科学の場における神の取り扱い[4]
イェレイが連れ込まれたのは、真っ白な部屋だった。壁も床も、天井もすべてが白い。中央に立方体の白い椅子が、二つだけ置いてある。その中で唯一、部屋の隅にある箱型の機械とヘッドセットのような装置だけが、黒く、光を反射していた。装置からは、怪しく点滅する青い光が漏れている。
「どうぞ、座ってください」
ヴァーデルラルドが恭しく手を差し出した。イェレイは警戒を崩さないまま、椅子に座る。
「お話したいこととは、なんでしょうか?」
ヴァーデルラルドは小首を傾げて、穏やかに問いかけた。
「それは……」
イェレイは「作戦」を考えてきていた。それは極めて単純なものだった。単刀直入に、聞きたいことを聞く。それだけだった。
この人に小手先の話術は効かない。そもそも僕は、そんなものなど持ち合わせていない。自分の特性と、これまでに集めた情報から出した結論は、正直に話すことが最善であるということ、それだけだった。
サンプル数は一だけど、やるしかない。
「ニエラという研究員がいましたよね。あなたはその人物と二人でお話されたと聞きましたが、それは事実ですか?」
「ええ、確かにしましたよ」
「あなたとお話してから、ニエラの様子がおかしくなりました。あなたは一体、何を言ったのですか? あるいは、本当にただお話しただけですか?」
「私はただ、あの方の本当の姿を引き出しただけですよ」
「どういうことですか」
イェレイはわずかに眉を顰める。ヴァーデルラルドは気に留める様子もなく、穏やかな口調で続けた。
「人は皆、善の心を持っています。ただ、一時的にそれが曇ってしまうことがある。あの方はそれを見失ってしまっていました。ですから私はそれを、引き出すお手伝いをしただけです」
「どうやって?」
「対話とテクノロジーによってですよ」
テクノロジー? イェレイの眉がぴくりと動く。やはりただ「お話」しただけではない。イェレイは尋ねた。
「もしかして、あの黒い機械がそうですか?」
「はい。あれは”ほんの少しだけ”人の精神に干渉する機械です。まだ試作段階ですが、いずれは実用化して、様々な方に使用できればと思っていますよ」
「もう誰かに使ったのですか」
「ええ、数名の方に被験者になっていただきました」
「ニエラにも?」
「はい」
ヴァーデルラルドは悪びれる様子もなく、口元に優しい笑顔をたたえて頷いた。むしろ、当然のことをしただけだという純粋な自負すら感じられた。ヴァーデルラルドは続ける。
「私は思うのです。地上の浄化は済んだ。であれば、次にするべきことは、”人々の内面の浄化”であると」
イェレイの手がわずかに動いた。しかしイェレイはそれを抑え、続きを促すように、黙ってその顔を見る。
「この地球を汚染したのは、他でもない、人間です。人間の過ちによって、この世界は汚れていきました。そして歴史を見ればわかる通り、人間は何度も同じ過ちを繰り返します。美しく豊かな心を忘れ、心が汚れてしまった人々が、賢人達が舗装した道を何度も踏み躙っていくのです。この世界も、一時的には豊かになりました。しかし人間の心が変わらない限り、再び汚れていくでしょう。皆さん、私の技術を高く見積もっているようですが、地表の浄化も永久に続くわけではありませんからね。だからこそ、根本的な解決のために、人々の内面の浄化が必要なのです」
「……ですが、内面の浄化など、多くの人は反対するのでは?」
「そうでしょうか?」
ヴァーデルラルドは小さく首を傾げる。
「少なくとも、私には否定する理由が見つかりません。世界を良くし、皆で幸せに生きることを、誰が否定するでしょう? 私はそのための、抜本的な解決策を提示しているのですよ?」
「ですがそれにはテクノロジーが必要なのでしょう? であればそれは、暴力的な支配と変わらないのでは?」
「この機械を使うのは、ほんの一部の方々だけですよ。あなたもわかるでしょう? この世界にはどうしたって、エラーとしか言いようのない方々がいる。この機械は、そういった方々に補助的に使うだけです」
「エラー……」
「私は多くの方々とは、対話によって分かり合えると信じていますよ」
イェレイの中でふっと何かが切れた。
「それは無理だと思います」
「おや」
イェレイは思わず立ち上がっていた。
「あなたのすることは対話ではなく、支配になりますから」
立ち上がったのは自分でもわからない衝動だった。それでも言葉は、意外にも冷静で淡々としている。勢いに任せて、その調子のままイェレイは続けた。
「あなたのしてきたことは対話ではなく支配です。残念ながらあなたはカリスマと権力を持ちすぎてしまった。あなたと人々の間には圧倒的な勾配が生まれてしまった。多くの人は、あなたの言葉を聞かされた時点であなたに従うしかなくなる。あなたはもう普通の人と普通の人間として話すことができない。あなたがそれを自覚していないとは思えない。それでもまだ対話と言い張りますか?」
「少なくとも、今この瞬間は、対話をしていると思いますよ」
そのヴァーデルラルドの言葉には、それまでにはなかった刃のような響きが感じられた。イェレイはたじろぐ。ヴァーデルラルドは続けた。
「あなたは誠実すぎるのでしょう。そのために、どんな人物とも対等に、真剣に、対話をする。それは一般には良いこととされるでしょう。ですがそれは時に、あなた自身の心を汚すものとなる。あなたのその性質は、あなたにとっても周りにとっても、有害なものとなり得ますよ」
そう言って、ヴァーデルラルドは立ち上がった。おもむろに黒い機械に向かって歩いていくと、ヘッドセットを持ってイェレイを見た。
「あなたには補助が必要だと見受けられます。ですが同時に、あなたにはとてつもないポテンシャルも感じます。あなたは補助によって、さらに輝きを増すでしょう。どうぞ、この世界の発展のために、このデバイスを被ってください」
そう言って、ヴァーデルラルドはゆっくりと近づいてきた。
あ、まずい。しくじった。遅れて自分の発言に後悔が押し寄せる。だがもう遅い。
イェレイの背中から汗が吹き出す。イェレイは後ずさった。後ずさり、ドアノブに手をかけた。そして勢いよく開けようとした。しかし、開かない。
「ああ、この部屋はオートロックになっているんですよ」
ヴァーデルラルドは無情にも穏やかに答えた。その瞬間、イェレイの中で何かの回路がふつりと切れた。
イェレイは周囲を見回した。そして息を一つ吐くと、覚悟を決めたように走り出した。ヴァーデルラルドに体ごとぶつかりをヘッドセットを奪い取ると、壁に向かって勢いよく叩きつける。それから箱型の機械まで走り、力いっぱいに蹴り上げた。激しい打撃音とともに、マシンの青い光が消えていく。
「……」
あれ、僕、今何やった?
ふと我に返った。あれ、僕……。イェレイは、自分のしたことに呆然とした。今のあの行動が嘘のように、ドッと冷たい恐ろしさが一気に込み上げてくる。怖くて、背後が見られない。いつの間にか息が上がっている。息を整えようと深呼吸するが、うまくいかない。
ヴァーデルラルドは何も言わない。何を考えているのか、見当すらつかない。ただ、ヘッドセットを拾い上げる微かな音だけが聞こえてきた。
イェレイは壁を向いたまま、震える声で言った。
「すみません……手と……足が、滑ってしまいました」
しばしの沈黙。それから、ヴァーデルラルドは凪いだ海のような声で言った。
「滑ってしまったのなら、仕方ありませんね」
***
「ねぇパパ! どうして工場の人は、工場をやめるのをやめないの!」
「イェレイ……」
「科学館のお姉さん、また言ってたよ! このままだと、テテ川のお魚さんが、本当に全部いなくなっちゃうって!」
「ああ……でもな、イェレイ、工場を止めてしまうと……」
「でもじゃないよ! 僕、また工場の人にお手紙書く! パパ、手伝ってよ!」
「……わかったよ。手伝ってやるから、夕飯が作り終わるまで待ってくれ」
「君たちまだ汚染懐疑論なんて信じてるの!? 今でも汚染は進み続けてるって、こんなにもエビデンスが出てるのに!?」
「おーおー、委員長サマはお勉強ができてすごいでちゅねー」
「馬鹿にしないで! 君たちのそういう態度が、みんなにも伝わって、これからもどんどん汚染が進んでいくことがわからないかな!?」
「ちょっ、お前……ああもううるせーなァッ!」
「ツッ!」
「あっはは、やりすぎじゃあねえの? 委員長サマ、二メートルは吹っ飛んだぜ」
「ワンパンでな!」
「でも先に胸ぐら掴んできたの、委員長サマの方だぜ? 正当防衛だよ、なぁ?」
「あれ、イェレイ、アンタS大に行ける頭があるのに、あんなランクの大学に行くんだ」
「大学のランクなんか本質じゃないよ。僕がやりたい研究をやるためには、あの教授に教わる必要があるんだ」
「アンタもう研究のことなんか考えてるの? クラブとかのこと考えた方が楽しいのに、意識高いなあ」
「は? ねぇ、意識高いって、何?」
「ちょ、そんなことでいちいち怒らないでよ! アンタちょっとしたことですぐキレるの、マジでやめた方がいいよ!」
「ちょっと、イェレイ落ち着けよ……」
「これが落ち着いてられる!? なんであの法案が通るんだ! あんなのがまかり通ったら、汚染が加速するだけじゃないか!」
「いや、でもさぁ……」
「政治家どもはバカなのか? いいや、それ以上に、あんな政治家どもを支持する市民はバカなのか? なんでもっと、まともな政治家に投票しないんだ? なんであんな政治家達は、恥ずかしげもなくあんなことをするんだ?」
「イェレイ……」
「科学者達はずっと警告している! まともな活動家の人達はずっと抗議している! なのに、なんで! なんで世界はこうも身勝手なんだ! なんで人々はこんなにも愚かなんだ! 世の中の全員がまともになったら、どんなにいいことか! それなのに!」
なんで! なんで! なんで!!!!!!
「なんで!」
イェレイは飛び起きた。微かな雑音と暗闇。背中は汗でぐっしょりと濡れている。荒い息が止まらない。端末の時計は、午前一時を示していた。
ドクドクと脈打つ心臓を静めるように、深呼吸を繰り返し、繰り返し、再び目を閉じて横になった。
「変な夢見ちゃったな……」
夢じゃない。これは回顧だ。
「もう寝よう……」
本当はあの時、共鳴してたんじゃないの?
「何に……」
ヴァーデルラルドに。本当はあの人の言うことも、一理あるって、思ってたんじゃないの?
「僕はあんな支配者とは違う……」
本当に?
「それに、僕はヴァーデルラルドほどの力は持っていない……」
じゃあ仮に、持っていたとしたら?
「僕はあの頃から変わった……」
人ってそんなに、簡単に変われるものかな?
「うるさいな……」
ちゃんと向き合いなよ。君は表面的にうまくやれるようになっただけ。研究室に配属されて、自分より能力も信念もある人に囲まれて、自分はなんて愚かだったんだって反省しただけでしょ。もしくは、単に騒ぐ必要がなくなったから大人しくなっただけだっけ。ヴァーデルラルドに反発したのだって、本当はただの同族嫌悪でしょ? でもさ、人の根っこって、そんなに簡単に変わらないよね? あの時の独善的な正義感は、今もずっと持ってるんじゃないの? 隠してるつもりなのかな? でも自分ではわかって……。
「ああもう!」
イェレイは再び飛び起きた。真夜中の空気に、イェレイの声だけがこだまする。しかしそれもすぐに、静寂に呑み込まれていった。イェレイだけが、夜に取り残されていく。
***
イェレイは会議室の椅子で、一人、宙を見ていた。
どうにも頭がはたらかない。頭痛までする。吐き気も少し。寝不足で出勤するなんて、いつぶりだろう。イェレイは頭の中で年数を数え始め、やがて諦めた。
「いつも寝不足の人って、どうやって生きてるんだろう……」
イェレイは天井に向かって呟く。たった一日の寝不足でこうも不調になるとは。いや、本当に寝不足だけが原因か?
扉が勢いよく開けられる。
「すまないな、前の会議が長引いてしまったもので……」
ジルケが髪を揺らしながら、ヒールの音を立てる。
「いえ、いいですよ」
イェレイはゆっくりと立ち上がった。そして言った。
「そういえば昨日、ヴァーデルラルドとお話してきましたよ」
「何……!?」
言うつもりのなかった言葉が、口をついて出てきた。ジルケは大きく目を見開いている。まあ、そうなるよね。それでも、言葉が止まらない。
「わかったのは、あの人は地表の浄化が終わった後は人々の内面の浄化が必要だと考えていて、それを善いことだと信じて疑っていないということです。あの人は本気で人々の心を統一させようとしています。それに、そのためのマシンまで開発していました。数人の研究員はもうそれを使われたようです。ニエラもその一人ですね。あと、部屋がすごく白かったです。あれもマインドコントロールの一環でしょうか。あ、そうだ、ボイスレコーダーのデータ、ありますよ。要りますか?」
「……一応、いただこう。しかし……」
「わかってますよ。やるなと言われたのにやった。その点は申し訳ないと思ってます。でも、身近な人たちがどんどんおかしくなっていくのを見て、どうしても動かずにいられなかったんです」
「……私は、君のことを見誤っていたようだ」
「失望しました?」
「いや……それより、君、いつもよりぼんやりしているようだぞ。大丈夫か? ヴァーデルラルドに何かされたのか? 記憶は確かか?」
「ええ、確かですし、何もされてませんよ。される前に、壊しましたから。これはただ寝不足でぼんやりしてるだけです。本当に大丈夫です」
「……明日また話そう。ボイスレコーダーの中身を聞いて、明日、本当に君が寝不足だっただけなのか判断して、それから話を進めよう。バックレるんじゃないぞ」
「はい、承知しました」
そう言うとジルケは、いつもよりやや重い足取りで部屋を後にした……ように見えた。
今日のジルケは、明らかに困惑していた。それはそうだよ。あんなこと言ったんだから。しかしイェレイにはなんの感情も湧かなかった。イェレイは少し時計の針を眺めてから、緩慢な動作で立ち上がり、自分のデスクに向かった。
久しぶりにエナジードリンクでも買ってみようかな。あんなものを買うなんて、いつぶりだろう。イェレイは頭の中で年数を数え始め、やがて諦めた。イェレイはあの独特な味を思い出し、苦い顔をする。それでもイェレイは、吸い寄せられるように自販機に向かっていた。
***
「イェレイさんっ! この前言ってた書類持ってき……イェレイさん?」
イェレイがデスクに座ったまま横を見ると、眉を下げて見つめるフーレがいた。
イェレイは机に置かれた、いくつもの空になったエナジードリンク缶をチラリと見て、笑いかけた。
「大丈夫。今日はちょっと調子が悪いだけなんだ。フーレ、本当に冴えた頭で仕事をしたいなら、エナジードリンクなんかに頼っちゃいけないよ。長期的に見れば、あれはマイナスにしかならないからね。こんな僕の真似なんかしないで、反面教師にするんだよ」
「でも……」
「書類だったね、見せてみて。パッと見、よく書けてそうだね。後でちゃんと確認して、また連絡するよ」
イェレイはそれだけ言うと、受け取った書類を丁寧に机に置き、作業を再開しようとした。しかし、フーレが動く気配がない。イェレイはチラリと横を見て、それから体ごとフーレの方を向く。
「どうかしたかな?」
「あのっ、僕っ、イェレイさんのためなら、なんでもしますからっ!」
そう言うとフーレは逃げるように去っていった。
イェレイはぼんやりとその背中を見送る。そんなに情けない姿を見せていたかなぁ。イェレイは静かに後悔する。しかしその後悔は、カフェインを叩き込んだだけの呆けた頭の中を、するりと滑っていくだけだった。
***
「イェレイさん、この問題は浄化システムの知見を取り入れることで解決できないでしょうか……」
「人類が浄化を実現できたのですから、この仮説だって……」
「浄化システムのこの理論が応用可能……」
次々と出る研究員達の言葉にも、イェレイの気持ちは特に動かなかった。
「ですからイェレイさん、これは……」
「ああ、いいんじゃないですか」
「へっ?」
その職員は目を丸くする。
「内面じゃなくて、地表の浄化システムの応用ですよね。いい考えなんじゃないですか、それ」
「内面……? ええ、はい、地表の話ですが……」
その職員は困惑したようにイェレイの目を見ていた。しかしイェレイは、本当に困惑しているのは自分の方だと思った。肯定したのに、その反応はなぜ?
内面ではない。地表の浄化の話だ。地表の浄化ほどわかりやすい成果はない。成果は出ている。資料もある。であれば、地表の浄化に則れば、何も考えずに済む。それに従えば、細かいことなど何も考えずに済む。
今はもう何も考えたくない。考えずに済む方法があるのなら、それを使えばいいだけだ。
「使えばいいと思いますよ、その理論」
イェレイはその職員の目を見返して言った。しかし横から、別の職員が割って入る。
「イェレイさん、あなたは今まで……いや、この話はいいです」
「はい?」
「あの、こんなことを言うのはあれですけど……」
「なんですか」
「イェレイさん、目がイッてます……」
***
デスクに突っ伏して目を閉じる。意識を失った……かと思えばすぐに覚醒し、また意識を失う……かと思えば再び覚醒し……を……繰り返す。
研究の話には碌に向き合えなかった。それなのに頭の中では、ヴァーデルラルドのことをずっと考えている。
テクノロジーによる内面への介入は、本当に良くないことなのだろうか。「エラーとしか言いようのない人々」と言われて、イェレイの頭にはいくつもの顔が浮かんだ。そのエラーのせいで世界が汚れたのは事実だった。ヴァーデルラルドはエラーにだけ「補助的に」テクノロジーを使うと言っていた。なにも全員に使うわけではない。権力を持つエラーから優先的に、少しだけ矯正されていけば、かつてイェレイが夢見た理想の世界は簡単に作れるのではないか? であれば、強制的な介入はむしろ良いことか?
いや、惑わされるな。誰がエラーであるかなんて、定義しようがないではないか。僕の考えたエラーは、環境を汚染したという条件付きのエラーだ。それに僕は神ではない。ヴァーデルラルドも神ではない。ヴァーデルラルドは、神なんかではない。いや、それが例え神であっても、人間の選別など、させていいものだろうか?
そうだ。テクノロジーによる内面への介入が暴力ではなくて、なんなのだというのだろう。今やヴァーデルラルドは権力を持つ側だ。権力が人間を選別して思想を強制するなんて、歴史の中でもありふれた暴力だ。これこそが人類が犯してきた過ちだろう。僕はそんなものには反対だ。そんなことあっていいはずがない。僕は反対だ。僕は反対……本当に? 夢の中の僕は、あんなにも強く突きつけてきたのに? 本当は……期待していない?
……惑わされるな。あんなものに期待なんかするな。僕の周りには、優秀で信念がある人がたくさんいるじゃないか。そんな人たちよりも、僕はヴァーデルラルドを優先するのか?
いや、違う、これは正直に認めなければ。ヴァーデルラルドの成果はわかりやすい。即効性があった。現に僕たちを救っている。僕たちの地道な研究よりも遥かに速いスピードで、遥かに派手な成果を出した。これは、僕を惹きつけるのに十分すぎた。神なんて言葉は認めない。けれど一人の研究者として、僕は惹かれてしまった。
正直に言って、ヴァーデルラルドが花によって兵器を無力化したと聞いた時、僕は感動した。あの人は善い行いをしていると思った。人類の味方だと思った。あの人のやることは認めるべき、いや、それどころか、あの人に従うことすら良い選択だとすら思った。これ以上ないくらいに、純粋に。いや、技術自体にブラックボックスはあった。無断で秘密裏に軍事産業を妨害したことにも問題がある。理性的には、手放しに褒められることではないとわかっている。だからこそ、僕はあの場で肯定の言葉は口に出さなかった。けれど心は正直だった。
多くの人はわかりやすさを求める。即効性を求める。力強いリーダーを求める。例に漏れず、僕もその中の一人だったということ。僕はそうなりたくないと思いながら、結局はわかりやすさに流されていただけだということ。……そういうことだよね?
僕は誠実なのだろうか。ジルケさんにも指摘された。ヴァーデルラルドにも指摘された。前者には信頼の根拠として。後者には有害さの根拠として。
違う。僕はただの暴力的な人間だ。理性でそれを抑えているだけだ。結果としてそれが、穏やかで優しい人間に見えているだけだ。
真面目ではあると思う。けれどそれだけでは、誠実さは成り立たないと思う。僕が汚染に対して怒っていたのは、小学生の頃からの幼い正義感の延長。ある人はこれを、環境に対する誠実さとみなすだろう。違う。僕はただ、幼稚で独善的な正義感に浸っていただけだ。怒りは本物だったけれど、それが誠実なものだったとは思わない。僕は、世の中の活動家の人たちのような、立派な人間ではない。
今は世界に打ちのめされて大人しくなった。恥の感情が僕の怒りを消していった。けれどそれはまだきっと、僕の中のどこかで燻っていて、幸運なことに今は表出していないけれど、いつかきっと爆発するかもしれない。怖い。怖い。いつか皆を巻き込んで恐ろしい選択をすることが、怖い。
……ああ、思考がジャンプしているなあ。今は眠った方がいい。わかっている。わかっているけれど、強烈な眠気はあるのに、頭が寝ようとしてくれない。とりあえず目だけは閉じておく。それに意味があるのかはわからない……けれど……目だけは閉じて……。
***
曖昧な意識の中、ふと、目の前に青が見えた。
「レルマくん……」
小さな、深い青のツナギ。
イェレイはその青に手を伸ばした。つややかな手触り。イェレイはファイルの表面を数度撫でると、再び意識を落とした。
***
夕方。昼間よりは、いくらか頭が冴えてきた。仮眠をとったのが良かったのかもしれない。チームの皆には、明日、誠心誠意謝ろう。絶対に。
今度こそはもう大丈夫。もう失敗しない。イェレイが両頬を叩きながら廊下を歩いていると、遠くから青い人影、レルマがやってきた。
レルマはイェレイに気がつくと、「イェレイくん!」と駆け寄ってきた。イェレイは微笑み、「レルマくん」と手を振った。犬みたいでかわいいな、いや、それはレルマくんに失礼か。レルマは近くまで来ると、息を上げながらにこやかに言った。
「僕、嬉しいよ! イェレイくんがお茶に誘ってくれるなんて!」
「いきなり連絡して、迷惑じゃなかった?」
「ううん、全然!」
あまりの明るさに、イェレイの中に罪悪感が湧いてくる。レルマくんは僕が忙しそうだからと連絡をためらっていたのに、これじゃあ僕だけに選ぶ権利があるようなものじゃないか。これが権力勾配というものか。対等な友人のつもりだったのに。
しかし構わず、レルマは続ける。
「それで、相談したいことがあるっていう話だったよね? でも僕なんかでいいのかな。だってイェレイくんの周りには、もっといっぱい優秀な人がいて……」
「君がいいんだ」
「へっ?」
イェレイは自分で、自分の言葉の圧に驚いた。レルマも目を丸くしている。イェレイは目を伏せて言う。
「……ごめん、なんか偉そうな言い方になっちゃったね。こんな上から目線でものを言うなんて、僕は最低だ。僕は無意識のうちに優越に浸っているのかもしれない。僕は君と対等な友人のつもりでいたのに、本当はそうじゃなかったのかもしれない。職業に貴賎はないっていう建前に甘えて、それでもAの研究員っていうだけで持ち上げられる状況に……」
「わ、わ、やっぱりイェレイくん、すっごく悩んでるね? 早く行こ?」
そう言ってレルマは、そっとイェレイの指を握った。それからにこりと笑って言う。
「カフェさ、あのカフェにしようよ。研究所から歩いて五分のとこにある……」
「ああ……あのカフェだね」
「そうそう、あのカフェ!」
声を弾ませると、レルマは今度こそイェレイの手を強く握った。
あのカフェは、レルマとイェレイが二人で初めて行ったカフェだった。イェレイの脳裏に甘いラテの香りが蘇る。温かい。温かな感情が戻ってきたことに、イェレイは安心した。カフェに着くまで、レルマはイェレイの手を握って、優しく前後に揺らしていた。
***
「レルマくん、ブラックなんだ」
「イェレイくんはキャラメルのやつなんだね! いっつも思うけど、イェレイくんが甘いの好きなの、意外!」
「普段は節制してるんだけどね」
君がブラックコーヒー飲んでる方が意外だけど。イェレイは内心で呟きながら、席を探す。レルマが部屋の隅に空いている二人がけの席を見つけ、二人は向かい合って座った。
イェレイがキャラメルラテに口をつける。甘い。店内はうるさすぎず、しかし静かすぎない人の声が響いている。
一つ息をついてレルマを見ると、レルマは視線を彷徨わせながら、コーヒーのカップを握りしめていた。
「そんなに握って、熱くない?」
「あっ、熱くないよ!」
レルマは慌てたように訂正し、パッとカップから手を離した。それを見たイェレイの口から、思わず笑みが漏れる。
レルマは目線を泳がせながら、飲んでいるのかいないのかわからないくらいに少しずつ、コーヒーに口をつけている。これは、僕が話し出すのを待ってくれていると判断していいのだろうか。わからないけれど、話してしまおうか。
「あのね、ちょっと重い話なんだけど、してもいいかな?」
「うん! いいよ!」
レルマは目線を上げて頷いた。
「昨日ヴァーデルラルドと話してきたんだ」
「えっ」
「それで、僕って本当は、あの人と同じなんじゃないかって思っちゃって」
「えっ」
あーあ、本当に言っちゃった。別に言わないつもりもなかったのだけど。
「ヴァーデルラルドは、人々の内面を浄化したいって言ってたんだ。放っておくと人はまた同じ間違いをするから、根っこのとこから変えなきゃっていう理屈。僕それを聞いて、それはただの支配だと思ったんだ」
「うん……」
「でもよく考えたら、僕は昔、ずっと、ずーっと、おんなじようなこと、思ってたんだよ。みんなの内面が変われば、世界はもっと良くなるのにって。だから僕がみんなを変えなきゃって。もうずっと怒ってた。子供の頃からね。それが原因で喧嘩することもあったんだ。でもさ、この考え方って、ヴァーデルラルドの言ってることと何が違うんだろう。一緒だよね?」
「うーん……」
「今はもう、素敵な仲間に囲まれて、僕よりもずっと信念があって、すごい人にもたくさん出会えたから、昔みたいに怒ることはなくなったよ。でもさ、そんな、ずっと抱えてきたものがすぐに変わるとは思えないんだ。僕は変わったつもりになってる。でもそれはつもりになってるだけで、本当は変わってないかもしれない。実際、僕は迷っちゃったんだ。本気でヴァーデルラルドのことを否定できなかった」
「うん……」
「自分で言うのもなんだけどね、僕、だんだん偉くなってきてるんだ。僕のことを慕ってくれる後輩の子もいるし、なんでかわからないけど、信頼してくれる上司の人もいるんだ。偉くなるってさ、他人に強制的に、自分の思想に従わせる力を持つことだとも思う。いや、わかってるよ、今はそれをするだけの力もない。これからもヴァーデルラルドほどの力を持つとは思えない。だけど怖いんだ。本質的にはヴァーデルラルドと同じなんじゃないかって思うと、自分の考えてること、やってることの全部が信じられなくて……」
「えっと……」
レルマの視線はあちこちに揺れている。イェレイは我に返った。あ、僕、困らせちゃってる。イェレイは誤魔化すために笑って言った。
「ごめんね、こんな話聞かされても困るよね! 変な話聞かせちゃった代わりに、コーヒーのお代は僕が払うから……」
「いや、そうじゃなくて!」
レルマは声を荒げる。それから戸惑ったように周りをキョロキョロと見回し、それからイェレイの方を見て、落ち着いた声で言った。
「僕はイェレイくんは大丈夫じゃないかなって思うよ」
「え?」
「だって最初に、ヴァーデルラルドの話を聞いて、それはただの支配だと思ったって、言ってたから……」
それだけが根拠? イェレイは反論しようとしたが、レルマは続ける。
「イェレイくんはすっごく考える人でしょ? それだけ考えてたら、ヴァーデルラルドにはならないと思う」
「考えた末に、ヴァーデルラルドになっちゃうかもしれないよ?」
「そしたら僕が止めるよ!」
レルマは身を乗り出して言った。
だから僕は、ちょっとずつだけど、影響力を持ち始めちゃってるんだってば……。イェレイは口を開きかけた。しかしこちらを見据えるレルマの目があまりにも真っ直ぐで、イェレイは声が出なかった。
「僕、イェレイくんは大丈夫だと思う! でも、もしおかしくなっても、僕が止めるから絶対大丈夫!」
テーブルの上に乗せた手が、レルマに強く握られる。
「イェレイくんは、一人でなんでも抱え込んじゃうし、それがイェレイくんの強いとこなのかもしれないけど、でも、イェレイくんはもっと、周りに寄りかかるといいと思うよ! イェレイくんを支えてくれる人はいっぱいいるし、僕も、いっぱい支えたいな!」
手の甲が熱い。汗が滲む。強く握られすぎて、痛みすら感じる。
しばしの沈黙。レルマは突然ハッとしたように顔を赤くして、「偉そうなこと言っちゃった……」と下を向いた。あ、そこなんだ、恥ずかしがるところ。
イェレイは思う。レルマの発言は果たして、根本的な解決策なんだろうか。僕の問いに対する、本質的な回答だったろうか。筋道は通っていただろうか。論点はそんなところだったろうか。でも……
「そっか、そうだよね……」
「え?」
「君がそう言うなら、大丈夫だよね……」
イェレイは目を開けたまま、瞬きしないように、そっと下を向いた。
***
「おや、今日は顔色が良いな」
「はい。昨日はよく眠れたので……」
本当は、眠れたことだけが理由じゃないけど。イェレイは心の中で小さく笑う。ジルケは片眉を上げてイェレイを見ていた。イェレイは気にすることなく、口を開く。
「それで、僕が正気であることは確認できましたか?」
「ああ、しっかりと確認できた。君が無事で何よりだ。それと、報告がある」
「報告?」
「君のボイスレコーダーがきっかけで、上層が動きそう……な気配がある」
「気配だけですか?」
イェレイはわずかに眉を顰める。しかしジルケは尊大な態度を崩さず続けた。
「気配がしただけでも十分な進展だ。あのヴァーデルラルド完全受け入れ派だった上層がだぞ? これはすごいことだ」
「はあ……」
「それと、この件はいくつかの報道機関にも知らせてやった。ま、大多数のメディアは反ヴァーデルラルド的報道に非常に慎重だからな。あまり効果は期待できないが……そうだな、R新聞社くらいは派手にやってくれるんじゃないか。弱小なりに頑張っているからな、あそこは」
「はあ……」
イェレイは実感が湧かず、曖昧に返事をする。ジルケはもっと喜べとばかりにイェレイを覗き込むが、イェレイは薄く笑うしかできなかった。ジルケは怪訝な顔をしたが、再び背筋を伸ばす。
「まあいい。それでだ。君にはお願いがある」
「お願いですか?」
「ああ。それは、職員を皆正気に戻してほしいということだ」
「無理では?」
驚くほどさらりと率直な気持ちが口から出た。しかしジルケは引かなかった。
「この前ライブがあっただろう? あれが思いの外響いているようでな。今なら皆の心境が揺れている。今がチャンスだ」
それだけ言うと、ジルケは「頼んだぞ」と言って部屋をあとにした。イェレイはポツンと部屋に取り残される。
「そもそも正気の定義って……いや、言いたいことはわかるんですけど……」
イェレイは小さく呟く。
「レルマくんに相談してみようかな……」
イェレイは前を向いて、清掃員達の部屋に向かって行った。その足取りは昔よりも軽やかだった。
***
イェレイが扉を開けると、数人の清掃員達が雑談しているところだった。その空気は重苦しい研究員達とは違い、どこか自然な明るさがあった。イェレイが部屋に入ると、一斉に視線が向けられる。自分はここでは異物なのだと、イェレイは苦笑する。
その中で唯一、こちらを見ない二人組がいた。
「えぇー、僕もう、正直忘れてたよお」
「この僕が約束したことを忘れるとでも?」
「なんかすっごい高そうだよ、このお菓子。僕のやったことには見合わないって……」
「いいから受け取ってよ! 僕の気が済まないって、何回言ったらわかるのさ!」
そちらを見ると、フーレがレルマに菓子折りを押し付けているところだった。
「何かあったのかな?」
イェレイが話しかけると、レルマは驚いたような顔で、フーレは露骨に「しまった」という顔で、こちらを見た。フーレはレルマの言葉を遮るように、早口で何かを弁解し始めた。
「イェレイさん、あのですね、これは、いつも、っていうか、清掃員相手だからこんなに乱暴な口調で話しているわけではないというか、あの、あまりにレルマさんが遠慮するので、つい僕も口が悪くなってしまったというか……」
「わかってるよ。上司の前だと気を遣うよね。いつも丁寧に接してくれてありがとう。でもどんな振る舞いだったとしても、君の能力と誠実さはわかってるし、もっと自然体で接してくれても大丈夫だよ」
「いや別に、イェレイさんの前の僕も、それはそれで自然体ではあるというか……」
そう言うと、フーレは聞き取れない声で何かを呟き始めた。フーレは年が近い相手だとこうなるのか。あまりの意外性に心の中で目を丸くするが、それも微笑ましさに変わり、イェレイは穏やかに笑った。
レルマが尋ねる。
「それでイェレイくんは、どうしてここに来たの?」
「ああ、それはね……」
イェレイは、ヴァーデルラルドと話をしたこと、ヴァーデルラルドの思想が危険であると判断したこと、それから、ボイスレコーダーがきっかけで上層が動き出す気配があることを伝えた。
「そうなんだ!」
レルマは無邪気に驚いた。その一方で、フーレはわずかに口を開けたまま、黙ってイェレイを見つめている。
ん? イェレイは違和感を抱いた。いつものフーレならば、ここで間髪入れず意見を言うはずだ。イェレイがどんなことを言っても、即座に意見を返してくるのがフーレだった。
どうかしたの? そう聞こうとした時だった。
「上層が動くって、具体的に何をするのですか?」
フーレは平素の振る舞いに戻り、落ち着いた声で言った。目の揺れは消えている。イェレイは違和感を飲み込んで、普段通りに答えた。
「それはまだわからないんだ。ジルケさんもわかっていないんじゃないかな。具体的なことは何も言っていなかったし。それに、正直僕には、上層のことなんか何もわからないからね」
「現実的な案は、この研究所から追放するといったところでしょうか。ですがそれでは、根本は何も変わらないのではありませんか? ヴァーデルラルドはある種、この研究所を内面浄化の実験場としていたわけですよね?」
「そうだね。僕たちは予備実験に使われてるんだと思う」
「そうであれば、追放したところで、また別の研究所が犠牲になるだけではありませんか?いや、もしかしたら、今度は単独でマインドコントロールのマシンを開発して、一般人に使ってしまうかもしれませんよ」
まあ、そうくるよね。イェレイは苦笑する。
「そうだね、君の言っていることはもっともだよ。でも、今は上の判断を待つことしかできない。僕たちの権限じゃヴァーデルラルドの処遇をどうにかすることもできないし、まさか僕たちがヴァーデルラルドを手にかけて……なんてこと、するわけにはいかないからね」
イェレイが冗談めかして言った時だった。レルマが口を開いて、「手にかけてもいいんじゃない?」と言った。
「え?」
あまりにも純粋な声に、イェレイの動きがピタリと止まる。一瞬遅れて、思考が再開する。
「レルマくん……?」
「あっ! 僕、何言ってるんだろ!」
レルマは自分で自分に驚いたように、両手で口を塞いだ。それから顔を赤くして言う。
「手にかけるなんて、しちゃダメだよね……でもつい、言っちゃった……」
「……」
「だってヴァーデルラルドは、どこに行っても害になるんでしょ? イェレイくんもフーレ君も、ゲラシーさんとかゼゼさんとか、トールードさんだって、ヴァーデルラルドのことで悩んでたし、研究所の他の人だって、ヴァーデルラルドのせいでおかしくなってるんでしょ? だからその、僕なら守るものとかも何もないし、できるかなって……みんなの役に立てるかなって……」
「へぇ、面白いね」
突然、冷たい声が響く。フーレだった。
「僕はそれ、何回も考えてきたんだけどね。殺したいと思いながら、殺すシミュレーションまでして、それでもそんなのは全く合理的じゃないから、無理やり抑え込んでたのに」
フーレは淡々と言う。しかし、殺したい? 何回も? あまりの唐突さに、イェレイの思考は追いつかない。
「抑え込むためにはなんでもしたよ。その感情を消そうとしたり、見ないようにしたり。感情に合理的な説明をつければ解消できるかとも思って、心理学の勉強もしたよ。高校じゃ数学とサイエンスの勉強ばかりしてたのにね」
フーレは口元に歪んだ笑みをたたえている。イェレイの思考はまだ追いつかない。チラリとレルマを見る。イェレイと違い、レルマはむしろ青ざめていた。それはまるで、思い当たる節があるかのように。
フーレはレルマに一歩詰め寄った。
「もうどうしようもなくなってさ、具体的には言わないけど、自分の体を傷つけることで感情を殺してた時期もあったんだよ。非合理に非合理を重ねて、愚かなのは自覚しつつね。素人なりに精神医学の本も読んだけど、結局は何の役にも立たなかった。本当に呆れたよ、こんな一つの感情に執着しちゃってさ。面白いよね」
フーレはさらに一歩、レルマに近づく。それから覗き込むように体を傾け、レルマを見上げる。
「ああでも、もう僕はあの人を正当に攻撃することができるんだっけ。だって内面の浄化なんて、ふざけたことを言い出したんだからね。僕の人生ってなんだったのかな? 本当に滑稽だよね。お前も笑いなよ」
「わっ、笑えるわけ……」
レルマが言うと、フーレから笑みが消えた。直後、わずかに手が動く。あ、これは胸ぐらを狙う時の動作……。
イェレイはフーレの手首を掴み、そのまま少し角度を変えた。
瞬間、フーレは大きく目を見開き、イェレイを見上げた。時間が止まったかのように体は硬直し、眼球は小刻みに揺れている。眉は吊り上がり、震える口元からの呼吸は、浅く乱れていた。
「フーレ」
低く呼ぶ。
「何か、あったのかな。僕でよければ話を聞かせてくれないかな」
直後、フーレは顔を逸らし、腕に強く力を込めた。そして激しく顔を歪める。
「ダメだよ、動かしちゃ。僕は今、そういう捻り方をしているから」
フーレの腕から、するすると力が抜けていく。
「離してくださいよ」
「離したら君はどこかに行っちゃう……よね」
「悪いですか」
「君が心配なんだ」
本心だった。ここで離したら、もう二度と戻ってきてくれなくなる気がした。
***
「……イェレイさんは、格闘技とかやってたんですか」
「……? やってないけど、どうして」
「だって素人が、あんなふうに腕、掴めるわけないじゃないですか」
「あれは……自然に身につけたんだ」
「なんで自然に身につけてるんですか」
「昔……色々あって」
「色々ってなんですか」
「……」
小さな会議室の隅。イェレイは部屋を借り切って、斜め向かいに座ったフーレを曖昧に見ていた。
僕の話をするんじゃなくて、君の話が聞きたいんだけどな……。フーレは床の一点を見つめ、頑なに顔を上げようとしない。
こんなフーレは初めてだった。普段のフーレは若者らしい初々しさを持ちながら、常に冷静かつ分析的であり、礼儀正しく、個人的な感情を見せることも滅多に無く、それはもう、恐ろしいほどに模範的な人物だった。レルマへのちんちくりん発言……あれは例外中の例外だった。
だからこそ目の前の子供のようなフーレは、まるで地面に落ちた小さなガラス片のようで、触れることがひどくためらわれた。
もしかして僕はずっと、フーレの都合のいい面だけを見ていたのだろうか。
「色々って、なにがあったんですか」
イェレイの思考を遮るように、フーレは顔を伏せたまま、さらに語気を強めて言った。イェレイは数秒の逡巡の後、口を開く。
「……昔、僕はずっと怒ってたんだ。周りの人全員に。みんなが意識を変えれば汚染は止められるのに、どうしてそうしないんだって。それで、喧嘩にも手を出してた」
「喧嘩……!?」
この会議室に入って初めて、フーレは顔を上げた。眉に皺を寄せながら目を大きく見開いている。そのまま動かない。
「失望……したかな?」
「いえ……」
フーレは目を開けたまま、わずかに顔を伏せた。イェレイは黙ってその様子を見るしかできない。果たして僕の自己開示は、役に立つのだろうか。
君には何があったのかな。口を開きかけた時だった。
「……イェレイさん、喧嘩するほど強い感情、持ってたんですね」
「……」
「今は矯正して、正しい振る舞いを身につけたということですか」
「……正しい振る舞いだとは思わないけど……そうだね、少なくとも矯正はしたよ。フーレも、気を遣って振る舞ってくれているよね」
「あなたにだけは、失望されたくありませんから」
イェレイは小さく目を見開く。フーレの声には、微かな自嘲が滲んでいた。フーレは続ける。
「あなたにだけは絶対……絶対に見せたくないと思っていたんですが、あんな醜態を晒した以上もう全部どうでもよくなりました。話、聞いてくれるって言いましたよね。本当に聞いてくれるんですよね」
「……聞くよ」
「僕の家族はみんな、汚染が原因で死んだんですよ」
「……」
「珍しい話ではないですよね。僕の住んでいたところは特に汚染のひどい地区だったので尚更。弟は肺炎、姉は気管支炎、母は心筋梗塞、父は肺癌でした。地表の浄化が起こったのはその後です。僕の家族は死んだのにヴァーデルラルドは神として持ち上げられて、僕は世界が憎くなって、最終的にその憎しみはヴァーデルラルドに向かいました。もちろんそんな非合理的な感情なんか消そうとしました。でも結局は、十数年以上それに縛られています。今もです」
「……慰めになるかわからないけど、僕もずっと、強い感情に縛られていたよ。さっきも言った通り……」
「あなたの感情は正当で合理的じゃないですか。だって、汚染という間違いに対抗するための怒りだったんでしょう? あなたの感情は筋が通っています。聞けば誰もが納得する、合理的な感情です。でも僕のは違う」
「感情に合理も非合理も……」
「正論ですね。でもあなたのそれは、僕にとってただの『正しい感情』でしかないんですよ」
「正しい感情なんて……」
言いかけてイェレイは口を噤む。きっとそれも、フーレにとっては無意味な正論だ。
「正しいという言い方は、意味が広すぎましたね。合理性に絞って考えましょうか」
フーレは淡々と言う。
「みんな表立っては言いませんが、感情にも合理的なものと非合理的なものがありますよね。合理的な感情は、論理的に説明可能な感情、それを持つことでむしろ役に立つ感情……といったところでしょうか」
「……そう……なのかな」
「イェレイさんと僕の感情はまさにそうですよね。イェレイさんの感情は合理的で、僕の感情は非合理極まりない。例えるなら、イェレイさんのそれは問題に鋭く切り込む刃物で、僕のこれはすべてを汚して鈍らせるものでしかない泥沼。違う言い方をすれば、その辺の研究員に聞いた場合、イェレイさんの感情は肯定されて、僕の感情は『そんなものに捉われるな』と言われる。違いますか?」
違う……のだろうか。
フーレは顔を上げて、イェレイの目を見据えた。
「イェレイさんの考え、聞かせてくださいよ」
フーレの睫毛がわずかに震える。
「感情には、合理的なものと、非合理的なものが、あると思いますか?」
そこまで言って、フーレは静かに口を閉じる。抑制された強い語気。切実で感情のない声。どろりとした真っ直ぐな目。
「それは……」
何か言わなければ。咄嗟に口を開いた。しかしそれはすぐに途切れた。
イェレイの手のひらに汗が滲む。こんな問い、人生で一度も向き合ったことがない。問いの存在すら考えたことがない。向き合う必要がなかったのは、ある種の特権だったのだろうか。あるいは自分の愚鈍さの表れか。
泥のようにも、ガラスのようにも見える目。
イェレイはできるだけ慎重に、必死に頭を回しながら、もう一度考えを紡ぐ。
「僕は……やっぱり感情に合理も非合理もないと思う」
フーレは表情を変えずに、イェレイを見ている。
「そこにあるのは多分、他人に対する説明の難易度と、他人にとって印象が良いかどうかだけだと思う。君の感情も僕の感情も、発生した時点では等価なもので、後からそこに社会的な意味づけがされていくだけなんじゃないかな。だからつまり、不確定で信頼性も低い外部要因に依存するから、合理的か非合理的かっていうラベル付けそのものが……」
「持ってる側の意見だ」
フーレはほとんど聞き取れない声で、ボソリと言った。あ……しまった。
イェレイが固まっていると、フーレは口元に、ほんの微かな笑みを浮かべた。
「変なこと聞いちゃってすみませんでした。あれはあの時浮かんだことをそのまま言ってしまっただけなので、深い意味はありませんでした。問いの設定も甘かったでしょう?」
「いや……」
「イェレイさんって、やっぱりどこまでも正しい人ですよね」
「フーレ、僕は何も……」
「あなたに聞いてもらえただけで十分です。全部、正しいあなたに」
フーレは笑った。どうしてそこで笑うの。思わずイェレイの手が伸びる。後になって思えば、それはきっと、カフェでのレルマの体温を思い出したからだろう。
しかし触れる直前で、イェレイは手を止めた。倫理がブレーキをかけた。自分とレルマの関係は友人だった。しかしフーレとの関係は、ただの業務上の上司と部下だ。そんな相手に触れられることは、間違いなくフーレを傷つけるだろう。
フーレはイェレイの手をチラリと見ると、わずかに皮肉をこめたように笑った。
「そういう触れ方はしてくれないんですね」
「ぁ……」
「イェレイさんってここでも正しいんですか」
今度は慈しみのこもったような笑いだった。
フーレは言う。聞いてくれてありがとうございました。わざわざ時間取ってくれて嬉しかったです。こんな面倒臭い話に付き合ってくれたことも嬉しかったです。こんなふうに受け止めてもらうのは初めてでした。そういえばこの後イェレイさん会議ありましたよね。まだ余裕はあるみたいですけど。でももう用意しないとまずいんじゃないですか。この部屋のことは僕がやっておきますよ……全ての言葉が、イェレイの頭をすり抜けていった。イェレイはただ、震える目でフーレを見つめる。
僕は間違えた。
僕はどうすれば良かった?
***
レルマが会議室の周辺をあてもなく歩き回っていると、扉が開く音とともに、イェレイとフーレが現れた。
「フーレ君! イェレイくん!」
レルマは迷わず駆け寄る。
「フーレ君、さっきはごめんね! なんにも考えないで、変なこと言っちゃった……もっと君の気持ち、考えるべきだったよね……」
「別にいいよ」
フーレは顔を斜め上にやり、目線だけをレルマに向けて言った。それからレルマに顔を近づけるとニヤリと笑い、「お前のおかげで、イェレイさんの意外な一面を知れたからね」と囁いた。
一方でイェレイを見ると、一人思い詰めたような顔をしている。フーレに何かあったのかと聞くと「わかるけどわからない」と言われた。その顔は一見無表情に見えたが、どことなく困っているようで、嬉しそうで、悲しそうな何かも滲んでいた。
「あの、イェレイくん……」
レルマが声をかけると、イェレイはハッとしたように顔を上げ、それからレルマとフーレを見た。
「ごめんね、ぼーっとしちゃった」
「大丈夫?」
「うん。……あっ、そうだ」
イェレイは突然何かを思い出したように宙を見ると、再びレルマとフーレに向き直った。
「さっき……清掃員の皆の部屋で、一番相談したかったことを言うの、忘れちゃった。実は僕、ジルケさんに職員の皆を正気に戻してくれって言われてるんだ」
「うん……?」
「だからもしよければ、二人にも協力してほしいな」
そうして控えめに笑うと、イェレイは「じゃあこれから会議だから」と歩き去っていった。恐らく無意識だろうが、今のイェレイの声には珍しく甘えの響きが含まれていた。
レルマはフーレと顔を見合わせる。そして同時に言った。
「無理じゃない?」