科学の場における神の取り扱い[6]
今日も、交わしたのは事務的な会話だけだった。
上司も部下も同僚も、職務に必要な会話だけをして去っていく。こういった日々にも、もはや慣れてきた。
イェレイはかつての日常を思い出す。上司が意味もなく絡んできては、くだらない世間話を交わし、缶コーヒーを奢ってくれた。後輩には何度も、「イェレイさんなら安心して相談できます」と言われてきた。同僚とは「今日はどこにする?」と言いあって、夕食をともにしてきた。それが今は、すべて無い。
後輩らしき人物が、イェレイをチラリと見ては目を伏せる。同僚が、抑揚のない声で事務的な報告をする。後ろの席で、上司が同僚達を食事に誘っている。聞こえてきたのは、「せっかくならみんなで行った方が楽しい」という明るい声。
みんなもっと、わかりやすく虐めてくれればよかったものを。そうすればやり返せたのに。僕は高校時代、ラグビー部とやりあったことがあるんだぞ……なんてね。イェレイの口から乾いた笑いが漏れる。
冷め切ったマグカップを手に取り、澱んだコーヒーを見下ろす。濃い。黒い。すべての存在が、今は空虚に思えた。
***
イェレイは電気を消し、ベッドに横になって目を閉じる。できる限り体を脱力させたつもりだった。しかし、一向に眠れそうにない。
「また寝不足出勤なんて、できれば避けたいんだけどな……」
イェレイは端末に手を伸ばし、眠るための方法を探す。しかし、どれもピンとこない。眠れないのであれば仕方ない。イェレイは立ち上がり、電気をつけて、ノートPCの置かれたデスクに座った。
メールを開く。
「ジルケさん、生きてますか」
イェレイはテキストボックスに文字を打った。しかしそれもすぐに消し、再び打っては、消した。ジルケには既に三通のメールを送っていた。しかし返事は来ない。
これだけ待って返信がないのならば、これ以上送っても無駄だろう。わかっていても、受信ボックスを開かずにはいられなかった。
「もしかしたら、次に君が私の姿を見るのは、テレビのニュースかもしれないな」
あの時のジルケの平然とした笑みが、何度も再生される。
何が「ヴァーデルラルドが本気を出し始めた」ですか。何が「私の方から手を打とうというわけだ」ですか。何が「何をしようとしているかは秘密だ」ですか。何が、「幸運を祈るよ」ですか。
ジルケには「皆を正気に戻してほしい」と言われた。ですがそもそも、正気ってなんでしょうね。
イェレイは机に突っ伏すと、眉間に深く皺を寄せて目を閉じ、髪をくしゃりと握った。胃の中でただ無力感が燻っている。髪を握る手に力がこもる。それでもイェレイは、ただジルケを信じることしかできなかった。それよりも良い方法が思いつかなかった。
イェレイは再び目を開け、顔を上げる。画面には、返事がないままの受信ボックスだけが映っている。
「信じるって、こういうことなのかな……」
イェレイは笑うように呟いた。あまりにもよく使われるその言葉の重みを、今やっと知ることができた気がした。イェレイはマウスに手を乗せたまま、何をするわけでもなく、ディスプレイを見つめていた。
やがて、重い虚脱感がやってきた。横になろう。眠れるならなんでもいい。イェレイは電気を消し、ベッドにもぐり込んだ。意識が沈んでいく。沈んでいく。沈んでいく。沈んでいく……。
***
その日は突然やってきた。
***
イェレイが朝食を食べながらニュースを見ていると、とある文面が目に入り、食べかけのサラダを落としそうになった。
「刑務所爆破事件。容疑者は総合研究施設Aの職員」
研究施設Aはまさにイェレイの職場だった。
「いや、まさかね……」
イェレイは一つの可能性を頭に浮かべながらも、努めてそれを振り払い、深呼吸をして家を出た。相変わらず地面は、頭がおかしくなりそうなくらいに白い花々で覆われている。研究所まで続くその香りは、普段であれば、あまりの甘さにうんざりするものでしかない。しかしこの時ばかりは、やけに不安を掻き立てられた。
案の定、研究所は事件の話題で持ちきりだった。イェレイは顔を顰める。詳細もわかっていない不確かな情報の断片だけで勝手な憶測をするべきではない。しかし、そうわかっていても、イェレイは落ち着かず、意味もなくデスクを立っては廊下を歩き、そうしてはまたデスクに戻る動作を繰り返していた。
***
そしてその時は唐突にやってきた。
耳に入ってきたのは、何か遠くから響く、スピーカーから発せられるような、異様なノイズを含んだ音楽と、人の声らしき音。それは、通常の生活を送っていればまず聞くことのない音。他の職員達もざわついている。職員達が窓を開けて音の方向に群がる中、イェレイも同じように群集の後ろから外を見る。
そしてイェレイは、眉間に皺を寄せ、目を細めた。
「なにあれ」
そこにあったのは、一台の真っ赤な軽トラックが、花畑を轢き潰しながらやってくる、異常光景だった。
***
いち早く異変を察知したレルマは、モップを放り投げて研究所のエントランスに走った。何かが近づいてくる気配がした。そして、実際に近づいてきていた。
外に出て、レルマは目を見開いた。真っ赤な軽トラックが、真っ白な花畑にタイヤ痕を刻みながら、研究所に突っ込んでくる!
トラックにいたのは、運転席の屋根の上に立つ緑の服を着た人物と、運転席に座るやや小さな人影、そして助手席で窮屈そうに座る大きな人影。レルマの視力は捉えた。あれは、トールードとゼゼと、ジルケだ!
トールードの持つ拡声器と荷台に積まれたスピーカーから、雑音混じりの声と音楽のようなものが響く!
「地獄の底から這い上がってきたぜェーーーーーーッ!」
恐らくそう言っていた! ただいかんせん、声が遠い!
「そんなところに乗ったら、危ないですよおーーーっ!」
レルマの決死の叫びは届かない!
そうしているうちに、他の職員達も集まってきた。どよめきが走り、軽トラックの音が聞こえなくなる。皆、困惑と不安に満ちた顔をしていた。誰も、どうすればいいかわからないまま、ただ口々に意味のない言葉を発し、その場を動くことができなかった。
職員達の声により、トラックの音がかき消される。それでもレルマは、トールードが何か大事なことを言っている気がした。職員達に向かって叫ぶ。
「何言ってるか聞こえないです! 静かにしてください!」
それでも職員達のざわめきが止むことはなかった。しかしそれでも、そんなことはどうでもいいと言わんばかりに、トラックも止まることはない。トラックは止まらない!
レルマは再びトラックを見る。
「よくも投獄してくれたなァーーーーーーッ! なァーにが思想犯だッ! 今度こそぶっ潰してやらァーーーーッ!」
トールードの声が遠くから、かろうじて、そう聞こえてきた。
***
「なあゼゼ君、もう少し速度を上げることはできないのか?」
「今加速したら、トールードが落っこちます」
「あの人間なら多少落ちても平気だろう」
「それはジョークですか?」
トラックの車内で、ゼゼとジルケが言葉を交わす。
スピードメーターは時速四十キロを示している。トラックはジルケの体格に合わず、首を傾けることで辛うじて収まっていた。トールードは相変わらず、二人の頭の上で演説している。声というより音の殴打だった。しかしそれを凌駕する圧で、荷台のスピーカーからは爆音の音楽が流れ続けている。それはゼゼが過去に歌った、反体制パンクロックだった。
ジルケは横目で言う。
「なあゼゼ君、そろそろこの曲にも飽きた。他のはないのか?」
「はい、ちょっと待ってください」
ゼゼがボタンを押す。するとこれまでの反体制パンクロックに代わり……爆音のボサノバが流れ出した!
なんというリラクゼーションの暴力か! 屋根の上でトールードが一瞬驚いたように「おわっ!?」と言う。ジルケはため息をついた。
「君のプレイリストはどうなっているんだ……?」
「すみません……」
ゼゼがもう一度ボタンを押すと、再びゼゼの歌う反体制パンクロックが流れ始めた。それはこれまでとは違う曲であり、その怒りの純度は、さらに研ぎ澄まされていた。
***
トラックが突っ込んでくる。レルマは口を開けて、その光景をただ見ることしかできなかった。真っ赤なトラック。屋根の上ではトールードが拡声器片手に何かを叫んでいる。スピーカーからは、激しいギターの音と、人の歌声。
レルマはエントランス前に立っていた。トラック、速度は極めて安全運転、しかしドアを前にしても止まる気配はなく、まずいまずいまずいまずい……!
その時だった。横から突き飛ばすように抱き抱えられ、レルマは地面を転がっていた。我に返りレルマがその人物を見ると、息を荒げたイェレイがレルマを見ていた。
「よかった……間に合った……」
あ、僕、轢かれそうになってたんだ。レルマはイェレイに手を引かれて立ち上がる。イェレイの真っ白なシャツは、土で汚れていた。イェレイは泣きそうな、しかし柔らかい笑みを浮かべて、レルマを見ていた。レルマは未だ呆然としていた。しかし少し遅れて、強く抱き抱えられた体温が体に蘇ってきた。
ふと場違いな記憶が頭を流れる。あの電話、ヴァーデルラルドの話をするなという電話で、レルマはイェレイに突き放されたと思った。もう自分は要らない存在なのだとすら思った。でもあれは、突き放したわけではなくて、本当にただ、ちゃんと、自分のことを思っていてくれたということ……だよね!
しかしその感慨は、トラックの音によりすぐに打ち消される。エントランスの壁を破った車体はそのままゆっくりと後退し、やがて止まった。トールードはいつの間にか荷台に退避している。
そしてトールードは再びトラックの屋根に上がると、研究所の屋上目掛けて叫んだ。
「出てこいヴァーデルラルドォ! 刑務所から復讐しに来たぜェ! 全面戦争だァッ!」
***
「じっ、ジルケさん! これはっ……!」
「刑務所を爆破したのはこの私だ」
「えっ」
イェレイは、助手席から降りたジルケに駆け寄った。そして開口一番、この言葉を聞かされた。
「革命にはどうしてもあの二人が必要だと思ったのでな」
「えぇ……」
「ゼゼに関しては、私の肩書きで刑務所に圧をかけたらあっさりと釈放された。しかしトールードは……よほど問題行動が多かったのだろうな、何をしても釈放される気配がなかったから、刑務所の上空を爆破して、そのどさくさに紛れて救出した」
「えぇ……」
「安心しろ。位置と時間には気を配った。怪我人は出していないはずだ」
「えぇ……でも、そんな……」
「見ろ、ヴァーデルラルド様のお出ましだ」
ジルケが屋上に向けて指を差す。イェレイもその方向を見た。そこでは、太陽に当てられ、もはや光そのものとなったようなヴァーデルラルドが、静かに見下ろしていた。
ヴァーデルラルドの慈愛に満ちたような声が響く。
「ジルケさん、ゼゼさん、トールードさん。お久しぶりです。お元気そうで、何よりですよ」
「なァーーにが、お元気そうで何よりだ!」
トールードが拡声器で応戦する。
「わけわかんねェ罪にこじつけやがって! テメェ刑務所の飯食ったことあんのか!?」
「それは私ではなく、上層部の皆さんが判断したことですよ」
いつの間にか、スーツを着た幹部らしき人々が、二階の窓からこちらの様子を覗いている。隣のジルケを見ると、腕を組み、軽蔑するようにそれを睨みつけていた。気がつくとエントランス前は、ジルケ達とそれ以外の陣営、真っ二つに割れていた。
再びヴァーデルラルドの声が響く。
「皆さん、私はあの方々と、お話する必要があります。皆さんの力で、私のもとに連れてきてください」
その言葉に、職員達は困惑したようにキョロキョロとあたりを見まわした。暴力沙汰に慣れていないのが明らかだった。誰も足を踏み出そうとしない。
「皆さん」
ヴァーデルラルドがもう一度声を発した。すると、一人、二人と、意を決したように息を飲み込んで、足を踏み出す者が現れ始めた。皆がゆっくりと歩いてくる。その時だった。
「ダメですっ!」
一人の若者が、手を広げて、両陣営の間に立ち塞がった。
「わっ、私は、こっち側です! お話なんて、許さないです!」
その声は震えていた。腕も震えていた。しかし、その立ち姿には確固たる意思が感じられた。その若者の、金色の無造作な短髪、その若者の声は、以前イェレイを「灯火」と呼んだ、あの……
それを皮切りに、イェレイ達の陣営に向かって走り出す職員達が続出した。「俺も!」「私も!」そんな声とともに、イェレイ達の陣営は一気に膨れ上がっていった。
ジルケが微かに笑って言う。
「草の根活動、頑張ったみたいじゃないか」
イェレイはわずかに目を見開き、それから、潤みそうになる目を隠すように視線を逸らした。しかしそれでも、人数差は相手の方が圧倒的に上だった。
突然、耳をつんざくような高音が辺りに響く。その場にいた全員がびくりと肩を上げ、直後、力が抜けたようにだらりと手を降ろした。
「皆さん、私の考えに共感してくださるなら、できますよね? あの方々を、私のもとへ連れてきてください」
そのヴァーデルラルドの言葉により、相手陣営の職員達が、虚ろな目で力無く迫ってきた。
イェレイの意識も、ふわりと飛んでいく。自分はヴァーデルラルドに反対していたはずだ。それでも、あの日の夢の中で、ヴァーデルラルドに共鳴した自分は確かにいた。じゃあ、僕は、この人たちを捕まえないと……。
しかし突然、背中に衝撃が走った。イェレイは我に返る。叩いたのはジルケだった。
「しっかりしろ。ほら、そこの清掃員も」
そう言ってジルケはレルマの背中も叩いた。レルマもハッとしたように、目を見開く。
トールードは自力で力を取り戻したかのように立ち上がると、拡声器を握って叫んだ。
「テメェどんな技術使ってっか知らねえけどよォ……」
荷台にはいつの間にか、ギターを持ったゼゼがスタンドアップしている。
「そっちがその気なら、こっちだってやってやんぜ!」
その瞬間、スピーカーから爆音のパンクが炸裂した!
***
「今がチャンスだ。ヴァーデルラルドを直接止めてこい」
ジルケがイェレイにそう言った。そのイェレイが、レルマも一緒に来てほしいと言った。
レルマはイェレイと手をつないで、階段を駆け上がる。
エレベーターは止まっていた。イェレイは「ヴァーデルラルドが止めたのだろう」と言った。
屋上までの道は遠い。まだ遠いのに、息が切れ始める。時々、意識が飛びそうになる。レルマの中で、ヴァーデルラルドに同調した、あの日の記憶が蘇る。それでも、握ったイェレイの手を確かめれば、またここに戻ってくることができた。
外から聞こえるゼゼの歌声が、レルマ達の背中を押す。トールードの怒りの声が、背中を押す。
「あなたのしていることは対話ではなく支配です」
別の声が混ざり始める。イェレイが白い部屋に連れ込まれた時の、ボイスレコーダーの記録を切り取ったものだった。
支配です支配です支配です支配です……イェレイの声がスピーカー越しに何度も響く。イェレイが握る手に力がこもった。イェレイの声が、レルマを正気の世界に戻す。
突然、イェレイの走るスピードが急激に落ちた。
「大丈夫っ!? 少し休もうか?」
イェレイは真っ赤な顔で、首を振った。
「大丈夫……今止まるわけにはいかないよ……」
イェレイの足は震えていた。手は汗で滑りそうだった。それでもイェレイは走り出した。レルマも一緒に走り出した。互いの手を強く握りしめたまま、ただ一点のゴールだけを目指して走った。
屋上の扉を開けるのに、少しの迷いもなかった。強烈な光が差し込む。それでもレルマ達は、真っ赤な顔で、息を切らし、地面に汗を垂らしながら、真っ直ぐにヴァーデルラルドの背中を見た。もう恐怖はなかった。
「おや、ここまで上がってこられるとは」
ヴァーデルラルドは振り返り、優しい笑みをたたえて言う。眩しさでその輪郭は曖昧に溶けていた。
イェレイが一歩前に出て言う。
「ヴァ……ヴァーデルラルドッ……僕たちは、あなたを止めに来ましたッ……」
「なぜ?」
ヴァーデルラルドは心底不思議そうに、首を傾げた。
「私は人類愛に基づいて、このような行動をしているのですよ。あなた方にはお話したでしょう? 人類皆が善き思想を持てば、争いは消え、汚染という過ちを繰り返さずに済む。人類は皆幸せになれる。それの何が間違っているというのでしょう?」
「違うよっ!」
レルマは叫んだ。レルマはよろけながら前に進み言う。
「ヴァーデルラルドさんっ……あなたは、あの音楽に感動しませんでしたか……? あの叫び声に、気持ち、動かされませんでしたか……? あれって、ヴァーデルラルドさんの理想の世界を作ったら、もう聞けなくなっちゃいますよ……?」
ヴァーデルラルドは黙っている。レルマは勢いのままに続ける。
「ヴァーデルラルドさんは、人類を愛しているんでしょう……? 人類……人って、本当にいろんなことするんですよ……みんながめちゃくちゃなことやるから、いろんな音楽ができたり……いや、音楽じゃなくても……アートとか、友達とか、考え方の議論とか、いろいろ、そういうのができるんですよ……」
レルマはままならない呼吸のまま、鼻水をたらし、目を大きく見開いたまま、真っ直ぐに言った。
「ヴァーデルラルドさん……それってすっごく、人間っぽくないですか……?」
レルマの瞳孔が大きく開く。
「それってすっごく、愛じゃないですか……?」
沈黙。パンクの音は、もはや遠く、ぼやけている。録音した声も、もう聞こえない。レルマとイェレイの呼吸の音だけが、やけに大きく響く。
屋上に風が吹いた。ヴァーデルラルドは小さく微笑み、言った。
「……矛盾点を突かれてしまいましたね」
それから静かに、装置のスイッチを切った。
***
「ふんふん、ふ〜ん」
レルマは鼻歌を歌いながら、モップをかけていた。相変わらず、廊下から聞こえてくるのは専門用語ばかり。たまに専門用語がない会話が聞こえてきたと思っても、やっぱりよくわからない話だったりする。
イェレイは笑って言った。
「もうね、僕たちはああいう話をするのが好きなんだよ。楽しくて仕方がないの。そういうものだと思って!」
レルマは「そうなの?」と首を傾げる。
「これでもね、前よりは建設的な議論ができるようになったんだよ」
イェレイは心から嬉しそうにそう言った。それにつられて、レルマも心から嬉しくなる。
「今度こそは良い研究所……良い世界にしていきたいよね」
ふと、イェレイは窓の外を見て言った。レルマは「うん」と頷く。その目の先には、生き物のいなくなった、青く澄んだテテ川が、遠くに、穏やかに流れていた。イェレイの瞳もまた、青く澄んでいた。
フーレはいつの間にか復帰していた。曰く、ゲラシーが何度も家に来てくれたことで徐々に持ち直していったとのこと。なぜゲラシー? とは思ったが、あの人の人柄を考えれば妙な納得もあった。
「イェレイさん? ああ……イェレイさんも好きだけどね、ゲラシーさんは本当にすごいよ。あの人は初めて、僕のことを立場と能力で判断しないで、等身大で僕を受け入れてくれた人なんだ。お前もゲラシーさんとは交流があったみたいだけど、今じゃ、僕の方があの人のこと詳しいだろうね!」
フーレは斜め上に顔を上げ、自慢げに言った。
ゼゼ、ゲラシー、トールードとの、小さなお茶会も再開した。
「ヴァーデルラルドの奴、『興味が無くなった』って理由だけで、こっからいなくなるんだろ? 俺なんか好奇心が一番っつっただけで『君は難しいことを考えてるのを避けてるだけでしょ』とか言われたのに、何がちげーんだよ」
「人徳の差じゃないか……?」
トールードとゼゼは、いつものように言い合いをする。レルマとゲラシーは、チョコレートをつまみながら、それを見て笑う。
事実、ヴァーデルラルドはこの研究所を去った。これは自らの意向とのこと。ヴァーデルラルドの興味は、地表の浄化からも、内面の浄化からも変わったらしい。次は科学ではなくウクレレを極めるとの噂も聞いたが、さすがにそれは嘘だと思った。
イェレイによると、ジルケは「奴にとっては人類愛そのものが一つのブームだった」と苦い顔をしていたという。まだ監視が必要だとも言っていたらしいが、レルマはもう大丈夫だろうと思っていた。
「あ、そうだ、俺、今度XXXの開発することになったんすよ」
ゲラシーが思い出したように言う。
「XXXって、まさか……」
ゼゼの表情がわずかに強張る。
「お前はそれでいいのか……?」
「いいっすよ。だって役に立つし」
レルマには「XXX」が何かも、それがどのように役に立つのかもわからなかった。しかし現場のプロが言うのだから、口出しすべきではないだろうと思った。
今でもあの白い花畑はある。花びらが太陽を反射するが、それは前よりもいくらか、優しく見えた。
休憩の合間、中庭の一角に、枯れかけた花の群れを見つける。
「水、あげたらまた元気になるかな?」
レルマはコップに水を汲むと、しゃがんで優しく土にかけた。
「前はコンクリートの上でも、お構いなしに生えてきてたのにねぇ」
レルマは花をつついて、ふっと笑う。立ち上がると、風とともに、大量の白い花びらが舞った。空を仰ぎ見ると、雲ひとつない中、鋭い音とともに、規則正しく並んだ数台の飛行機が駆け抜けていく。
「あれって……」
レルマは目を凝らすが、すでに飛行機は遠くにあった。
まいっか。レルマは時計を見て、モップ掛けに戻っていった。レルマの仕事は続いていく。研究所の営みも、続いていく。
[終わり]