像に「半端な臆病者」が追加されました。
首を絞める癖がついたのも、この頃だったと思います。私は奇妙な衝動に襲われるようになるのです。頭蓋骨の中、脳みその表面を、大量の蛆虫が這っているような感覚に襲われ、脳みそを洗浄したい衝動に、強く駆られました。喉の奥から、大量の黒いヒルがゲロゲロと湧き出てくるような心地がして、しかし現実にヒルが現れることはなく、その不快さに、自分の喉をねじ切りたい衝動に駆られました。もちろん、どれも実行不可能です。そのフラストレーションを、私は、首を絞めるという形で解消しました。思い切り頬を叩くこともありました。机に頭を打ちつけたりもしました。まあ、マシにはなりました。
その後は特に、面白いことは何もありません。私は受験し、T大、いえ、T大と言うと東大のように聞こえますね、普通に言いましょう、筑波大学への進学が決まりました。学類までは言いません。わかる人には、後々察せられることになるでしょう。
当時の私にしては、よくやった方だと思います。というより、もう、それ以上できませんでした。とはいえ入学後には、「東大の滑り止めとして渋々入った層」や「勉強しなくても入れる大学として選んだ層」にも触れることになり、必死にやってきた私はなんだったのかと、なけなしの自己肯定感すらも削がれていくことになるのですが、まあ、それは良いです。受かった時は、やはり、安堵が一番にありました。これで私はまだ人間として存在していられるというような、そんな、安堵でした。私は死なずに済みました。
第六章
私が大学に進学した当時、大学はゴールではなくスタート地点だと、一般論として言われることがありました。例に漏れず、私もその価値観を強く内面化していました。ですから、集団行動(大学の場合はサークルがそれに当たります)を排除し、遊びや休憩を悪とみなし、一人コツコツと能力を伸ばすことに集中する、これまでの私の行動傾向は続きました。そしてその傾向は、弱まるどころか、ある時点に至るまで、強まっていくばかりでした。
つまり何が言いたいかと言えば、私は、中学高校の部活同様、一般的なサークルで得られる青春というものを味わうことなく大学生活を終え、さらに、友人といった存在と遊ぶことも、必要最低限に留まっていたというわけです。
当時、大学生活は情報戦であるという言説がありました。講義選びで失敗しないためにも、課題や試験の対策をするにも、就活や院進を有利に進める上でも、何より情報が必要だということだと思います。私はSNSを嫌悪していましたから、それを使わずに情報を得るため、中学同様、まっさきに一人で過ごしている学生を探し、話しかけました。私が話しかけたのは、マキちゃんという女子学生でした。マキちゃんは社交的な人で、その後、彼女に巻き込まれていく形で、私は女子グループの中に組み込まれていきます。
マキちゃんは言いました。
「東京の人?」
私は栃木の田舎者です。はじめ、まったく意味がわからず、私はただ「違うけど?」と、高校生活で身につけた微笑を張り付けて言いました。マキちゃんは「かっこいいから東京の人だと思った」と無邪気に笑いました。思えばこれが、私の新たな自己像の獲得の始まりだったと思います。ここから私は、美しい者としての公的イメージと、人間未満の物体としての自覚を、一時的にですが、手に入れることになるのです。
大学というのは、とにかく野蛮な場です。下世話な興味を、隠すことなく、むしろ正当な関心として、誰もが振りかざすのです。私は相変わらず、女子グループの中で休み時間を過ごしていましたが、ジロジロと、見定めるような、欲と好奇を孕んだ視線を教室中から感じました。それは、少なくとも、中高時代には感じなかった類のものでした。それが、女子学生の誰かに向けられたものなのか、私に向けられたものなのかは、わかりませんでした。ですが、そんなことはどうでもいいのです。誰に目線が向けられたかよりも、そのような目線が存在するということが、問題なのです。わっと、身体中の毛が逆立つようでした。小学生時代に感じた、燃え上がるような嫌悪が、ここで再び発火したのです。
ある時、グループの女子学生の一人が、大学用のアカウントで、SNSの画面を見せてくれました。スクロールの中で、同じ学類の学生の、ある投稿が目に入りました。
「今年の〇〇(学類名)の女子は奇跡的にかわいい子揃い」
それは私に向けられたものではありませんでしたが、ざらざらとした気味の悪さと吐き気に似た不快感が、身体中を支配していきました。その種の欲望が公の場で恥ずかしげもなく発信されることに、そこはかとない恐ろしさを感じたのです。そしてそのような欲望を向けられてもなお、平然とした顔で笑っている女子学生たちに、さらに深い恐ろしさを感じたのです。彼女たちの姿は一瞬だけぐにゃりと歪み、そして、何事もなかったように戻っていきました。その投稿自体は、私に向けられたものではありませんでしたが、やがて同様の目線を、私は向けられることになります。
ある日の講義の時でした。私が後方の席につくと、どこからか、「うちの女子ってかわいい子ばっかだけど、正直一番顔が整ってるのって、カズちゃんじゃね」と声が聞こえたのです。初めて、直接的に私に向けられた評価でした。繰り返しになりますが、当時の私の自己認識は、醜い妖怪で、怪物で、サルで、無知無能な痴呆なのです。いざ直接に、容姿への高い評価をぶつけられると、嫌悪は麻痺し、「ああ、自分とは意外にも、人間の姿をしているのか」と、無感情に思うものでした。ですがこの無感情も、やはり、次第に嫌悪に変わっていきます。帰宅後のシャワーで、あの無遠慮な評価を思い出し、時間差で、頭を掻きむしりたい衝動に駆られました。ここまで自己評価が醜悪になってもなお、私の中には、未だ犯されていない領域というものがあり、その清潔な部分を、ペタペタと泥のついた手で、乱暴に触られた心地がしたのです。
また別の講義では、普段関わりのない学類の学生と、合同で授業を受けたのですが、その時、知らない男性の集団に声をかけられました。
「カズちゃんさんってあなたですよね?」
まったく意味がわからず、曖昧に「はい」と頷くと、男性たちは私を置き去りにしたまま、顔を奇妙に歪ませ、「やっぱり」「写真より美人じゃん」と口々に言いました。よくよく話を聞けば、どうやら私の姿は盗撮され、SNSに投稿されていたようなのです。
私の倫理観では、人の姿を勝手に撮り、SNSに投稿するなど、あってはならないことでした。これは当時から変わらず、今もそう思います。しかしこの空間では、盗撮して投稿した人間も、それによって盛り上がる人間も、誰一人として、それを悪だと認識していないようでした。私は孤独の淵に立たされました。
これは先に述べた類の嫌悪に加え、新たな感覚をもたらしました。自分はやはり、人間扱いされる資格がないのだという、強烈な自覚です。妖怪の次は、ただただ人間によって消費されるだけの、「物体」になったのです。私に人格などないようなものでした。その後、男子トイレの鏡で見た自分の顔は、どこか遠くに見えました。それは自分の顔などではなく、初めて見る人形の顔に見えました。
冬ごろに、決定的な事件が起きます。これは中学の頃のカツ重の件なんかとは違い、まさしく、事件と言って差し支えない出来事かと思います。端的に言えば、それは、純粋な性暴力でした。
夜、ほとんど人のいない計算機室で、一人、課題を進めていた時のことです。ある一人の男子学生が、私の隣にやってきました。その人は同じ学類の学生で、私も何度か顔を見たことがある人間でした。ここからはその男子学生のことを、Hと呼びます。
Hは私に何か話しかけてきて、そこから、何か他愛のない雑談らしきものが始まったと記憶しています。私にとって、Hの存在は新鮮でした。私は男性でありながら、男性というものと会話をしたことがほとんどなかったからです。大学院に来た今ならば、会話の内容に性別の違いはないと認識していますが、平成生まれというこの年代、学部生というこの年頃の人間は、多くの人間がその内部に強固な男女の区分を持ち、皆がそれを意識していたものです。私にもその意識は微弱ながらありましたから、私は、初めて同性と仲良くなるのかもしれないと、胸に弾むような期待を抱いたのです。
Hの話の多くは、Hが所属する研究室の活動の自慢でした。(この大学には、学部一年の頃から研究室に所属できる制度があったのです。)Hは自分が研究室でいかに刺激的な活動をしているかを、得意げに自慢し続けたのです。私の道化精神は、骨の奥まで染み付いていましたから、その自慢話にも、真剣な調子で相槌を打ちました。
途中、Hの様子がおかしくなるタイミングがありました。Hは、「研究室で女子の可愛さランキングを作ってるけど、正直、一位は女子じゃなくて、カズちゃんなんだよね」と言ったのです。はじめ、私の中に、強い倫理的拒否感が生まれました。私の友人たちが、そのような下劣なゲームに参加させられていることに憤りを感じたからです。しかし一方で、これが男子の一般的なコミュニケーション方式なのかとも思い、であれば、それは学ばなければならないとも思いました。これはほぼ反射です。中学高校時代の「人間学習における従順な生徒」としての振る舞いが、ほとんど反射的な身体反応として、顔を出したのです。私は結局、微笑を張り付けたまま「そうなんだ」と言いました。
Hは続けました。Hは、「今やってる研究の応用で、カズちゃんの顔をAVに合成してるんだよね」と言いました。ここで言うAVは学術用語などではありません。アダルトビデオのことです。私は普段、この手の話題には嫌悪感を示すものですが、Hのこの発言は、私の処理の限界の閾値を一気に超えていきました。これまではもっと、間接的にその手の話題に触れるのみでしたが、この時は、まっすぐにそれをぶつけられたのです。限界値を超えたことで、私の感情はほぼフリーズし、そしてなぜか、「技術的に進んだことをやっているなら、素直にそれを賞賛しなければならないな」と、間抜けな義務感だけが浮かびあがりました。やはり結局、私は、微笑を張り付けたまま「そうなんだ」と言いました。
それからHは、私を、いわゆる「モテ」の文脈で持ち上げる発言を繰り返しました。それは言外に、「どうせお前は(もちろん、性的な意味で)誰とでも遊んでいるんだろう」というメッセージを、常時、送り付けているようでした。私はその的外れな賞賛、あるいは賞賛の皮を被った攻撃を受けるたびに、ごりごりと、自己が削れていく感覚を味わいました。ですがHの決めつけは、巧妙に偽装され、最後まで直接的な言葉として表現されることはなく、私は、ついぞ否定の機会を得ることができませんでした。私はただ、例の微笑を張り付けたまま、頷くことしかできませんでした。
とはいえ、この日のおかしな発言と言えば、その程度のものです。その後は平和と言える範疇の雑談が続き、何事もなく別れることになります。ただ一点、不審な点があったとすれば、Hは一時間という短時間で、四、五度ほど、トイレに行ったことでしょうか。次の日もHは同じ時間に計算機室にやってきては、私の隣に座り、一方的に話を始めました。その次の日もHは同じ時間にやってきて、この日、私たちは、一緒にラーメンを食べました。さらにその次の日もHはやってきて、二人でカレーうどんを食べに行きました。さらにその次の日は、計算機室を介さず、コンビニに集合して、回転寿司に行きました。そうでした、多分、この日だったと思います。
回転寿司の帰りに、Hは「家でネットフリックス見ない?」と言いました。なるほど、これが男子のコミュニケーション方式なのかと、私は、素直に承諾しました。そうして私はHの家に行き、映画を見ることになるのです。
途中までは、ただ隣に並んで、ベッドに座り、映画を見ていただけでした。ですが、見始めて三十分ほど経ったあたりでしょうか、Hは物理的にすっと距離を詰めてきました。そして私の手を取り、自分の股間に押し当てました。Hは、性的なフィクションでしか聞かないような、グロテスクな言葉を囁きました。
私の手足は急速に現実感を失い、感情は、奇妙に遊離していきました。Hはさらにグロテスクな言葉を重ね、私の口に舌を入れました。気が付けば私は、服を脱いだ状態で、Hの下に横たわっていました。
私の無反応を、Hは、同意と受け取りました。痛みに呻いた声を、Hは、快感に喘ぐ声だと解釈しました。Hは私の身体を乱暴に撫で回しましたが、男性器にだけは決して触れようとしなかったのが、妙に印象的でした。
最後にHは、ぽそりと言いました。
「なんか、違ったかも」
こうして私の身体は、完全に、物体となりました。人形なんて、お上品なものじゃありません。もっと原始的な、不潔な肉の塊、そんなところです。私は、物体になりました。