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科学の場における神の取り扱い[5]

 ゲラシーはテーブルの上で手を組みながら、二人の若者の言葉を口々に浴びせられていた。

「ですから、ヴァーデルラルドの思想は危険なんです! イェレイさんも言っていました!確かに僕も、あの人の存在はなくてはならないと思いましたよ? 花は確かに必要でしたよ? でも、次のステージは確実に危険です! 人々の内面まで踏み込ませてはなりません! イェレイさんもそう言っていました!」

「ゲラシーさん正気に戻ってください! 前のゲラシーさんは、もっと元気な人でしたよ!」

「イェレイさんとヴァーデルラルドの話、もう一回しましょうか!? あのヴァーデルラルドにも果敢に立ち向かうイェレイさん、かっこいいですよ! もう一回話しましょうか!?」

「僕はいろんな人がいる方がいいと思います!」

「あの人は制御不能です! でもまだ間に合う可能性は高い! 僕たちが全員で立ち向かえば、どうにかすることもできるかもしれません! ですから、今のうちに手を打たなければなりません! 個人が人々を選別して思想を統一させるなんて、あっていいことだと思いますか!」

 別に俺、普通に正気なんですけど。ゲラシーは二人をぼんやりと見つめる。そして、「あのー」とおもむろに手をあげた。

「なんですか!」

 レルマと見知らぬ若者……確か名前はフーレと言ったか……は、息を合わせて言った。ゲラシーは単刀直入に聞く。

「なんで俺なんすか?」

「知ってる研究員の人が、あなたしかいなかったからです!」

 レルマが元気よく答えた。ゲラシーはわずかに顔を歪める。しかし対抗するように、フーレが口を挟んだ。

「僕はもっといっぱい、知り合いいますけどね! でも、レルマの話を聞いて、あなたが一番対話可能性があると思ったんです! 僕はもっと知り合いいますけどね!」

 そうですか。ゲラシーは心の中でため息をついて、二人を見る。それから話を逸らすように言った。

「そういえば、お二人はお友達か何かですか?」

「そうです!」

 レルマが即答した。しかしフーレは歯を剥き出しにして身を乗り出した。

「誰がいつ! お前と友達になったんだよ!」

「えぇー」

 レルマは大きく眉を下げて言った。このフーレって子、かなり難ありだなあ。社会性さえ身につければ化けそうなのに。ゲラシーは黙ってその様子を見る。

「で、あなたはどうお考えですか!」

 フーレが身を乗り出して、ゲラシーに聞く。圧が強い。気圧されながらも、ゲラシーは思考を巡らせ、数秒の間を空けた後に答えた。

「でもあの人、今のところめっちゃ役に立ってますよ。仮にその思想が危険だからといって、手放すのは惜しい存在です。それに、思想によって特定の思想を排除することこそ、危険な思想にも思えます」

「それは寛容のパラドックスで、ある程度反論できます!」

 この子、哲学もかじってるのか。ゲラシーは静かに関心する。フーレは続けた。

「もっと長期的に見てください! 今は役に立っていても、いずれ人類を脅かす存在になる! しかも完全な善意でですよ!」

「まあー、善意かどうかはどうでもいいですけど、思想の統一に問題ありなのはわかりますね」

「ですよね!」

 フーレはさらに身を乗り出した。圧が強い。

 ゲラシーは再び思考を巡らせる。今回はちょっと遠回りをしてみようか。

 自分が信じてきたのは実利主義だった。それ以外は割とどうでもよかった。役に立てばいい。子供の頃から、ずっとその感覚はあった。大人も子供も、合理性を見失う人間ばかりで辟易していた。なんで。もっとシンプルな基準をもって見ればいいのに。普遍的に役に立つことなんて、結構あるじゃないか。それだけを見ればいいじゃないか。

 それで言えばヴァーデルラルドの内面の浄化も、役に立つなら……いやでも、この場合の役に立つってなんだろうな。それは誰にとっての、役に立つ?

「……ですから、ゲラシーさん!」

「あっ、すいません。聞いてなかったっす」

「はああ!?」

 フーレは身を乗り出したまま、眉間に皺を寄せて、口を開けた。ああ、この子の顔の歪め方は、トールードのそれよりも品があるな。でもゼゼなら、何を言ってもこういう反応はしないよな。ゲラシーは頭の片隅で考えながら、自分の考えを静かに紡いでいった。

「確かにあの人のやってることは、今のところ役に立ってますし、地上を花でいっぱいにしたのは、間違いなく技術的にすごいことです。ただ、もしあの人のせいでみんなが同じやり方に固まっちゃうなら、チーム全体の柔軟性が落ちて、効率が悪くなるかもしれませんよね」

 チーム全体? さっきまではそんなこと考えていなかったはずだ。それは心からの言葉ではなく、外面の一貫性を保つために加工したものだった。でもまあいいか。ゲラシーは続ける。

「俺も、あの人を野放しにしておくのはまずい気がしてきました。ただ、上が具体的にどういう対処をするのか決まってないうちは、俺も動けないですよ。でも具体的な処遇が決まって、俺も関われる範囲なら、全然協力します。それだけです」

 そこまで言って、ゲラシーは言葉を終わらせる。しばしの沈黙。それから二人の若者は目を見合わせると、ゲラシーを向いて口々に言った。

「やっぱりゲラシーさんならわかってくれると思いました!」

「もしかして僕の説得が効きましたか?」

「やっぱりゲラシーさんに最初に言って良かったなあ!」

「対話可能性が高いっていう僕の分析は、間違っていなかったね」

 本人を前にして、その発言はちょっと失礼じゃないか? しかしゲラシーは、ふっと笑ってその様子を見守った。やっぱり若者を見ているのは楽しい。

「深刻な話も終わったみたいなんで、これ食べてください」

 ゲラシーは立ち上がって、棚からレモンケーキの箱を取り出した。箱を開けると、柑橘の爽やかな香りが広がった。二人の若者は、目を輝かせていた。

 

***

 

「……ですから、多様性の確保は科学の発展においても最重要項目です」

 レルマとフーレは、廊下で捕まえた職員数人を相手にヴァーデルラルドの危険性を訴えていた。主に、フーレが。

「釈迦に説法でしょうがそれを裏付けるエビデンスもあります。ヴァーデルラルドの思想を肯定することは科学界に大きな損失をもたらします。これに対して皆さんはどうお考えですか」

 レルマはその様子を見ながら、内心でずっと目を丸くしていた。

 フーレ君、さっきと……というより、いつもとテンションが違いすぎる! もしかしてこれが、イェレイくんの前での「冷静で仕事ができる完璧な部下」の顔……? エレベーターでの「冷静な部下」発言は、嘘じゃなかったってこと……?

 しかし冷静なフーレに対する職員の目は、どことなく甘い。それは少なくとも、レルマには向けられたことのない類の目線だった。声のトーンもどことなく甘い。とはいえ、発言内容自体は特に甘くはなかった。

 茶髪のロングヘアの職員が言う。

「確かに、内面の浄化の問題点は理解できます。ですがそれは程度問題なのでは、とも思うんですよね。実は私、ずっと汚染対策に携わってきていて、市民の皆さんにも警告し続けてきたんですけど、全然聞く耳も持たれなくて、正直に言って失望しているんです。内面の浄化と言ったって、何も全員がロボットみたいになるわけじゃないでしょう? ヴァーデルラルドも『補助的に使うだけ』と言っていたとのことですし」

「ですがそれは楽観的すぎませんか? ヴァーデルラルドが僕たち平凡な人間の尺度で物事を考えるでしょうか? 僕は警戒してもしすぎることはないと思います」

「君は少しゼロヒャクで考えすぎじゃないかな?」

 金髪の短髪の職員が口を挟む。

「ヴァーデルラルドだって、全員が完全に同じ思想になったら社会が立ち行かなくなることくらいわかっていると思うんだ。つまり合理的に考えて、ヴァーデルラルドはある程度の多様性を担保した上で内面を浄化すると思うんだよね」

「それこそ楽観的な態度だと思います。地表の浄化のことを思い出してください。あれは一見花で満たして世界を救ったように見えますが、それによって他の種はすべて駆逐されました」

 えっ、そうだったの? その話は、レルマにとって初耳だった。

「つまりあの花は僕たちにとっては有益だった一方で、他の植物にとってはただの侵略種でしかない。そして実際に多くの種を絶滅させた。ヴァーデルラルドは躊躇なくそういうことをする人間です。これが僕たち人間に適用されないと言えるでしょうか?」

 フーレがそこまで言うと、職員たちは気まずげに目を見合わせた。それから、黒髪のマッシュヘアの職員が口を開く。

「……で、君たちは俺たちにどうしてほしいのかな?」

「まずはこの危険性を認識していただきたいです。それから可能であれば、この事実を皆さんの周りにも広めていただきたいです」

 フーレはきっぱりと言った。言葉の礼儀はしっかりしていたものの、その表情には「簡単なことでしょう? その程度のこともできないんですか?」とでも言いたげな色が滲んでいた。ダメだよ! もっと感情隠して!

 それから職員たちは再び顔を見合わせると、これから用事があるからと言い、去っていった。フーレはそれを見て「逃げたな」と一言言う。それから、「多様性の切り口で始めたのがまずかったかな」などと、一人ブツブツと呟き始めた。

「ねぇフーレ君、こんな一人一人に話していくのって、やっぱり時間がかかりすぎるよ。もっと別の方法、考えない?」

「僕はこれが最適だと思うけどね」

「どうして?」

「上層には既に報告済み。報道機関にも報告済み。ヴァーデルラルドの思想を裁く法律はないから、後は人々の意識の問題。それなら一人一人に直接訴えかけていくのが良い方法だと思うけど」

「うーん、そうなのかなぁ……あっ、SNS使うのは?」

「僕はそんな有害なもの使ってないから、知らないね」

「えー」

 まあ僕も、アカウント作って三日でやめちゃったんだけど。僕たちってつくづく発信力がないなあと、心の中で呟きながら次へ行く。

 

***

 

「内面の浄化? 別にいいんじゃないですか」

「えっ」

 レルマとフーレは同時に目を見開いた。フーレの同僚だという、この人物に話をしたところで出たのが、この発言だった。

 その人物は髪を後ろで三つ編みにして束ね、黒縁のメガネをかけている。目はいかにも無気力そうな茶色のタレ目で、頬には微かにそばかすが浮いていた。その人物はメガネをかけ直すと、気だるげな声で言った。

「そもそも仮に内面が浄化されれば、自分でそれを認識することはできないじゃないですか。認識できなければ、苦痛も何も感じない。それで理想的な世界が作られるのなら、勝手にやっててくださいって感じです」

「君はその権限を、個人に任せていいわけ?」

「別にいいです」

 即答だった。

「最近思うんです。人間に自由は重すぎるんじゃないかって。私の理想とヴァーデルラルドの理想が一致しているなら、支配されるのは悪くないどころか、いい選択だとすら思いますね」

 そう言って、その研究員はメガネをかけ直した。レルマは不安とともに、フーレを覗き込む。レルマ達はこれまで、「ヴァーデルラルドの思想の危険性」の一点突破で人々を説得してきた。しかし、それが通じすらしない相手がいるとは。フーレは何か考え込むように、相手の顔を見ながら顎に手を当てている。それから口を開こうとしたが、それも研究員に遮られた。

「あ、もしかして、主体性の観点から説得しようとしてますか? 私はそれも幻想だと思っていますよ。じゃ、忙しいのでこれで失礼します」

 そう言うと、その研究員はメガネをかけ直しながら去っていった。

 レルマとフーレは目を見合わせる。

「なんか……全然効かなかったね、あの人」

 レルマは呆然とフーレを見た。フーレは口元に手をやり、何か考えるように視線をずらす。

「いや、もしかしたらこの研究所はむしろ、ああいう人の方が多いのかもしれないね。この研究所には元々優秀な人しか集まらない。そうやって素地ができたところに、ヴァーデルラルドが加わって、ああいう傾向が加速する……とかね」

 フーレは静かに分析する。しかしレルマはそこに重ねるように言った。

「でもあの人、もともと信念はありそうだったよ! 僕の印象だと、信念はあったけど、何かのきっかけでそれが曇らされちゃったって感じ! だからそこをつっついてあげれば、こっち側についてくれるんじゃないかなあ?」

「信念? 僕の苦手分野だね」

「ええー」

 君も結構、信念強い方だと思うけど。もしかしたら、自分以外のことは何もわからないのかもと、レルマは一人で結論づける。

「それにしてもフーレ君、さっきよりも元気ないね。イェレイくんブースト切れちゃった?」

「なんなの『イェレイくんブースト』って……バカにしてるの?」

「えへ、ちょっとだけ……」

 レルマがそう言うと、フーレは無言のまま睨みつけるように視線を向け、肘でレルマを小突いた。

 

***

 

「今のところ、わかってくれる人とわかってくれない人が、半々くらいかなぁ」

「それはどうだろうね。わかってくれてるように見える人も、若手が言ってることだからって、適当に合わせてるだけの可能性があるよ」

 レルマとフーレが話しながら、廊下を曲がった時だった。

「あなたがレルマさんに、フーレさんですね」

 まるで待ち構えていたかのようにヴァーデルラルドが現れた。

「っ!」

 レルマは一瞬で心臓が凍りついた。それから一歩遅れて鼓動が暴れ出していく。どうして気づかなかったの、僕! そうだよ、ここは研究所なんだから、いないわけがないんだよ。背中に冷や汗が滲んでいく。どうしよう、早くここから逃げなくちゃ。逃げなくちゃ……。

 しかしフーレは怯む様子もなく、ヴァーデルラルドに立ち向かっていった。

「お疲れ様です、ヴァーデルラルドさん」

 その言い方には明らかに棘があった。それから、レルマの手を引いてヴァーデルラルドの横を早足で通り抜けようとする。しかし、

「待ってください」

 レルマのもう片方の腕が掴まれた。レルマの肩が大きく跳ね上がる。ギチリと、機械に掴まれたように、少しも動かす余地がない。無理に動かせば、絶対に自分の腕が折れてしまいそうだった。

 レルマは震えながら、その手を見た。ただの、白い革の手袋をつけた、大きな手。それだけだが、それが今は、無性に恐ろしい。

 ヴァーデルラルドは穏やかな声で続けた。

「我々の間には、大きな誤解があると思うのです。ですから、是非ともお話をして、その誤解を……」

「誤解なんてありません」

 フーレは毅然と返した。

「僕たちはあなたの考えを正確に把握しています。あなたとお話する必要なんてありません。僕たちは用事があるので、これで失礼……」

「用事なんて、ありませんよね?」

 フーレの肩が一瞬びくりと動く。ヴァーデルラルドは首を傾げて続けた。

「今日のフーレさんには、もうこれ以上のミーティングの予定はない。実験も、資料作成も書類仕事も、直近の分はすべて終わっている。素晴らしいことです。レルマさんも、まだ休憩時間、でしたよね?」

 語り口は優しかったが、その首の角度、口元は、素朴な子供そのものだった。

 それでもなお、フーレは堂々と言い放った。

「あなたに何がわかるんですか。把握している用事といったって、その程度でしょう。他にもっと、色々あると思わないんですか。もしかしたら、私的な用事があるかもしれませんよ」

「その私的な用事は、上司とのミーティングよりも大事なものですか?」

「大事です」

 フーレは構うことなく去ろうとした。しかし、

「痛い!」

 レルマを握るヴァーデルラルドの力が強まった。とても人間のものとは思えない握力だった。骨まで届く痛みに、意に反して涙が滲んでくる。ああ、このままだと本当に、折れてしまう、折れてしまう!

 フーレは目を見開いて、ヴァーデルラルドを見た。ヴァーデルラルドは微笑みをたたえたまま言う。

「それでは、レルマさんだけお借りしますね。行きましょうか」

 そう言うと、レルマの腕は強引に引かれ、フーレと引き剥がされた。

「フーレ君……!」

 レルマは涙で歪んだ目で後ろを見た。ぼやけたフーレの顔はよく見えない。フーレが遠ざかっていく。遠ざかっていく! 助けて!

 一瞬の沈黙。

「やっぱり僕も、一緒に行きます」

 フーレの、震える声が響いた。

 

***

 

 白い部屋。イェレイくんが言っていたところだ。

 レルマはキョロキョロとあたりを見回す。微かに手が震えていた。対してフーレは、真っ直ぐに、警戒するようにヴァーデルラルドを見据えている。

「落ち着きませんか? 大丈夫、何も危害は加えませんから、どうぞリラックスしてください」

 ヴァーデルラルドの声は完全に、子供を宥めるそれと同じだった。フーレは不敵に口角を上げて、精一杯の皮肉を込めたように言う。

「今日は”例の機械”はないんですね」

「おや、イェレイさんから伺っていましたか。そうですね、必要ないと思いましたから」

「無理やり使われそうになったら、訴えてやろうと思ったんですがね。被験者の同意なしに実験を進めるなんて、あり得ませんから」

 フーレの口元は引き攣っていた。手は片腕を強く掴み、もう片方の手で服の端を何度も何度もいじっている。レルマは不安とともにそれを眺めることしかできない。

 ヴァーデルラルドは二人に椅子に座るよう勧めた。レルマとフーレが座ると、自分も椅子に座り、言った。

「早速本題に入りましょうか。あなた方は私の思想を危険だとみなしているようですが、そこには大きな誤解があると思うのです」

「誤解ってなんですか」

「私の思想は、愛に基づいているということです」

 愛?

「私は人類皆に幸せになってほしい。それだけのシンプルな動機なのですよ」

 幸せ?

「人間は争うものです。幾度となく繰り返される戦争の歴史、資本主義に呑まれ無情な競争に晒される人々、余裕を失い、他者を攻撃することでしか自我を保てない人々……あなた方も見てきているはずです。それも、大量に。そんな方々に足りないのはなんでしょうか? 私は、愛だと思いました」

 そうなの?

「私は人類を愛しているのです。人々が傷つけ合い、自分で自分を殺していく悲しみを防ぐには、皆が善き思想の持ち主になれば良い。善き思想の持ち主であれば……あなた方は教科書でしか見たことがないかもしれませんが、人類の最たる悲しみである、戦争さえも根絶できる」

 戦争……。

「……話が逸れてしまいましたね。それほどまでに争いは人間の心に影を落とすものなのです。だからこそ私は、愛による思想の統一が必要だと思いました」

「詭弁です」

 フーレは言った。わずかに苛立ちの滲んだ声が部屋に響いた。

「どれも思想の統一を正当化する理由にはならない。全体主義に問題点があることはあなたも知っているでしょう。それなのにまだ愛だのなんだの言い続けますか。第一、イェレイさんに語っていた内容と違うじゃないですか。あの人への話には、愛なんて単語は出てきませんでしたよ」

「それはまだ、人類には”個別対応”が必要な時期だからです」

 フーレの反応にも淡々と丁寧に答えた。ヴァーデルラルドの語り口は優しい。ずっと、優しい。それなのに、レルマの手の震えは止まらない。レルマは何も言えない。ただヴァーデルラルドの胸元を、曖昧に見ることしかできない。

 ふいに、ヴァーデルラルドが言った。

「フーレさん。あなたは愛を知らないから、そのように思ってしまうのでしょう」

「は?」

 フーレは一瞬、目を瞬かせた。しかし、それから挑発するように口角を上げ、眉間に深い皺を寄せて言った。

「あなたに何がわかるんですか。あなたとは職場での付き合いしかない。いや、それ以上に、職場の中ですらほとんど接点がない。そんなあなたが知ったような口を……」

「あなたは幼少期に家族を亡くしていますね」

「は……」

「家族が亡くなってからは親戚に預けられたが、ほとんど関心をもたれず、半ばネグレクト状態。小学校から中学校、高校では、その性格と飛び級が足枷となり友達はできず、孤立」

 フーレは動かない。引き攣った顔で、ただヴァーデルラルドを見ている。

「大学でも友達らしき人間はできなかったが、研究室ではその能力から比較的うまく立ち回っていた。しかし周囲の人間からは容姿や年齢で判断され、指導教員にすらそのバイアスがかかっているのではないかと一人不安に陥る。そんな中、初めて出会った信頼できる大人が、イェレイさん……」

「そっ、そうだ! 僕にはあの人がいる!」

 フーレは突然、強く声を発した。それはまるで、暗闇の中でただ一つの希望を見つけたかのように。

 しかしヴァーデルラルドは、静かに言った。

「ですがあの方は、あなたに愛を与えてくれませんよ」

「っ……!」

 フーレの息の音だけが響いた。それから、場を静寂が包んだ。

 フーレの拳からするすると力が抜けていき、だらんと下ろされる。口は半開きになり、目はひどく揺らいでいた。フーレは言葉を発さない。

 フーレ君、どうして何も言わないの! レルマは声を上げようとした。しかし喉が凍ってしまったように動かない。レルマはただその様子を見上げることしかできない。

 ヴァーデルラルドは立ち上がる。そしてフーレに近づくと、かがんでそっと、その身体を抱きしめた。ヴァーデルラルドは赤子をあやすような声で言う。

「フーレさん、どうですか? これが愛です。温かいでしょう?」

 フーレは動かない。一言も発さない。どんな表情をしているのかすらわからない。レルマは立ち上がり、すぐにでもフーレを引き剥がそうとした。しかし、体が動かない。全身が震え、立ち上がるどころではない。

 フーレ君、どうして動かないの! どうして何も言わないの! 心の中では何度も叫んでいるのに、口がうまく動かない。やがてフーレは、ヴァーデルラルドの体にゆっくりと顔をうずめ、その手を腰にまわした。布ずれの音だけが微かに響く。

 どれくらいの時間が経ったのかわからない。もしかしたら本当に、永遠の時間が流れていたのかもしれない。ヴァーデルラルドはふとレルマの方を見ると、首を傾げて言った。

「レルマさん、あなたもどうですか。これが愛です。皆で一緒に、抱きしめ合いましょう」

 しかしレルマは、最後の勇気を振り絞って言った。

「……ぼ、僕はいいです」

 ヴァーデルラルドは小さく「おや」と言い、心底不思議そうに、再び首を傾げた。レルマは続ける。

「僕はヴァーデルラルドさんの考え方、とっても素敵だと思います。僕はヴァーデルラルドさんに賛成です。だから、これ以上何もしないで……」

 顔は鼻水と涙で汚れ、口角は引き攣ったまま歪んだ形で上がり、目は震えたまま見開かれていた。

 

***

 

 フーレは何も言わない。ただベンチに座って、両手で顔を抱えながら、焦点の定まらない目で床を見ていた。何か呟き続けているようだったが、その内容を聞きとることはできなかった。

 レルマもまた、隣でベンチに座り、床を見ていた。涙と鼻水は乾いて固まり、もはや顔の筋肉を動かす気力すらない。

 嘘、だった。嘘のつもりだった。ただ、あの場から逃げるためだけに、嘘をついたつもりだった。でもあの瞬間、あの言葉を言った瞬間、心からヴァーデルラルドを良いものだと思ってしまった気がした。自分の口から言葉にしたことで、それは嘘を超えて、本当のことになってしまった気がした。僕はヴァーデルラルドの考えに反対していたよね? ねえ、そうだよね?

「私ならいつでも愛を差し上げられます。欲しくなったらぜひ、またお越しください」

 ヴァーデルラルドの声が頭に響く。フーレはまた行ってしまうのだろうか。僕はそれを止められるだろうか。だってあれは、レルマの目から見ても、優しくて、温かくて、麻薬のように甘くて。

「早退する。シャワー浴びたい」

 フーレは立ち上がり、おぼつかない足取りで去っていった。レルマはその背中を見る。フーレの表情は見えなかった。声をかける気力すら、残っていなかった。

 

***

 

 自販機前。イェレイがボタンの前で、指を彷徨わせていた時だった。

「おはようございます、イェレイさん」

 耳元で囁かれるように声がかかった。

 イェレイが反射的に振り向くと、そこにはヴァーデルラルドがいた。にこやかな表情で立っていた。

「少し立ち話でもしませんか?」

 イェレイは一瞬眉をひそめるも、「いいですよ」と言った。普段の自分からは考えられないほどにぶっきらぼうな声が出たが、ヴァーデルラルドは特に気にする様子もなかった。

 ヴァーデルラルドは顎に手を当て、少し迷ったのち、オレンジジュースのボタンを押した。思わぬギャップ? とんでもない。それは人間の形をした何かが、どこかで聞き齧った人間の生態をただ模倣しているだけに見えた。

 いつの間にか、廊下を行き交っていた職員たちの姿は消えている。自販機の稼働音だけが静かに響いている。ヴァーデルラルドは一口オレンジジュースを飲んだ。「甘いですね」と笑いかけてくる。イェレイは「そうですか」と返した。

「あなたは買わなくて良いのですか?」

「ああ……買いますよ」

 イェレイはコーヒーのボタンを押した。微糖を買うつもりだったが、気づけば指は無糖を押していた。

 チラリとヴァーデルラルドを見上げると、ニコニコと柔らかい笑みをたたえながらこちらを見ている。気味が悪いな。思い浮かんだのはそんな感想だった。ひりつくような緊張感はある。しかしあの時のような恐怖は、不思議と湧いてこなかった。

 ふいに、ヴァーデルラルドが言った。

「私たち、仲良くなれそうですよね」

「はっ?」

「私たちは似たもの同士だと思うのです」

「何を根拠に……」

「色々、ですかね」

 そう言うとヴァーデルラルドは、再びオレンジジュースに口をつけた。そして「やっぱり甘いですね」と小さく笑う。

「そもそもあなたは人間なのですか?」

 イェレイはコーヒー缶の飲み口を見ながら言った。頭の上から「はて?」と小さな声が聞こえる。

「別に、大した話じゃありません。あなたのやることは全て神話じみている。なんですか、地表を花で満たして、兵器からも花を生やしたって」

「……」

「マインドコントロールの話になってからは、急に僕たちのスケール感にまで落ちた気はしますけどね。僕はあなたのことがわからないんです。あなたは本当に人間なのですか?」

「私は人間ですよ」

 イェレイは再びヴァーデルラルドを見上げた。ヴァーデルラルドはわずかに首を傾げ、ニコニコと笑っている。その表情と声音は、無邪気な子供のようで、心底楽しそうで……少なくともイェレイにはそのように見えた。

 

***

 

「イェレイさん、これ、資料です」

 イェレイが申請書を書いていると、上から抑揚のない声が降ってきた。フーレはイェレイに紙の束を渡すと、逃げるように去っていった。

 最近、フーレの様子がおかしい。イェレイが目を合わせようとしてもすぐに逸らされ、必要最低限の用事をこなせばすぐにイェレイの視界から外れようとする。明朗だった声は今では小さく、注意して耳を傾けなければ聞き取れない。廊下ですれ違った時には、イェレイが近づくとあからさまに歩速を上げ、顔を逸らし、目を伏せながら歩いて行った。

 明らかに、避けられていた。

「僕、何かしちゃったかな?」

 イェレイは同僚に聞いたが、「さあ?」と首を傾げられるだけだった。その同僚に対しては以前と変わらない態度で接しているようだった。

 ある夕方、イェレイが廊下を歩いていると、扉の前に佇むフーレが目に入った。何か迷っているような気配を感じた。嫌われていたとしても、軽い挨拶くらいはするべきだ。イェレイが声をかけようと、片手を上げた時だった。フーレはこちらに気がつき、大きく目を見開くと、イェレイの反対方向に全力で走り去っていった。

 その翌日から、フーレは職場に来なくなった。フーレが佇んでいた前の扉には、ヴァーデルラルドの名札が掲げられていた。

 

***

 

「草の根活動、頑張っているようだな」

「ええ、それなりに」

 ジルケはいつものように、ピンと伸ばした背筋で腕を組みながら言った。相変わらずの威圧感だが、それにもそろそろ慣れてきた。

「そうだ」

 ジルケは腕を組みながら言う。

「イェレイ君。君と会えるのは、これで最後かもしれない」

「えっ」

 ジルケは単なる世間話のように、あっけからんと言った。困惑するイェレイをよそに、ジルケは淡々と続ける。

「ヴァーデルラルドが本気を出し始めた。上層にも、”お話”された職員が現れ始めたんだ。上層が私達側につくことはもはや期待できない。噂によれば、ヴァーデルラルドは既に新しい技術を完成させたようじゃないか。本格的にそれが使われる前に、私の方から手を打とうと言うわけだ」

「ですが……」

「もしかしたら、次に君が私の姿を見るのは、テレビのニュースかもしれないな。ま、何をしようとしているかは秘密だ。と言っても今は準備段階だから、まだまだ先の話にはなるだろうがな」

「それじゃあ僕は……」

「君はそのまま、職員を正気に戻す草の根活動を続けてくれ。上層にはマークされているようだが、一度ヴァーデルラルドをはね返せた君なら問題ないだろう。それじゃあ、私はこれで失礼する。幸運を祈るよ」

 ジルケはそう言うと、イェレイの返事を待たずに会議室を去っていった。

「待ってくださいよ」

 返事はない。

「あなたがいなくなったら、僕はどうすればいいんですか……」

 

***

 

「レルマ最近ぼんやりしてるよ? 大丈夫?」

 清掃員の同僚が、声をかけてきた。

「大丈夫だよ、なんにもないから」

「そう? 困ってるならいつでも相談しなよー」

 そう言って同僚は部屋を出ていった。

 相談? できるわけがない。あの白い部屋で見たこと、聞いたこと、思ったこと、すべてが恐ろしかった。思い出すのも苦しかった。けれど、それをそのまま心の奥にしまっておくには、あまりに大きすぎる出来事だった。

「カウンセラーのとこ行きなよ」

 よほど様子がおかしかったのか、ここ数日の間に、何度もその言葉を言われてきた。でもこの傷は、見知らぬ人に話すことで癒されるものなのか。そんなことをしたらむしろ、もっと深く傷つくんじゃないのか。

 ふと、努めて見ないようにしていた選択肢に目が向く。端末の中の、連絡先の一つ。忙しそうだからと、連絡をためらっていた人。

 ああ、この人になら、受け止めてほしいかも。

 そこからは早かった。レルマは通話ボタンをタップする。しかしどれだけ待っても、繋がらない。それでもレルマはやめられなかった。取り憑かれたように通話ボタンを押しては切り、押しては切り、ついに発信履歴が二十を越えたところで、折り返しの電話がかかってきた。そこで初めて、誰にもずっと言えなかった、白い部屋での出来事を口にした。

「あのね、イェレイくん……僕ね……」

 

***

 

 イェレイは扉を開ける。騒がしい夜のファミリーレストラン。レルマは既に席に座っていた。

 イェレイがタブレットから注文する向かいで、レルマはずっとテーブルを見ている。料理が届いてもなお、レルマはそれに手をつけようとしなかった。

 イェレイも料理に手をつけず、窓の外の通行人をぼんやりと見る。ふと、レルマが顔を上げ、泣きそうな声で言った。

「イェレイくん、僕って、ヴァーデルラルドとは違うよね?」

 イェレイは微かに目を見開く。ハンバーグの香ばしい匂いが、あまりにも場違いだった。

「最近ずっと信じられないんだ。僕、いいんじゃないかって思っちゃったの。嘘ついて逃げてきたはずなのに、本当はそれが嘘じゃなくて、本当にそう思ってたんじゃないかって」

「レルマくんは絶対に違うと思うけど……」

 と、言い切れないのがレルマの恐ろしいところだった。イェレイの観察する限り、レルマは異常に高い共感力を持っている。レルマの中では、よほど理解が及ばない場合を除いて、自他の境界なんてあるようでないものだ。異常な状況下で、ヴァーデルラルドに心から同調してしまったというのも、少なくともその瞬間においては嘘ではないのだろう。そしてそれが尾を引いてしまったことも、嘘ではないのだろう。

 そしてイェレイは、やはり自分の観察する限り、レルマの言動と思考が直結していることも知っていた。思ったことは流れるように口から出て、口から出た言葉はそのまま自分の思考になる。イェレイの推測が正しければ、レルマの中で例えそれが嘘だったとしても、口に出した時点でそれが真実になってしまうのだろう。

「レルマくん、手、出して」

「うん……」

 イェレイはその手を握る。よし、これは、レルマくんにやってもらった動作だ。

「君は絶対、ヴァーデルラルドとは違う。思い出して。あの時僕をヴァーデルラルドじゃないって言ってくれたこと。フーレと一緒に、みんなを正気に戻そうとしてくれたこと。僕はちゃんと覚えてるよ。不安なら自分で、今ここで言ってみようよ。僕はヴァーデルラルドなんかには、賛成していなかったって」

 ……なんだこれ。これでは逆に、僕が洗脳しているようではないか。隣の席の家族連れが、怪訝な表情でこちらを見ている。やめて! 僕の意識、そっちに向かないで!

 レルマは無言でテーブルの上の手を見ている。やっぱり対応を間違えた? イェレイの手のひらに、じっとりと手汗が滲む。こんなに緊張したのはいつぶりだろう。面接? 学会?初めての国際学会が一番緊張したかもしれない。

 業務の中で理想の上司、部下として振る舞うことは難しくなかった。研究を進める中で素晴らしい人々に囲まれて、それを真似すれば良かっただけだから。けれど! 友人の情緒的な慰め方なんて、どうすればいいかわからない!

 ふと、レルマが控えめに言った。

「……僕はヴァーデルラルドなんかには、賛成していなかった」

 それを聞くとイェレイは自分でも異常とわかるくらいの笑顔になり、手に力を込めて言った。 

「そう、そうだよ、それでこそ、僕の知ってるいつものレルマくんだよ! あんなヴァーデルラルドよりも、僕は信頼できないかな? 僕たちは、ずっと連れ添ってきた友達だよ? あんな奴より、僕の言葉は信用できない?」

 ……いや、間違えたな。これこそ脅迫じゃないか。

「レルマくんがおかしくなっても、絶対に僕が止める。僕たちは友達だから。僕はレルマくんのことを、少なくともこの研究所では、誰よりも知ってるから」

 いや、これではカフェでのレルマの言葉を、そのままなぞっただけではないか。というより、「おかしい」の定義も不確かなのに、そんな言葉を軽率に吐いていいのか。それでもイェレイの口は止まらない。

「レルマくんがそうやって僕に悩みを教えてくれた時点で、レルマくんはヴァーデルラルドにはなりたくないって思ってるってことだよね? それが一番の真実じゃないのかな? 君はもっと自分の直感を信じていいんだよ。というよりそもそも、一瞬だけ同調したところで、レルマくんはヴァーデルラルドになったりしない。君にはもっと、君だけの歴史があるはずだよね? それがあんな一言だけで、崩れたりなんかしないよね? うん、するわけないよ! ヴァーデルラルドなんかよりもずっと、君を見てきた僕はそう思うんだ!」

 ああもうめちゃくちゃだ。何を言っているのか、自分でもわからない。

 レルマはポカンとした顔でこちらを見ている。イェレイは冷や汗をかきながら次の言葉を探す。しかし、何も思い浮かばない。

 額に汗を垂らしながら、曖昧に視線を泳がせていた時だった。レルマの口から、ふふっと小さな笑い声が聞こえた。

「イェレイくん、必死すぎて面白いかも」

「えっ」

 気がつくとイェレイは、立ち上がってテーブルの半分まで身を乗り出していた。見開かれたままの目は乾燥し、手は汗で滑りそうになるほどじっとりと濡れている。隣の家族連れが皆、こちらを見ている。

「そんなに必死に言ってくれる友達がいると、僕ってやっぱり大丈夫な気がしてきた」

 レルマは笑いながら言った。

「ありがと、イェレイくん。冷めちゃったけど、ハンバーグ食べよ」

 

***

 

 レルマがごみ袋の取り替え作業をしていると、イェレイと、白衣を着た二人の人物が立ち話をしていた。白衣の人物は、片方は黒髪で、もう片方は茶髪だった。待ち合わせもなしにイェレイと会えるなんて珍しい。レルマは声をかけようとしたが、いつになく真剣なイェレイの表情を見て、静かに見守ることにした。

「倫理的な理由で録音音声を渡すことはできませんが、ヴァーデルラルドははっきりと、次のステージでは人々の内面の浄化が必要だと言っていました。思想の統一を良いものと考えているようです。その手段として、テクノロジーによる内面への介入も検討しているようでした」

 おお、イェレイくん、はっきり言っててかっこいい。レルマは感心しながらイェレイを見る。イェレイは続けた。

「僕個人は、この考えを危険視しています。研究においても、それ以外の活動においても、個人の自律性と多様性は不可欠だと考えていますから。お二人にわざわざ時間をとっていただいたのも、この懸念を共有したかったからなのですが……」

「別にいんじゃね?」

 黒髪の人が言った。

「だって実際、一般人って愚かじゃん。それが正されるなら賛成ー」

 嘘でしょ!? レルマは目を見張った。茶髪の人も口を開く。

「私は元々ヴァーデルラルドの存在、いいものだと思ってませんでしたよ。あの人って、科学の正式なプロセス踏んでないじゃないですか。だから私は、最初から……その、ちょっと危ない存在だと思ってて……科学者としては、うん、やっぱり活動停止した方がいいと思ってます」

 その人物の目は泳ぎ、右手で何度も鼻をこすっている。

 イェレイが「お時間いただきありがとうございました」と頭を下げると、二人の研究員は早足で去っていった。それからイェレイはレルマに気が付き、優しく手を振った。

「もしかして、ずっと見てたかな?」

「うん、ごめん、見ちゃってた」

「別にいいよ」

 イェレイは笑った。それから、白衣の研究員達の背中を見て続ける。

「ああいう反応は珍しくないんだ。多分黒髪の人は、『自分はテクノロジーを使われる側じゃない』って信じて疑ってないんじゃないかな。それで茶髪の人は、本当はヴァーデルラルドに取り込まれてるけど、科学者としての体裁みたいなのを保つために、ああいうことを言ってたんだと思う。もしテクノロジーを使って”お話”されてたんだとしたら、ニエラの時より精度が上がってるね。本当のところはわからないけど。あ、でも、進歩性の話が出てこなかったのは意外だったかも」

「進歩性って?」

「ううん、こっちの話」

 イェレイは小さく首を振って言った。

 イェレイくん、また饒舌になってる。イェレイの声は淡々としていたが、その表情には疲れも滲んでいた。そんな横顔も絵になっていると場違いな感想が浮かんでくるが、顔に力を入れて必死に消していく。

「みんないろんなこと言うけど、なんだかんだ、ヴァーデルラルドのこと好きなんじゃないかな。ユニークな人だし。一回好きになっちゃったものって、自分で否定するのも、誰かに否定されるのも、つらいことだと思う。だからああいう反応になるのは、理解できるんだ」

 レルマは驚いた。まさか科学者であるイェレイの口から、「好き」なんて言葉が出てくるなんて。

 イェレイは腕時計を見ると、「ごめんね、もう行かなきゃ」と言い、去っていった。言葉をかける間もなかった。

 背中を見送る。イェレイくんが頑張ってるから、僕も何かしないと。レルマは決意し、ごみ袋を強く縛った。

 

***

 

「さすがにこれは無茶振りすぎますって……」

 ゲラシーは片手で頭を掻くと、操作パネルに部屋番号を入力し、インターホンを押した。

 ピンポーン。無機質な電子音が玄関ホールに響く。ゲラシーは、栄養ゼリーとカットフルーツ、ジャスミン茶の入ったビニール袋を片手に、家主を待った。

 ゲラシーは目線だけであたりを見回す。あの子、年齢の割にはかなり良いところに住んでいる。自分が新人だった頃はどうだったか。最初に選んだ安アパートに惰性で何年も住み続け、気づけばそこは寝るだけの場所になっていて、そうだ、途中から恋人の方の家に居座ることが多くなっていって……ゲラシーの頭の中は、恋人の顔で埋め尽くされていった。

「やっぱ出てくるわけないかぁ」

 ゲラシーが背を向け、歩き出そうとした時だった。

「待って……」

 操作盤のスピーカーから、若さはあるが力は無い、もはや亡霊になったかのような声が聞こえてきた。ゲラシーは振り返る。

「フーレさん、出てくれたんすね」

「どうして、あなたがここに……?」

「イェレイさんに頼まれたからっす」

 

「あの……せっかく買ってきてくれたのに申し訳ないですが、僕、ジャスミンティーはちょっと……」

「あっ、これは俺用です」

「……」

「俺これ好きなんすよ。茶葉培養センターの人には感謝しかないっすね」

「……」

 寝癖だらけの部屋着のフーレは、ゼリーにもフルーツにも手をつけようとしない。当然か。

 ゲラシーは窓の方に目をやりながら言う。

「フツーにホラーっすよね。一回しか喋ったことのない年上が、いきなり家に来たんですから」

「……」

「でもイェレイさんにすごい頼まれたんですよ。あなたは信頼できる大人だし、フーレとも話したことがあるからって……買い被りすぎだと思いますけどね」

「……」

「イェレイさん、えらく気にしてましたよ。僕が嫌われるのは構わないけど、音信不通になるなら放っておけないって……」

「嫌いになんてなるわけない!」

 突然の声にゲラシーの肩が小さく跳ねた。ゲラシーが目線を向けると、フーレは縋り付くような表情で身を乗り出している。それから目を伏せ、乗り出した体をぎこちなく戻していった。

 フーレは消え入りそうな声で続ける。

「でも行けるわけないんですよ。僕もう、どうやってあの人を見ればいいかわからないんです。どうやってあの人と話せばいいかわからないんです。あの人の顔を見るのも、通知を見るのですら怖くて……」

 フーレは次なる言葉を探すように、伏せた目線を彷徨わせた。多分この子は、自己開示をしたくてたまらない。でも多分、今はその時ではない。

「……とりあえずアンタが生きてることがわかってよかったですよ」

「ぇ……」

「また来ます。俺もアンタのことが心配なんで」

「……」

「あとあの人、そんな高尚な人じゃないですよ」

「……」

 ゲラシーは鞄を持ち、立ち上がると、フーレの方を見ずに歩いてドアノブに手を掛けた。

「そんなこと言われたって、今更どうすればいいんですか……」

 背後から小さく、掠れたような音が聞こえた。

 

***

 

「レルマくん、もうヴァーデルラルドの話はしないで」

 イェレイからの突然の電話。ちょうど昼食を食べ終わったタイミングで、レルマはそう告げられた。イェレイの声は、穏やかだが、反論を許さない響きがあった。

「もう厄介ごとに巻き込まれてほしくないんだ」

 イェレイの声は優しい。しかしどこか冷たい。

 レルマは、やり方がわからないなりに、イェレイに協力するつもりでいた。それがまさか、イェレイ本人にやるなと言われるなんて。

「でもイェレイくんは、やるんでしょ……?」

「やるよ。でもレルマくんはやらないで。これは友達としてのお願いなんだ」

 お願いというより、命令に聞こえた。

「言いたかったことはそれだけなんだ。じゃあ、またね。また一緒にご飯、行けたら嬉しいな」

 そう言うと、イェレイは一方的に電話を切った。

 レルマは空になったプレートを見つめる。

 なんで? 本当はもっと頼ってほしいのに。頼ってほしいって、あの時のカフェで言ったはずなのに。イェレイくんは、変なところで自分勝手だ。

 それでも、ただの清掃員である自分にできることは何もないと、諦めに似た納得があったのも事実だった。僕がイェレイくんの力になれたのは、フーレ君がいたおかげ。「論理的な話」なんてものをできない自分が、誰かを納得させられるとは思えない。

 レルマは黙ってプレートを片付けた。それから、午後の作業に戻った。ごみ袋を縛る手に、力が入らない。今は自分が、世界で一番小さい人間に思えた。

 

***

 

 イェレイは職場のベンチに座り、天井を見ていた。

「進歩性を盾にヴァーデルラルドを肯定する人が、あまりに多すぎる……」

 職員達に言われてきた言葉を思い出す。

「最新のテクノロジーを否定するなんて、保守的すぎる」

「そういう保守的な考えが、科学の進歩を妨げる」

 それ自体は理解も共感もできる。最新のトレンドを追ってこそ研究者だ。新しい考えを取り入れていくことは、むしろイェレイも歓迎していることだった。

 しかしこの一連の主張においては、内面の浄化の加害性そのもの以上に、テクノロジーの権威性にこそ問題があると考えた。今や権威は、完全にヴァーデルラルド側にある。であればそのテクノロジーを肯定することは、現状の権力構造を強化するだけのものではないか。それこそが保守的な態度なのではないか。

 イェレイは言葉を尽くしたつもりだった。しかし話はほとんど通じなかった。多くの研究員は、科学哲学の話になった途端、防衛的な態度に変わった。皆、形式的な革新性に惑わされていないか。内面の浄化という加害性を無視してまで新しさを肯定することで、進歩的な科学者というアイデンティティを守ろうとしているだけではないか。もしかして皆、大学で倫理の授業を取らなかったのだろうか。それともこれこそが、”お話”の本当の効果だろうか。

「僕の方がむしろ、革新派じゃない……?」

 イェレイは天井に向かって呟く。

「今の僕って、確実に反体制派なんだけどな……」

 自嘲気味に呟き、缶コーヒーを傾けた時だった。

「すみません、あなたがイェレイさんですよね?」

 白衣の見知らぬ若い人物が、か細い声で話しかけてきた。新人の研究員だろう。金色の無造作な短髪と不安げな緑色の目が特徴の、どこにでもいそうな風貌の人物だった。イェレイは姿勢を正し、その人物の目を見て言った。

「どうしたのかな?」

「あの、私知ってます、あなたがヴァーデルラルドに反対してるってこと」

「うん……?」

「私もヴァーデルラルドのこと……というか、ヴァーデルラルドに賛成するべきっていう考えにみんなが染まって、ヴァーデルラルドに反対する意見を言えなくなってきてる空気が怖いんです」

「確かにその空気はあるね」

「でっ、ですよね!」

 その研究員はわずかに身を乗り出して言った。

「わ、私、こういう研究所に来る人って、みんなマシンみたいな人だと思ってたんです。優秀で、冷静で、感情に流されず、合理的な判断ができて、みたいな。大学で私が所属していた研究室にはめちゃくちゃな人もいましたけど、でもそれは、あくまで学生だからだと思っていたんです。でも、周りの人のヴァーデルラルドに対する態度を見ていると、ここの人たちも全然冷静な判断なんかできてないんじゃないかって思うんです」

「そうだね。科学者も人間だから、感情に流されることはあるよ。みんな頑張って流されてないふりをしているだけ」

 僕も流されるしね。イェレイは心の中で呟く。その研究員は続けた。

「私みたいな新人が今、ヴァーデルラルドに反対する意見を言うと、みんなに冷たくされるんじゃないかって不安なんです。だっ、だから、イェレイさんみたいにはっきり意見が言える人は、変な言い方ですけど、私みたいな人間にとって、”灯火”なんです!」

 そう言うとその研究員は、顔を真っ赤にしてイェレイを見た。イェレイは口を半開きにして、その研究員を見る。灯火だなんて、僕はそんな人間じゃないのに。

 その研究員は赤い顔のまま、目を伏せた。

「すみません、急に来て、変なこと言っちゃって。でも、どうしても言わずにはいられなかったんです。ここに同志がいるって、思って欲しかったんです。こんな新人の私が言うのもなんですけど……」

「ありがとう」

 イェレイは優しく笑って言った。

「君のそういう言葉で、僕みたいな人間は救われるよ」

 イェレイがそう言うと、その研究員は「失礼します!」と言って走り去っていった。

 イェレイは再び天井を見る。

「救われるよだなんて……何を言ってるんだろうね、僕は」

 口から、笑いともつかない息が漏れた。

 ニエラがお話された頃が懐かしい。あの時は異変がわかりやすかったからよかった。しかし今は……。

 僕が直面しているのは、心理学の問題? あるいは社会学? どれも触れたことなんかない。

 ああ、もっと広く勉強しておけば良かったかもしれないなぁ。イェレイは静かに後悔し、コーヒーを飲み干した。苦かった。

 

***

 

 ある時点から、ヴァーデルラルドを取り巻く環境に変化が現れ始めた。その名前を出すこと自体が、明確にタブー視されるようになっていった。理由は単純。皆、それについて議論したくないから。

 イェレイ自身も、その空気は痛いほどに感じていた。

「でもこれって、真面目に議論しなくちゃいけない内容だよね……?」

 イェレイは虚空に向かって呟く。

「僕たちは科学者なのに、そんな逃げるような態度なんか、取るべきじゃないよね……?」

 イェレイは敢えてその名前を出した。出し続けた。しかし出せば出すほどに、場の空気は冷え込んでいった。イェレイに向ける視線は冷たくなっていった。

「用事があるのでちょっと……」

「今立て込んでまして……」

 本気で嫌がる様子の人物もいれば、そんな空気すら読めないのかと、嘲笑うような様子の人物もいた。イェレイよりもずっと年上の研究者の中には、その話は出してはいけないと注意する人物もいた。

 イェレイはデスクに座り、背もたれに体重をかける。

「僕だけがこんな……一人で必死にさ……」

 椅子が軋む音が響く。

「これって学生時代の再現じゃない……? 笑えるなぁ……」

 学生時代、独善的な正義感、ヴァーデルラルドとの共鳴……不快な連想を振り払うように頬を叩く。それからイェレイは眉間に手を当て、目を閉じた。僕は論理に基づいた根拠をもって、この行動をとっている。それに、今の僕にはレルマくんやジルケさん、フーレのような仲間が……いや、皆はもういない。しかも一人は、自分から断ち切った。僕ってもしかして、とんでもない馬鹿だった?

 イェレイは目を開け、意味もなくディスプレイを眺める。

 ヴァーデルラルドは多分、人間の弱い部分を突くのがうまい。いや、今は話すら出ないから、正確には「うまかった」か。

 けれど僕は、相手の言動から内面をいくらかは推測できても、その人の弱さまではわからない。仮にそれがわかったとして、クリティカルな一言を投げかけることはほぼ不可能だ。ファミレスのレルマの件で痛感した。僕は情緒に訴えかけることができない。どこまでも分析するだけ。これが僕の限界だ。僕はバカみたいに正直に、対話でぶつかることしかできない。それなのに。

「対話すらできないなんてなぁ……」

 イェレイは天井を仰ぎ見る。天井を見る癖がついたのはいつからだろう。

 姿勢を戻し、マグカップを手に取る。残り少ないコーヒーを一気に呷ったが、苦さすら感じなかった。

[6に続く」

 

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