科学の場における神の取り扱い[3]
「ジルケさんは『お話しましょう』について、何か知っていますか?」
「何? なんだって?」
ジルケはわけがわからないというように眉を歪める。
「トールードの証言ですが、ヴァーデルラルドに『お話しましょう』と個室に連れ込まれ、様子がおかしくなる研究員が現れ始めているそうです。僕も実際に一人、明らかに様子が変わった研究員を見ました」
それからイェレイは、ニエラに関する細部の情報をジルケに伝えた。ジルケは腕を組み、視線をわずかに横にずらして言う。
「ほう……それは、惜しい人材をなくしたものだな」
「惜しい人材って……」
「冗談だ」
ジルケは正面を向いた。
「だがまあ、確かにその変わりようは妙だな。それほどまでに強い自我を持つ人間が、短時間の対話でそうも変わるとは思えない」
「それはあなたがジルケさんだからでは?」
「君はヴァーデルラルドの人徳を高く見積もりすぎだ。そうだな……ヴァーデルラルドは何かおかしなテクノロジー……いや、それ以前のもっと低次元な……そうだな、薬物の類を使っている可能性はないか?」
「だとすれば警察の介入が必要になってきますが……トップは許可を出すでしょうか?」
「出さないだろうな。というかそもそも、近頃のこの国の司法は当てにならないだろう。君はまだ十年前の認識でいるのかもしれないが……」
「いえ、そこの認識はアップデートできているはずです。多分……」
「別に責める気はない。研究ばかりしている人間は外の事情に疎くなりがちだ。……話が逸れたな。仮にまともな警察が介入できたとして、研究員はともかく、大多数の一般市民からの反発は避けられない。多くの人々にとって、神を疑うなんてのは、まずあり得ない話だからな。日和見主義のトップがそれを気にしないとは思えない」
「ですがこのまま放っておくわけにも……」
「おっとすまない、もう時間だ」
ジルケは壁の時計を見て言う。
「君とはもっと話したかったが、残念ながら、次の予定だ……」
「いえ、あなたが忙しいことはわかっていますから」
イェレイは立ち上がり、ジルケを見送る。ジルケは大きなヒールの音を立てて去っていった。
イェレイは考える。仮にニエラの件を「被害」とするのなら、ここまで明確な被害が出た以上、ヴァーデルラルドを放っておくわけにはいかない。しかしあれが、ニエラの「自発的な変化」であったとしたら?
いや、あの個室で何があったのかがわからない以上、そこに結論を出すことはできない。まずは調べることが先だ。それから……
この先僕は、「この研究所」と「この世界」、どちらにつくかを選ばなければならないかもしれない。ヴァーデルラルドは人類に貢献した大きな実績があり、今も研究所の仕事という形で貢献し続けている。しかし、ヴァーデルラルドの存在により、研究員達の在り方が強く歪められるのならば……
ふと、今のように「偉く」なるずっと前に、トールードに言われた皮肉を思い出す。
「お前、モデル業でもやった方が儲かるんじゃねえの?」
自分の頭脳を信じていた昔のイェレイは、トールードに食ってかかった。しかしいざ、自分の優柔不断さに直面したことで、トールードの言葉がリフレインする。
「いや、違う」
イェレイは頭を振った。
「やるべきことは、さっき出したばかりじゃないか。まずは調べるのが先だって……」
イェレイは自分に言い聞かせるように呟いた。それから、勢いよく自分の両頬を叩く。会議室の鍵をかけると、頭の中で戦略を組み立てながら、次の会議室へと歩いていった。
***
ある朝。レルマは清掃用具を取りに行く途中で、階段下でうずくまる人の影を見つけた。
レルマは駆け寄り、「大丈夫ですか」と声をかける。するとその人物はレルマを見上げ……その顔を見て、レルマはすべてを思い出した。この大きな丸い目と小さい口、ゆるいウェーブのショートカットと、ふんわりしたブラウスは、この前レルマを「ちんちくりん」呼ばわりしたイェレイの部下、フーレだ!
フーレの方もレルマを覚えていたようで、レルマの顔を見た瞬間、露骨に顔を歪めた。
レルマは改めて聞いた。
「あの、大丈夫ですか」
「なんでよりにもよって、最初に見つけるのがお前なんだよ」
忌々しげな声で、フーレは呟いた。知らないよ。口に出る寸前のところで言葉を飲み込み、代わりにレルマは聞いた。
「体調が悪いんですか? 救急車を呼んだ方がいいですか?」
「この様子を見て、救急車が必要だと思ったかい?」
「とりあえず聞いただけですよ……」
なんにでも突っかかる人だな。レルマは内心でため息をつく。しかし放っておくわけにもいかない。フーレの足をさする動作を見て聞いた。
「もしかして、足、怪我したんですか?」
「なんでわかるんだよ」
「見ればわかりますよ……階段から落ちたとかですか?」
「僕のこと、間抜けだと思ってるんだろ」
「思ってないですよ……」
プライドが高いのかなぁ。この人とトールードさんをぶつけてみたら、どうなるのかなぁ。ぼんやりとそんなことを思いながら、レルマはしゃがんでフーレのスラックスをめくり、足を見た。両足とも、くるぶしが青く変色していた。
「両足やっちゃったかぁ……僕、医務室まで運びますよ」
「はぁ!? お前が運ぶっていうの!?」
「僕こう見えて力あるんで、大丈夫ですよ。ほら、背中、乗ってください」
「なんで僕がお前なんかに……!」
「置いてくわけにはいかないですし……早く乗ってください」
その後もフーレは小声で何かぶつくさと言っていたが、やがて腕を伸ばし、レルマの肩に巻き付くように掴まった。フーレは、顔を見ずとも深く絶望しているとわかる声で言った。
「こんなところ、イェレイさんに見られたらどうすればいいんだ……!」
「大丈夫ですよ。イェレイくんは、見ても別になんとも思わないだろうから」
「なに? マウント? イェレイさんのこと、自分の方が知ってますアピール?」
「違いますよ……」
付き合いにくさはトールードさんとトントンだなぁ。今度は本当にため息をつく。その時だった。
レルマは異様な空気を察知して、立ち止まった。レルマは咄嗟に逃げようとしたが、フーレを背負っていたために、どうすることもできなかった。ただただ、立ちすくむ。
「ねえ……どうしたんだよ」
フーレが後ろから声をかける。
「いや……その……」
レルマが返答に迷っている間に、気配の正体が、廊下の角を曲がってこちらにやってきた。ヴァーデルラルドだった。
あの時と違わない、あまりの白さに、光そのものであるかのようにすら錯覚してしまう。マントのような白い布をはためかせながら、ヴァーデルラルドはレルマ達に近づいてきた。徐々に圧が強くなっていくのを感じる。その動作はゆったりして見えるのに、ふと気が付けば、その人はレルマの一メートルほど先の近さにいた。
ヴァーデルラルドはレルマ達の前で立ち止まって、優しく微笑みかけた。
「おや。お二人とも、おはようございます。朝早くから精が出ますね」
相変わらず、海のように深い、慈愛に満ちているようで、心の中が読めない声だった。その唇は妙に艶やかで、吸い込まれそうになる。今すぐこの場でひれ伏さないと……レルマは未知の衝動に駆られた。しかしそれでも、レルマは精一杯、挨拶を返した。
「お……おはようございます」
それを聞き、ヴァーデルラルドはレルマに向かってもう一度微笑んだ。そして、フーレの方を見て言った。
「そちらのあなたはどうされたのですか? 足を怪我でも……おや、そんなに睨まないでください」
睨んでいる? レルマが振り向くと、鬼のような形相……レルマに向けられたそれとは比較にならないほどに、憎悪に歪んだ表情のフーレが、黙ってヴァーデルラルドを睨みつけていた。レルマはフーレを落としそうになるが、なんとか持ちこたえる。
ヴァーデルラルドは意に介さない様子で続けた。
「若い方は、この世界を背負って立つ存在です。我々はあなた方にバトンを渡すために存在しているのですよ。あなた方の活躍を楽しみにしています。頑張ってくださいね」
そう言うとヴァーデルラルドは、再び白い布をはためかせて去っていった。
レルマは一気に気が抜けるような心地になった。それから、後ろに向かって聞く。
「フーレさん、あの人のこと嫌い……なんですか?」
しばしの沈黙。それから、苦々しげに、小さな声が返ってきた。
「……お前に言うことじゃない」
***
その日レルマは、緊張しながら、あの時と同じ時間に休憩室の扉を開けた。
そろりと顔を覗かせると、ゲラシーが「おっす」と手を振ってくれた。ゼゼとトールードもいる。
「来てくれたんすね、嬉しいっす」
ゲラシーは親しみのこもったような笑顔で、隣の席の椅子を引く。あれって、社交辞令じゃなかったんだ。レルマは胸を撫で下ろす。
この日テーブルに乗せられていたのは、先日のような巨大なチーズケーキではなく、売店で買えるような、袋詰めのチップスだった。袋も赤ければ、中身のチップスも異様に赤い。
「すごく赤くないですか……?」
「見た目ほど辛くないんで、いけますよ」
レルマは恐る恐る手を伸ばし、口に入れる。本当に、見た目ほど辛くなかった。
「おいしいかも……」
「だろう……?」
ゼゼが言う。しかしトールードが割って入る。
「俺はオメーの買ってくるスナックのセンス、ずっとヘンだと思ってるけどな」
「その割にはお前が一番食べているだろう……」
ゼゼも言い返す。ゼゼは箸でチップスを食べていた。
「俺たち持ち回り制で、お菓子買ってくるんですよ」
ゲラシーがレルマに優しく言った。
話題はいつの間にか、職場の服装規定の話に移っていた。ゼゼが言う。
「俺が言うのもなんだが……なぜこの職場は、あんなにも服装が自由なんだ……?」
「それはだな」
トールードが言う。
「俺の活躍のおかげだ!」
「何?」
ゼゼがわずかに眉間に皺を寄せる。ゲラシーが補足するように言う。
「あのですね、ゼゼは最近ここに来たばっかだから知らないでしょうけど、元々は男女ごとになんとなーく規定があったんですよ。でも、もう何年も前になるのかな、トールードが大暴れしたんですよ。役員会議に乗り込んで、『進歩的であるはずの俺らが、クソ性別二元論に捉われてていいのか!?』『ここはクィアの処刑場か!?』みたいなこと言って」
ゼゼは少し引いたように、さらに眉間に皺を寄せる。レルマも長いこと勤めているが、その話は初耳だった。まさか研究員達の中で、そんなことが起こっていたなんて。
「それは……怒られなかったのか?」
「それが、意外と怒られなかったんですよね。みんな進歩的って言葉に弱いんじゃないですか? あるいは、ジルケが本気で動いてくれたとか。未だにみんな、あの人の性別わからないですもん。昔からうまいこと誤魔化してたんでしょうね」
「ほぅ……ジルケが……」
「あっ、あとついでに、職員データベースの性別欄とかトイレのあれそれとかも変わったらしいですよ」
「だからみんな、俺に感謝しろっつーわけだ!」
トールードは誇らしげに目を細めた。そこには世界で俺が一番すごいと言わんばかりの自信がみなぎっていた。
しかしゼゼは未だ納得のいかない表情をしている。
「相手は制度だぞ……そんなに簡単に変わるものか……?」
もっともな疑問だが、それに対してトールードはニヤニヤと笑い「俺の顔が効いたのかもなァ」と答えた。
「制度っつったって、それを作って維持してんのは人間だろ? んで、俺は顔が美少女だからなァ。この顔で圧かけりゃぁ、大抵の奴はビビって勝手に萎縮してくんだよ。便利なもんだぜ。羨ましいだろ」
そう言うとトールードは、どこからか取り出したガムを口に入れ、噛み始める。レルマはトールードとゼゼの顔を交互に見た。僕は顔は関係ないと思うけど……。けれど、なるほど、そういう世界もあるのかもしれない。しかしゲラシーは「そんなわけないでしょ」とトールードにつっこんだ。しかしさらにゼゼが「あながち否定もできない」と被せてくる。
「皆影響されていないふりをしているが、非言語情報は馬鹿にできない。まあ、影響されていると大っぴらに言う方が問題だから、それでいいんだがな……」
「そういうもんすかね」
そこから話題は、美の認識における神経メカニズムの話に移っていった。レルマはそれを横目に、ぼんやりとイェレイの顔を思い浮かべていた。
***
研究所内の、自販機横の謎のベンチ。トールードはコーヒーを片手に、宙を見ながら、一人で鼻をほじり座っていた。
指を引き抜くと、そこには短い毛が付着していた。鼻毛が取れても別に嬉しくない。トールードは眉を顰め、もう片方の穴に指をさす。そして即座に指に引っかかりを感じた。あ……デカいの取れそ……。
その時だった。自販機の前に四人の人間が歩いてきた。一人はイェレイ、残りの三人はトールードの知らない人間。四人は真剣な顔で何かを話している。
「ヴァーデルラルドは善か悪か……」
うわ、バカクソどうでもいい。
「私の印象では、悪意のないまま悪に転じる可能性を持つ善だと……」
お前それ善悪の定義やった上で話してんか? てか自販機前でたむろすんな。
「ですが、今までの言動を見る限り、悪に転じる可能性は極めて低いのでは……」
まず二元論的に考えるのやめろよ。
「悪であるか善であるかの前に、大きすぎる力を持っていることが問題……」
その意見何も言ってないに等しいだろ。
そしてイェレイはどこか上の空で、ここまで一言も発していない。いや喋れよ。それどころか興味がなさそうにすら見える。じゃあ帰れよ。
トールードはベンチに座ったまま、そして鼻に指を入れたまま、四人を見上げた。視線に気づくと、イェレイは無表情でトールードを見下ろし、三人の見知らぬ研究員は、「では私達はこれで……」と焦ったように早足で去っていった。
トールードは指を抜いて、指先についたゴミを床に弾くと、ニタニタと笑いながらイェレイに話しかけた。
「よォー、委員長サマじゃん」
「だからその呼び方はなんなの」
「俺ンとこの高校の委員長に似てんだよ」
「知らないよ」
イェレイは眉間に皺を寄せながらトールードを見た。トールードはコーヒーを飲みながら、イェレイの顔を見返す。こいつ、俺にだけ微妙に対応冷たいんだよな。前にモデルやれば煽りしたこと、まだ根に持ってんのかな。そういやあん時、一瞬だけど手ェ出かけてたもんな。おもろ。
一方でイェレイはしばし視線を彷徨わせると、トールードを見て、「君は……いや、君に聞いても仕方ないか……」と迷うように小さく言う。トールードが「ああん?」と聞き返すと、イェレイは静かに口を開いた。
「別にこの問い自体に深い意味はないんだけどね。ヴァーデルラルドが来てから、ここの研究員達の様子が変わり始めたのは君も感じているかな。ニエラみたいに、”お話”なんかで変わったような劇的なものじゃなくて、もっと静かで緩やかな変化……」
「わかるぜー」
「僕個人は、この変化を好ましくないものだと思ってる。理由は色々あるけど、一番にあるのは、自由な議論も自由な発想も奪われかけているから、かな。その意味でヴァーデルラルドは、この研究所にとって害だと思ってるんだけど……」
「それ害っつーか、その研究員どもが、”その程度の奴だった”ってことが露呈しただけじゃね?」
「どういうこと?」
「クソヴァーデルラルドが来たぐらいで流されるなら、そいつはその程度の軟弱な奴だったってこと。だから別に、ほっときゃいいだろってだけの話だよ」
「冷たいね、君は」
イェレイから、冷えた笑い混じりの吐息が漏れる。トールードはそれを見て眉を上げた。おいおい、いつもの「優しいイェレイさん」はどこいったんだよ。
トールードは見上げるのをやめ、温かさのなくなったコーヒーに口をつける。それから言った。
「別に俺だって、意味もなく冷たいこと言ってるわけじゃねえよ。ていうか今のが冷たい発言だとも思ってねえけど」
イェレイは試すようにトールードの言葉を待っている。
「……俺は学部の頃からずっと、研究が楽しかったからここまで来た。研究における好奇心とか楽しさって、何よりも尊重されるべきものだろ。研究の原点ってそこにあるんじゃねえの。そういうプリミティブな欲求をちゃんと持ってりゃ、クソヴァーデルラルドごときに影響されたりなんかしねえんじゃねえの。それが弱いから、クソくだらないことで崩れてくんじゃねえの」
イェレイはまだ何も言わない。
「自分の好奇心とか楽しさに従うのって、逆に最大の合理性じゃねえのとか思うわけ。好奇心が熱を生んで、推進力を生んで、邪念のない研ぎ澄まされた思考を生んで、みたいな……クソ詩的な表現になったけど、つまりはそういうことだよ」
イェレイはまだ何も言わない。トールードはチラリとイェレイを見て、再び口を開く。
「でも多分みんなは、ヴァーデルラルドの実績に惑わされて本質を見失ってる。なんのために研究してんのかっつう本質をさ。浄化浄化言うやつはまさにそうだろ。人様の話ばっかしてよ、それよりも先に自分で手と頭動かせよって話だよ。もっと自分のことだけ考えてりゃ、そんなクソくだらねえことに惑わされたりなんか……」
「君は難しいことを考えるのを避けてるだけでしょ」
突然降ってきた声に、一瞬、思考がフリーズする。それからトールードは、無表情のままイェレイを見上げた。なんだこいつ、俺相手だからこんなこと言ってんのか? トールードは反射的に何かを言い返そうとした。しかしイェレイのどこか寂しげな表情に、何も言う気が起こらなくなった。はあ? なんでこいつ、そんな顔してんだよ。トールードは目を逸らし小さく舌打ちする。
「話ができてよかったよ。僕の周りには無い新しい意見だった。ありがとう、参考にさせてもらうよ」
イェレイはわずかに目を伏せて笑うと、トールードに背を向けて去っていった。
え、何あいつ、サイコ? 参考にするって、それ絶対参考にしないやつだろ。
トールードは冷たくなったコーヒーに口をつけた。美味しくなくなったので捨てようとしたが、捨てる場所がなかったので、仕方なく一気に飲み干した。
「まじぃ」
トールードは空になった容器をゴミ箱に投げ捨てると、コートの袖で乱暴に口を拭い、大股でデスクに戻った。
***
「最近なんだか疲れるなあ」
レルマはややぐったりした足取りで、廊下を歩く。
「いいや、今日はズルしてエレベーター使っちゃえ!」
レルマは清掃道具を持ち、エレベーターのボタンを押した。エレベーターを使うことは本来ずるでもなんでもないが、レルマの中では、特に意味もなくそうした信念があった。
下から上がってくるエレベーターを、鼻歌を歌いながら待つ。そして、電子音とともに扉が開いた、その時だった。
「おっ、お前は!」
中にいた人物が、レルマを見て目を見開く。そこにいたのは、先日レルマを「ちんちくりん」呼ばわりし、足を痛めていたところを医務室まで背負って行った、ゆるふわブラウスの若い研究員、フーレだった。
げえ。レルマは内心そう呟いたが、ここでエレベーターを見送る理由もないと考え、フーレと乗り合わせた。フーレはあからさまに顔をしかめているが、レルマは見ないふりをする。
無言の中、エレベーターが上昇していく。階を表す表示が動くのを待っていた、その時だった。
突如床が揺れ、エレベーターが停止するのを感じる。
「えっ、何?」
レルマは思わず声を出す。フーレはそれを横目で見て、どこか見下すように言った。
「大袈裟だな」
しかしその直後、天井の照明がわずかに暗転した。代わりに非常灯の青白い光が空間を満たす。
「……大袈裟じゃなかったかも」
レルマの言葉に、隣から「くっ」と小さく声が漏れる。レルマは周囲を見回して通話ボタンを見つけると、管理センターに故障の旨を連絡した。返ってきたのは、「三十分ほどで業者が到着する」との旨だった。
沈黙。レルマは耐えきれなくなり、口を開いた。
「そういえば、足は治りましたか?」
「治ったよ」
フーレは吐き捨てるように言った。
「お陰様で、お前のおかげでな。借りは返してやる。後でとびきりの菓子折りを持っていってやるから、覚悟しろ」
「ええ……」
なんで言ってることはまともなのに、こんな攻撃的なの……? レルマは自分だけが敬語を使っているのが馬鹿馬鹿しくなり、タメ口で話しかけた。
「フーレ君はさあ……」
フーレは眉を一瞬ぴくりと動かしたが、何も言わなかった。これには何も言わないんだ。ラインがわからないなあ。レルマは内心、直角になるくらい首をひねりながら続けた。
「なんでそんなに攻撃的なの?」
「舐められるから」
「えっ」
直球な質問に反して、返ってきたのは意外なほどに素直な言葉だった。フーレは続ける。
「僕はこういう見た目だから、小さい頃から人に舐められてきた。それと僕は何回も飛び級してきたから、いつもみんなより子供だった。で、ずっと強く言い返してきたら、この癖がついてた。どう? これで回答になってる?」
「なってる……」
レルマは頷いた。飛び級……確かに研究員にしては、妙に若いと思った。レルマは納得した。しかしそれ以上、特に言うことは思いつかなかった。
少ないラリーで会話が終わり、再び手持ち無沙汰になる。レルマは特に意味もなく、横目でフーレの様子を観察した。
フーレは片腕を強く掴み、もう片方の腕で服の端を何度も何度もいじっていた。その唇は固く結ばれている。レルマは思った。もしかしたら、この人は不安なのかもしれない。レルマの中で何かのスイッチが入り、話を盛り上げたいという強い意欲が湧き上がってきた。
レルマは心の中で「よし」と言うと、口を開いた。
「フーレくんは、イェレイくんのどんなところが好きなの?」
「それは当然! 誰にでもフラットに誠実に話してくれるところだね!」
フーレはレルマが思っていた以上にテンションを上げて話し始めた。
「それとあの人は、初めて、僕のことを見た目と年齢で判断しないで、中身を正当に評価してくれた人なんだ! あんなに丁寧に仕事を見て、評価してくれる人は他にいないね! それにあの人は、僕の若さと可愛さにも惑わされなかった。それはきっとあの人自身が美しいからなんだろうけど、とにかく、あの人は純粋に僕の能力を見てくれたんだ! それに……」
フーレはわずかに声を落とす。
「あの人は、僕が見てきた中で誰よりも正しいんだ」
そこでフーレは黙り込んだ。いつになく湿った声。え? どしたの? レルマが表情を読み取ろうと、顔を覗き込んだ時だった。
「ま、そういうわけだから。あんなヴァーデルラルドなんかよりも、断然! イェレイさんの方が信頼に値するね!」
フーレは再びテンションを上げて言った。
「それはわかるなあ……」
違和感をなかったことにしてレルマが同調すると、「お前に何がわかるんだよ」とフーレは反発した。やっぱりラインがわからない、この人。
「っていうかお前は、なんでイェレイさんと仲がいいんだよ。清掃員のお前が、研究員のイェレイさんと接点なんかないでしょ?」
「僕たち入所した時期が一緒なの。で、一緒に迷子になったんだ。それから連絡先も交換して、一緒によくご飯も食べるようになったんだけど、最近はイェレイくん忙しいみたいだから、全然誘えてないんだ。たまーに研究所で見かけて、挨拶するくらい」
「ふうん……」
フーレは意外そうな顔でレルマを見る。レルマは自嘲気味に笑った。
「フーレ君のこと、ちょっと羨ましいよ。だっていつも、イェレイくんと一緒にいられるんでしょ?」
「一緒にいても、するのは業務の話だけだよ」
フーレは視線を伏せて言った。レルマはそれを見て、結構お互い様なのかもしれないなあと、勝手に親近感を持つ。
ふと、今なら聞けるかもしれないと、レルマはある質問をした。
「そういえば、フーレ君はヴァーデルラルドのことが嫌いなの? 医務室に行く時、あの人のこと睨みつけてたから……」
「別に僕は睨んでなかったけどね」
「あれだけの顔しといて、自覚ないの!?」
「でもまあ、嫌いなのは確かだからね。自然とそういう顔になっちゃうのは、ありえるかもしれないね」
やっぱりよくわからない人だなあ。レルマが再び内心で首を傾げた時だった。
「お前はさ、合理的な態度って、なんだと思う?」
「え?」
脈絡のない質問に、レルマは横を向いて、フーレの顔を覗き込む。フーレはこちらを見ず、正面を見ていた。その声に試すような響きはなく、また本気で疑問に思っている様子もなく、ただ淡々と事実確認をされただけのようだった。
レルマは再び正面を見ると、言葉を探しながら、考えを巡らせていく。
「えっと……そうだなぁ……冷静で、感情に流されないで、論理的で、効率的に動けるってことかな……。あ、でも僕最近は、感情のこともこみこみで、論理的に考えることかなとかも思ったり……?」
「教科書的な答えだね」
フーレを見ると、顔をこちらに向け、わずかに歪んだ笑みを浮かべていた。口角は上がっていたが、その目は笑っていない。レルマは自分が怪訝な表情になっていくのを隠さず、その目を見て言った。
「ねぇ、フーレ君はどうしていきなりそんな質問をしたの? 合理的が何かなんて話、僕より君の方がいっぱい考えてるはずだよね? そうじゃなくても、君の周りには、そういうことを考えてる人がいっぱいいるはずだよね? なのにどうして僕に……」
「お前以上につまらない答えが返ってくるから」
フーレは顔から表情を消し、淡々と言った。真意がわからず、レルマは困惑しながら見返す。レルマが返す言葉を探していると、フーレは平坦な声で話し始めた。
「仮に、人類を救った人間Aがいたとする」
「それってヴァーデルラルド……」
「まだ話の途中なんだけど」
「うん……」
「人間Aは、人類を救った。お前は、Aが存在する世界の中の、登場人物だとする。それで、お前も、Aに救われたうちの一人だとする。Aの功績がなければ、お前は死んでいた」
「死ぬんだ……」
「でもお前の家族は、Aの救済的な行動が間に合わず、病気になって死んだ。お前の家族の他にも、Aの行動が間に合わずに死んだ人間はたくさんいる。だけどAは神扱いされて、その取り巻き、信者、たまたま助かっただけの一般人は、お前の家族みたいに死んだ人間なんかいなかったことにして、呑気にAを持ち上げて、浮かれた気分になっている」
「うん……」
「お前はそんな世界を見て憎しみの感情が湧いてきた。その憎しみは大衆に向くべきで、実際に大衆に向いている部分もある。けれどなぜかその憎しみは、一番に、世界の中心にいるAに向かっていった」
「うん……」
「お前はそういう、強くて非合理的な、感情的な感情を持っている。けれど同時に、お前は、合理的でありたいとも強く願っている。合理的に考えるなら、お前はAに感謝すべきだよね。Aによってお前自身も救われているし、家族が死んだのはAのせいではないから。でもなぜか、お前はAを憎んでいる」
あ、ここで合理性の話に繋がるんだ……。
「ここからが問題。合理的でありたいなら、お前はどうすべきだと思う?」
急に質問が来た……。
「非合理的だとわかっているなら、その感情は消し去ることが正解? その憎しみは抑え込んで見ないようにすれば良いだけのこと? 実現可能性が低いことを無視すれば、一番良い選択肢だよね。それか、この説明できない感情を、無理やりにでも論理性を付け加えて再編成すればいいのかな? ああそうだ、僕は心理学専攻じゃないけど、素人にもわかる範囲では調べたよ。確かに、いくつかのラベルを使えば、僕のこの感情の衝突は説明できた。でもそれをやったところで、この非合理な憎しみが消えることはなかったんだよね」
やっぱり君の話なんじゃないか。
「その上で聞く。合理的でありたい場合、お前ならこの状況で何をする?」
改めて聞かれちゃった……。
しばしの沈黙。フーレは無言でこちらを見ている。温度の無い目。レルマが答えるまで離さないと言わんばかりの目。
「もしかして今の話が理解できなかった? かなりわかりやすく話したつもりなんだけど」
「わっ、わかってるよ! えっと……そうだなぁ……」
レルマは目を泳がせながら、言葉を探す。
「聞いてて思ったのが、そもそもAを憎んじゃうっていうのも、合理的になりたいっていうのも、なんとなく、おんなじ気がするっていうか……」
「合理的でありたいと思うことが、そもそも非合理的って言いたいわけ?」
「えと……非合理的かどうかはわかんないけど……でもその二つは同じっぽいし、人って感情で動くから、だから、その……ごめんどうしよう、全然答えられないや……君が聞きたいのってそういうことじゃないよね……?」
「別にいい」
「へ?」
フーレはいつの間にか腕を組み、レルマから視線を外していた。
「少なくとも、その辺の半端な研究員が言うようなことよりは、面白い意見が聞けた。お前は答えられないとか言ってたけど、言いたいことはわかったよ」
「そうなの……?」
「わかったよ。僕は、生まれながらに合理的な振る舞いができる人には敵わない。自分の非合理性を非合理だと思いながら、それをも非合理な感情として飲み込んでいかなくちゃならない」
「えぇと、後半はよくわからないけど……生まれながらに合理的なことばっかりできる人はいないんじゃないかな? 特に君みたいに、大変なことを経験してきたのなら尚更……」
「誰がいつ、僕の話をしたって言った?」
「ごめんって……」
そういえばこの人、ここまでの話を「もしもの話」として話してたんだっけ。
「ねぇ、フーレくん。この話、イェレイくんに聞いてみなよ。あの人なら絶対、真剣に考えてくれるよ」
「なっ……あの人にこんなこと聞けるわけないでしょ!? だって僕は、あの人にとって『冷静で仕事ができる完璧な部下』なんだよ!? こんな面倒くさいことを聞く人間だと思われるなんて、絶対に! 許せないね!」
冷静……? イェレイくんなら面倒くさいだなんて、絶対に思わないだろうけどと、レルマが口に出そうとした時だった。
エレベーターのドアが小さく開き、上から微かに光が差し込んでくる。ドアの隙間から覗く灰色の制服を着た人が、「ドア開けますよー」とレルマ達に声をかけた。それから二人は救助隊にひっぱり上げられ、エレベーターの外に出た。
去り際に、フーレが言う。
「菓子折りの件、忘れるなよ。絶対に借りは返してやるんだからな」
だからその言い方は、仇に報いる言い方なんだってば……。レルマは内心そう思いながらも、「はーい」とだけ言って手を振った。
***
「まじでやばいっす、あの人」
「あ?」
レルマとゼゼ、トールードが休憩室でチョコレートをつまんでいると、ゲラシーが疲れた表情で部屋に入ってきた。その声には、焦りのようなものも滲んでいる。ゲラシーは椅子に座るなり、頭を抱え始めた。その様子に、その場にいた全員が視線を向ける。
「何がやばいんだよ」
トールードが頭の後ろで手を組みながら聞く。ゲラシーは顔を上げて答えた。
「ヴァーデルラルドっすよ、ヴァーデルラルド。あの人と最近、一緒に仕事してるんです」
「よかったじゃねえか」
トールードは口に二粒のチョコレートを含み、頬を膨らませて他人事のように言う。しかしゲラシーは間髪入れず顔を上げ言った。
「よくないんすよ、これが!」
それから、自分の声量に驚いたように視線を彷徨わせ、居心地悪げに咳払いをした。それから静かに続ける。
「聞いてください。あの人、まるでこの世の全てを見通してるみたいなんですよ。未来が見えているみたいというか、もはやこの世をすべて知っているというか……あの人の言う通りに動くと、なぜかすべてがうまくいくんです。期待通りの結果になるんです。あの人が突飛なことを言い出しても、実際に動かすとその通りの結果が出るんです」
レルマとゼゼは真剣な表情で話を聞いていた。一方で、トールードはまだどこか他人事だった。
「いいんじゃねえの、うまくいってんならよ?」
「こっちの身にもなってくださいって」
ゲラシーは頭を掻きながら言う。
「こうも一発でうまいやり方を引き当てていく人がいると……俺たちが頭ひねってる意味はなんだって話ですよ。俺前に言いましたよね、役に立つならそれでいい、共存してくのが一番だって。確かに役には立ってますよ。でも、俺たちが関わる余地なんて、どこにもない。あれは共存じゃなくて支配ですよ」
ゲラシーはそこまで言うと、深くため息をついた。レルマは静かに、ゲラシーの前にチョコレートの包みを置く。それを見て、ゲラシーは手をつけずに「ありがとっす」とだけ言った。
ゼゼが言う。
「お前はもっと、実利に割り切った人間だと思っていたんだがな……」
その言葉に、ゲラシーは自嘲気味に返した。
「俺にもプライドがあったってことすかね。失って初めてわかるってやつかも。俺の語ってたことって、結局は超理想論だったのかもしれないですね」
ゲラシーはだらんと手足を投げ出す。
「無力……無力っすよ、俺。どうしようもないなぁー」
その言葉に、レルマは心配そうにゲラシーを見た。ゼゼもテーブルの上で手を組みながら、静かにゲラシーを見ている。トールードだけは関心がなさそうに、一人で静かにチョコレートを食べ続けていた。
ゼゼが言う。
「上に言ってみたらどうだ……? もしかしたら、ヴァーデルラルドを異動させてもらえるかもしれない」
しかしゲラシーは首を横に振った。
「そこまでのことじゃないっすよ。仕事ですし、投げ出さないで最後までやります。癪ではありますけど、あの人が超絶役に立ってるのは間違いないですからね。最後までそれに付き合っていくのがプロってものでしょう」
「そうか……?」
「本質的に何が大事かっていうのを考えたら、やっぱり実利があるかどうかっていうのが一番だと思うんです。これからも、個人的な感情は混ぜないでやってきますよ」
ゲラシーは頬杖をついて、ため息ともつかない息を吐いた。
別に感情、混ぜてもいいと思うけどな。レルマはそう思ったが、言えなかった。きっと、外にいる自分の感覚なんて、現場にいる人にとっては塵みたいなものなのだろう。レルマはただゲラシーを眺めることしかできなかった。
***
「なぁヴァーデルラルド君。君の本当の目的はなんなんだい?」
ジルケは廊下でヴァーデルラルドを捕まえ、誰が相手であろうとも変わらない尊大な態度で問い詰めていた。
「本当の目的……と言いますと?」
「君は単独で世界をまるきり変える力がある。だというのに、こんなちっぽけな研究所に所属する意味がわからないんだ」
「それはそれは……」
ヴァーデルラルドは口元に柔らかな微笑みをたたえ、顎に手を当て、小さく首を傾げた。
「私はただ、皆さんとともに次のステージへ進みたいだけですよ。それには皆さんのような優秀な科学者への支援が不可欠……そう考えただけです」
「はっきり言おう。君が来たことで、研究員達に悪影響が出始めている。支援どころの話ではない。自律性を失う研究員が多数、緩やかな思想の統一の気配すら現れ始めている。君がそれを自覚していないとは思えないが?」
「ええ、確かに。私が最初に来た頃から、随分と空気が変わりましたね」
「だろう?」
「ですが、それは良い兆候では?」
「何?」
ジルケは眉をひそめた。ヴァーデルラルドは続ける。
「皆が同じ目標に向かって、一丸となって努力をする。私も皆も、人類のために行動しているのですよ。それは素晴らしいことではありませんか。その点に疑う余地はないと、私は考えています」
「皆が君のようになることが、素晴らしいことだと?」
「ええ、その通りです」
悪びれもせずに言うヴァーデルラルドに、ジルケは面食らった。
「では私は用事があるので、これにて失礼します。あなたとお話ができて良かったですよ。有意義な時間が過ごせました」
そう言って、ヴァーデルラルドはゆったりとした足取りで去っていった。
「何が有意義だ。本当はそんなこと思っていないくせにな……」
ジルケはその後ろ姿を、睨みつけるように見送った。
***
「オメーC使えねえのかよ」
「解析程度にCは要らないが……?」
レルマが休憩室の扉を開けると、既にそこには、ゼゼとトールード、ゲラシーがいた。ゼゼとトールードはいつものように言い合いをしていたが、ゲラシーだけは輪に加わらず、どこか遠い目で窓を見ていた。
「あの、ゲラシーさん、大丈夫ですか?」
レルマは思わず声をかける。ゲラシーはふと我に返ったようにレルマを見ると「ああ、大丈夫っすよ」と明るく言った。しかしレルマはその声の響きを聞き逃さなかった。
「あの、やっぱり大丈夫じゃないですよね?」
「大丈夫っすよ。俺、割り切ってる人間なんで。いくらヴァーデルラルドが正しいことしかしなくても、俺は実利がある限り、あの人を肯定しますよ。ま、俺の知ってる科学とは違いますけどね」
「ゲラシーさん……」
「科学って、地道な失敗の積み重ねで最適解を探っていくものじゃないですか。でもあの人のやってることって、ほぼ超能力なんですよ。でも、筋道は通っているんです。いきなり正解を引き当ててくるってだけで。論文として成り立たせるのも簡単ですよ。俺だってまあ、なんとか意味は見出してますよ。実験は一人で動かすには手間がかかりますからね。手駒ですよ手駒。それでもいいんです。役に立ってるから。ほとんどの組織はそうでしょう? 上の人が誰かを手駒にして、その人がさらに下の人を手駒にして、それで成り立っている。手駒であることは悪じゃない。むしろ目標に向かっていく最適解として俺は動いているだけ。言いましたよね、仕事に個人的な感情は持ち込まないって。俺は仕事をする人間として、やるべきことをやるだけです」
ゲラシーはいつになく饒舌だった。そしていつになく、話が散らかっていた。
「つまり俺は、俺なりに合理的に動いてるってことです」
ゲラシーは無理やり話を締め、再び窓の外に目をやった。レルマは困ったようにゲラシーとゼゼを交互に見た。
「これ、食え……」
ゼゼが静かに、ゲラシーとレルマにスナックの袋を渡した。
その時だった。
「ゲラシーさん、いますか?」
ドアが開く音とともに、爽やかな風のような声が響いた。
レルマが振り返ると、皺一つないシャツを纏ったイェレイがいた。イェレイはレルマに気がつくと、「あ、レルマくん」と、笑顔で手を振った。レルマも小さく笑って手を振り返す。トールードは怪訝な表情でそれを見た。
イェレイはトールードの視線など気にも留めない様子で、ゲラシーに向かって言った。
「ヴァーデルラルドのことを聞きたいんです」
「へ?」
それからイェレイは、雑音一つない滑らかな動作で、ゲラシーの隣の椅子を引き座った。
「あの人の態度、それによる研究員の変化……どんなことでもいいから教えて欲しいんです」
「いや別に、俺あの人のこと詳しくないっすけど……」
「あなたは周りの変化に気づかないほど、鈍感な人じゃないでしょう」
「いや俺、結構鈍感な方だと思いますけど……まあいいや、喋れることは喋りますよ」
レルマはイェレイを見る。イェレイはゲラシーの話に耳を傾けていたが、それ以上に、ゲラシーそのものを注意深く観察しているようにも見えた。ゲラシーに向ける目は、レルマに向けるそれよりも明らかに鋭い。あの綺麗な青い目に射抜かれて、平気でいられる人などいるのだろうか……と思ったが、ゲラシーは特に動じている様子はなかった。
レルマの内心など知る由もないトールードは、イェレイとゲラシーの様子を横目にあくび混じりで言う。
「例の『お話しましょう』の件で気になってんのか? お前の本業は、探偵じゃなくて研究だと思ってたんだがな」
イェレイは耳をぴくりとさせながらも、そちらには視線を向けず、淡々とゲラシーに質問していった。レルマは手元の紙コップを小さく握りしめながら、二人の対話を聞いていた。そしてその様子に、レルマははっきりとした違和感をもった。
トールードさんも言っていたけれど、イェレイくんって、こんな「探偵」みたいなことをする人だったっけ。態度は穏やかだけど、でも、こんな風に問い詰めるようなことをする人だったっけ。
いつもと違う。何も知らないレルマでも、イェレイの中に何か変化が起きたことだけは、なんとなく感じとることができた。
***
「ニエラが休職した?」
「はい、そうなんです、結構前から……っていうかこれ、イェレイさん相手だから言ってるんですよ? 本当は個人情報だからあんまり言っちゃいけないっていうか……」
「わかってます。僕も口外しませんよ」
イェレイは事務室にいた。当初イェレイは、ヴァーデルラルドに「お話された」ニエラにコンタクトを取ろうとしていた。しかしニエラの行方は誰に聞いてもわからなかった。そこでダメ元で事務に聞いたところ、件の休職の話を聞かされたのだった。
「なんというかもう、ずっと上の空で、仕事するどころじゃなかったそうです。それで上司が休職させる判断をしたそうで。昔は誰よりも野心家でエネルギッシュだったそうなんですがね。噂によると、ヴァーデルラルドの善の心に直接触れたことで、自分のこれまでの行いに耐えられなくなったとか……いかにもありそうな話ですよね。だってあの人、ヴァーデルラルドを道具にしてやるとかなんとか言ってたんでしょう? そんなのおこがましすぎます。反省するのも道理ですね」
個人情報だからと言う割には、この職員と色々なことを喋ってくれた。イェレイはその勢いに乗って聞く。
「では、ニエラの自宅の住所を教えていただくことはできますか?」
「さすがにそれは個人情報すぎますよ」
職員は急に口を閉ざした。ゴシップ以外には興味がないのかもしれない。イェレイは限界を悟り、感謝だけ伝えて去ろうとした。よほど噂話をしたいのか、その職員は名残惜しそうな顔をしていたが、イェレイは引っ張られないよう、早足で部屋を後にした。
「ニエラの居場所さえわかれば、話が聞けたんだけどな……」
イェレイは歩きながら考える。トールードに聞いても、ニエラの他に誰が「お話」されたのかわからない。お話の最中に何が「言われた」のか、あるいは何が「された」のか。
あの個室で、何が行われたのか。
「もう、僕が直接行くしかないか……?」
イェレイの思考は、どのようにヴァーデルラルドに接触するかに切り替わっていた。
***
「ジルケさん、僕がヴァーデルラルドと”お話”するには、どうすればいいでしょうか?」
「それは許可しない」
ジルケは、有無を言わさない態度で即答した。完全に予想外の返答で、イェレイは小さく目を見開いた。
「ですが、真相を知るためには、もはやそうするしかないかと……」
「証言を聞く限り、”お話”した人は皆例外なくおかしくなっているのだろう? 君は数少ないまともな人間だ。君を失うわけにはいかない」
「ですが……」
「それに、単なる”お話”なら私も何度かしているぞ。個室じゃなく、廊下でだがな。あの人間の言うことは面白い。『皆さんとともに次のステージへ進みたいだけ』『皆が同じ方を向いて、人類のために行動するのは素晴らしいこと』……それを繰り返すばかりだ。皆が自分のようになればいいと思っていることを隠しもしない。もしかしたら本当に、それだけの単純な思想なのかもしれないな」
「それは……ジルケさんとは話が噛み合わなさそうですね」
「まったくだ」
ジルケはふんぞり返る。そして体を戻し、前のめりになって言った。
「とにかくだ。君が個人でヴァーデルラルドと接触することは、私が許可しない。君はあくまで、外側からの観察者でいろ。君は冷静に組織を見つめ、ただ静かに提言する者でいろ。わかったな」
「……はい」
そう言うと、ジルケは時計を見て、去って行った。
すみません、それ、破ってしまうかもしれません。イェレイはジルケの背中を見送り、静かに目を閉じた。
***
この日イェレイは、レルマ、ゼゼ、ゲラシーとともに、休憩室にいた。目的はゲラシーだった。
ヴァーデルラルドの連絡先は、一部の職員にしか知らされていない。そして、この広大な研究所でヴァーデルラルドに出会うことは、簡単なことではない。それゆえヴァーデルラルドと一緒に仕事をしているゲラシーならば、その行動パターンを知っているだろうと踏んでのことだった。しかしゲラシーの答えは曖昧なものだった。
「いや……俺もよく知らないっすよ。あ、でも……十七時までは一緒にいることが多いので……それ以降の時間、あの人の部屋の前で張ってれば会えるんじゃないですか……?」
イェレイは片眉を上げる。十七時から夜まで、長い時間見張っていろということか。僕もそんなに暇じゃないんだけどな。ああでも、暇は作るものか。イェレイは頭の中で一人、問題を完結させる。
ゲラシーの声は以前よりも明らかに張りがなかった。イェレイは大丈夫かと聞いたが、ゲラシーは大丈夫の一点張りだった。
「ちゃんと仕事はしてますよ。価値観も前から変わってないです。俺はあの人を、役に立つので泳がせてるっていうだけです」
ゲラシーは淡々と言った。しかしイェレイには、それは理性を保っているようでいて、その実、合理という新たな信仰に縋りついているだけにも見えた。合理。人によって形を変える、曖昧で、不確かな概念。
その時だった。
イェレイの肩が跳ね上がるほどの激しい音とともに、扉が勢いよく開けられた。そこにいたのは、顔を真っ赤にしたトールードだった。
「クッソ! あのクソ人間! ついに俺の領分まで手ェ出しやがった!」
「クソ人間?」
イェレイが問う。するとトールードは一瞬冷静になり、「なんでテメェがここにいんだ?」と返した。イェレイは「どこにいようと僕の勝手でしょ」と返す。トールードは再び前を向いて続けた。
「まあいいや……それよりもあのクソ人間! ヴァーデルラルドの奴が、ついに俺の仕事にまで口出ししてきやがった! なんなんだあいつは!? 俺とマジで意見が合わねえ! しかも俺の仕事も、楽しみも、全部奪っていきやがる!」
ゲラシーは「この前まで他人事だったっすよね」と小声で言う。レルマは不安げに、ゼゼは冷静な表情で、黙ってそれを見ていた。トールードは続ける。
「チックショォ! なんで俺のやりたいと思ってたこと、先回りしてやってんだよ! なんで俺が気になってたこと、先回りして否定してくんだよ! なんで俺が楽しみにしてこと、正解だけ出していなくなってくんだよ!」
トールードの目には、うっすらと涙の膜が張っていた。イェレイはその裏にあるものを想像して、少しだけ同情する。
トールードは乱暴に椅子に座って言った。
「周りの奴らも周りの奴らだ! 『その仮説は既にヴァーデルラルドさんが検証しています。ですからあなたがやる意味はないですよ』だってェ!? うるせーな! 俺がやりてえんだよ!」
トールードはテーブルを強く拳で叩く。その拳は、血が出そうなくらいに固く握られていた。
「ぶっつぶしてやる……あのクソ人間……!」
「物理的にか……? やめておけ。罪に問われて研究ができなくなるのはお前だぞ」
「んなこたわかってらァ!」
ゼゼの言葉に、トールードは激しく言葉を返した。しかしゼゼは怯むことなく、腕を組んで静かにトールードの目を見ていた。その目は睨みつけているようにも見えたが、当の本人の意思はわからなかった。
場が静かになると、ゼゼは静かに口を開いた。
「いよいよヴァーデルラルドの影響が、手に負えないところまでやってきたな……」
急に何を言い出すんだ。イェレイは困惑した。ゼゼは宙を見ながら、言葉を続けていく。
「俺はこの研究所だけは別だと思ってずっと観察していたが……観察していれば何かが変わるかもしれないと思っていたが……ここも例外ではなかったということだな」
何が言いたいのだろう。イェレイは真意を待つように、ゼゼを見る。
「俺は元々、世間の空気に反対していた……そろそろここでも一発、ぶちかます時がきたのかもしれないな……」
そうしてゼゼは、何か自己完結したように目を閉じた。え、それでおしまい?
イェレイの頭の中は、疑問符でいっぱいになった。「ぶちかます」とは、一体何を? イェレイはゼゼの顔を、不信感を隠すこともなく覗き込んだ。レルマも、同じように怪訝な表情をしている。一方でトールードは下を見ながら一人で何かをブツブツと呟き、ゲラシーはぼんやりと窓の外を見ていた。
イェレイはゼゼという人物をよく知らない。しかしその危険な風貌から、何をぶちかますのか想像がつく気がした。きっとそれは、良くないことなのかもしれない。しかしイェレイは、この状況に風穴を開けられる打開策として、それを期待せずにはいられなかった。
***
「よし、これで終わりっと……」
レルマが午前の清掃を終え、清掃員達の部屋に戻ろうとしていた時だった。
ギュイィィイィーーーーーン!!!
耳をつんざくような音が、廊下の向こうから聞こえてきた。
「えっ、何? 何?」
レルマが走っていくと、そこにいたのは、ホールに集まる十数人の人だかりと、その中央にただずむ、ギターを持ったゼゼ、そしてドラムの後ろに座るトールードだった。
「えっ?」
レルマの困惑など掻き消すように、ゼゼがシャウトし、歪んだ声とドラムの爆音が、巨大なスピーカーを通して鳴り響く。
再びゼゼが叫び、激しいギターとともに歌い始める。この世の怒りがすべて詰め込まれたような、地獄の底から吹き出すような声だった。トールードがドラムを叩く。それはただ衝動のままに腕を振りかざしているようで、髪は激しく暴れ狂っていた。
え? 何? 何?
洗練されたギターに対して、ドラムの刻むリズムはめちゃくちゃで、もはや音楽の体をなしていない。歌詞はところどころ抽象的で、レルマはすべての意味を理解することができなかった。聞きとることすら困難なフレーズもあった。
それでも、この研究所の停滞した空気、そしてヴァーデルラルド本人に対する明確な怒りだけは、はっきりと感じとることができた。
歓声はない。職員達は、ただ呆然と口を開けて立ち尽くしている。困惑か、魅了か。レルマは魅了されていた。わけがわからないまま、圧倒的なその怒りに、ただただ魅了されていた。
そして静かにパフォーマンスが終わる。レルマにとっては、ほんの数秒に思えた出来事だった。辺りを見回すと、いつの間にか人の数が増えている。人々はざわめくこともなく、ただ静かにそれを見ていた。
人がはけるのを待たず、ゼゼとトールードは楽器を片付け始める。レルマは高揚した頭で、思わず駆け寄っていた。
「ゼゼさん! トールードさん!」
「おう! レルマじゃねえか!」
「なんですか今のは!」
「ライブだ……」
慣れているのだろうか、息一つ乱さない様子で、ゼゼが答えた。
「もう見ていられなかったものでな。ここで一つ、叫ばせてもらったというわけだ」
「まさか、無断で……?」
「いいや、ジルケに許可をもらった。直感的に、あの人は俺たちと感性が近いと思ったんだがな、大正解だったというわけだ」
「そうだったんですね……!」
レルマが声を弾ませると、トールードが横から、興奮した様子で、息を荒げながら割って入った。
「俺、今日初めてドラム叩いたけど、すっげえな! 俺、今日からドラミスト目指そうかな!」
「それはドラミストじゃなくてドラマーだ……」
ゼゼが冷静に返す。トールードはハイになったように、意味もなく大笑いした。
レルマは胸が熱くなった。まだこの研究所は、ヴァーデルラルドに呑まれたわけじゃなかったんだ。まだこの研究所には、こんな熱い魂を持った人が存在してたんだ!
その翌日、ゼゼとトールードは研究所から姿を消した。
***
休憩室。レルマはウォーターサーバーの水を入れた紙コップを持ち、落ち着かなげにテーブルを見ていた。その向かいで、ゲラシーが窓の外を見ている。
ゲラシーはチラリとレルマを見て言った。
「すいませんね、今日はなんのお菓子も用意できなくて。持ち回りで、トールードが買ってくる予定だったんですよ」
レルマは顔を上げて、わずかに身を乗り出す。
「あの……トールードさんとゼゼさんは……」
「昨日の夜から連絡がつかないです。今朝も、昼も」
レルマは衝動的に何かを言おうとして、しかし言葉が出ず、再び視線を落とした。
「俺、あのライブ見てたんですよ」
ゲラシーがポツリと言った。
「まさか『パンク』って形で思想ぶつけてくるなんて、さすがに笑いましたね。あいつららしいですけど」
レルマは顔を上げる。
「ぶつけるっていうか、叩きつけるって感じでしたよね、あれ。でも多分、叩きつけたってことが大事なんですよね。ああもデカくて純粋なエネルギーに触れると……俺ってもしかして、つまらないことにこだわってたんじゃないかって、ちょっとだけ思いましたしね。別に、あいつらの言ってることを鵜呑みにするつもりもないですけど」
レルマの目が微かに揺れる。
「あいつら歌の中で、何回もウェークアップって言ってたじゃないですか。目ェ覚ませって。別に、だからなんだってわけじゃないですけど……すいませんね、まとまらない話しちゃって」
「いえ……」
そう言ってゲラシーは、水に口をつけた。レルマは下を見る。コップの水面に、レルマの不安げな顔が映っては、ゆらめいて消えた。
イェレイは、扉の前である人物を待っていた。端末の時計を見ては周囲を見回し、時計を見ては見回し……。
ついにその人物はやってきた。イェレイは廊下に立ち塞がるように体を翻し、言った。
「お疲れ様です、ヴァーデルラルドさん」
イェレイは自分の眉間にわずかに皺が寄り、口元が引きつるのを感じた。手も、震えている。それでもできる限りの笑顔を貼り付け、その人物の「目元」を見た。
「これはこれは……」
ヴァーデルラルドは深い声で、やや驚きを滲ませたように言う。それから、優しく微笑んで言った。
「あなたはイェレイさんですね。直接お会いするのは初めてでしょうか。あなたの活躍は聞いていますよ」
「ヴァーデルラルドさん」
イェレイは間髪入れずに言った。
「この後、お話することはできないでしょうか……?」