科学の場における神の取り扱い[2]
その日から、研究所の空気は明らかに変わった。皆がどこか浮わついたものを抱えながら、努めてそれを見ないふりをしていた。
「ねぇレルマ、あんたヴァーデルラルドの目の前まで行ったんでしょ? どうだった?」
「そうだなぁ……大きかったよ。二メートルくらいあったんじゃないかなあ」
「え、それだけ?」
研究員だけでなく、清掃員の間でも、その話題は飛び交っていた。
「大きかっただけじゃなくて、もっと他になかったの? いい匂いがしたとかさあ」
「それが、よく覚えてないんだよねぇ……」
「えぇー」
時計の針が一時を回ったのを見て、レルマはモップを取り出し、廊下に出た。遠くの方から、いつものように持論を展開するニットの研究者、ヨヨギの声が響いてくる。しかし、レルマは違和感をもった。あれ、あの人、もっと早口じゃなかったっけ……?
レルマの正面から、二人の研究員が歩いてくる。研究員の話など、何を聞いてもわからないのが常だった。それでもレルマの耳は、彼らの話の中から、ある一つの単語を捉えた。
「浄化……」
それは、テレビの中でヴァーデルラルドが繰り返し語った言葉だった。
***
「ヴァーデルラルドの印象はどうでした? ジルケさん」
「予想通りだ。何を考えているのか、まったくわからない」
イェレイとジルケは、狭い会議室の隅に座っていた。
「せめてあのマスクさえなければな」
「でもあれは、医療器具だと言っていましたよね」
「どうだかな。あんな形の器具、見たこともない」
ジルケは不機嫌そうに、腕を組んで背もたれに体重をかけた。
「でもまだ、正式に所属が決まったわけじゃないでしょう。まだ判断の猶予はありますよ」
「トップの様子を見る限りじゃ、ほぼほぼ決定しているようなものだがな」
「受け入れる方向に?」
「そうだ。あの人は『私はいつでも中立』だとか『安全と秩序を守りたいだけ』だとか抜かしながら、ただ周りの空気にしたがって動いているだけだ。それにヴァーデルラルドが所属するとなれば、この研究所の印象は国からも一般人からも良くなるだろうからな。私のような”少数派”の意見など、聞く気にもならないのだろう」
「そんな、ジルケさんが少数派だなんて……あなたには十分な影響力があるでしょう」
「そんなもの、大衆の目に比べればミジンコみたいなものだ」
イェレイは口をつぐんだ。ジルケ本人にそうも言われてしまっては、返す言葉など何もない。イェレイはわずかに視線を彷徨わせてから言った。
「試用期間中のあの人の扱いは、どうするのですか?」
「あるチームと共同でプロジェクトを進めさせることになっている。いずれ、君のもとにもいくかもしれないな。ヴァーデルラルド君が」
「それは……正直、まだ来ないでほしいですね……」
「本当に正直だな、君は」
ジルケは小さく笑った。イェレイも苦笑する。
イェレイは薄々感じていた。絶対に到達できない。そんな感情を抱いてしまった相手が、いざ自分の前に現れた時、待っているのは碌でも無い結果だろうと。
いずれ、対等に対峙できる日が来るのだろうか。あるいは、対等さなど待つ間も無く、その時は否応なく迫ってくるのだろうか。前者だといいのだけど。イェレイは内心で苦い顔をしながら、ジルケを見つめていた。ジルケは何か考え込むように、宙に目線を向けていた。
***
あれから数日。研究員達が集まる食堂。たまの贅沢をしようと、レルマが少し高めのパスタを持って席についた時……いや、違う。その前から、異様な熱気は感じていた。
浄化。あの人。そんな単語が四方から耳に入ってくる。誰もが静かに、しかし異様に興奮した様子で、その言葉を口々に言う。食堂内は、不気味なざわめきで満ちている。あの人……ヴァーデルラルドが来たばかりの頃も、熱の気配はあった。それでも皆、まだそれを隠そうとしていた。しかし今は……
研究員達の中で何があったのか。あるいは何もなかったのか。レルマには研究員達の心の動きが何一つとしてわからない。わからないまま、ただ人々だけが変わっていく。何かわからない力によって。
「俺さ、正直怖いよ……! あんな圧倒的な人と、対等にディスカッションなんかできるかよ……!」
唯一、隣に座った研究員だけが頭を抱えている。その研究員を、周りの研究員が無責任に励ましている。レルマには、その研究員達が何を言っているのかわからなかった。しかし、寄り添う以上に、自分の感情の昂りを抑えきれていないのは明らかだった。
イェレイくんなら、この人たちを見てなんて思うんだろう。
レルマはただ、その熱に呑まれないよう、半ば無理やりにパスタを飲み込むことしかできなかった。少し値が張ったパスタの味も、レルマにはもはやよくわからなかった。
***
「イェレイさん、この問題は浄化システムの知見を取り入れることで解決できないでしょうか……」
「人類が浄化を実現できたのですから、この仮説だって……」
「浄化システムのこの理論が応用可能……」
次々と出る研究員達の言葉に、イェレイの眉間に皺が寄っていく。
場が静まったタイミングで、イェレイは控えめに言った。
「……あの、浄化を中心に話を進めるのはどうかと思うんですが」
場がさらに静まり返る。イェレイが見回すと、ほとんどの研究員達は居心地悪げに目を逸らした。しかし一人の研究員が大声で反論した。
「こんなに強力な先行研究があるのに、それを無視して話を進めろと?」
「ですが信頼できるかどうかは、まだ判断を保留にしておくべきかと……」
「実際にあんなに花が咲いたのに?」
研究員は歩き出し、イェレイに詰め寄った。しかし別の研究員が割って入る。
「いくら花が咲こうと、無条件に受け入れていいものではない……という認識は、私たちの中で合っていますよね?」
「ですが世界中の研究者が、こぞってあのシステムの信頼性を検証していますよ? 私だってあの資料を読み込んでいます。実際にいくつかの機関は……」
イェレイは突然割り入られたことで、一瞬そのやり取りが、どこか遠くに見えた。
思い違いか。この研究員はこれまで、誰よりも先行研究に対して批判的で、慎重な態度をとっていなかったか。周りの研究員も、チラチラと落ち着かなさげにその様子を見るが、誰も口を挟もうとしない。しかし皆、もっと議論好きではなかったか。割って入った研究員だけが、イェレイに詰め寄った研究員を説得しようとしている。自分の周りは以前からこんな様子だったろうか。
いや、そんなわけはない。
イェレイは我に返り、二人の研究員の議論に混ざった。浄化システムこそ慎重に向き合うべきだという主張で。他の研究員達はそれを遠巻きに見ていた。誰も口を挟まなかった。
***
「あなたはあの人の存在に反対するのですか? あの人は優秀です。実際に、あの人のおかげで停滞していたプロジェクトが一気に進みました。科学にロマンは必要です。ですがそれは、あの人のような超越的存在によって具現化されるのです。一人の人間には限界というものがあります。優秀な人に従うのもまた、非常に合理的な態度でしょう。もちろん、誰が優秀であるかを見極める必要はありますが、あの人の優秀さは疑う余地がない……」
またヨヨギさん演説してるなぁ。モップをかけながら横を見て、レルマは目を見張った。そこにいたのは、よれたニットの、心配になるほどの猫背だった見慣れたヨヨギではない。皺一つないような丈の長いジャケットを着て、背筋を真っ直ぐに伸ばした人物だった。その服は白で統一されている。ただその声質だけが、その人がヨヨギであることを証明していた。
レルマは呆気に取られた。人はこんなに短時間で変わっていくものなのか。
その時だった。レルマは異様な気配を察知して、咄嗟にゴミ箱の影に隠れた。……ただ、ヴァーデルラルドが過ぎ去っていっただけだった。白で統一された皺一つない服に、真っ直ぐに伸びた背筋。レルマは立ち上がる。レルマはなぜ自分が隠れたのか、自分でもわからなかった。
***
「はいっ! 嬉しいですっ! 僕、もっと頑張りますっ!」
廊下で若く瑞々しい声が響いた。レルマが振り返ると、見覚えのない研究員と、イェレイの姿がそこにあった。
邪魔しちゃ悪いかな。そうは思ったものの、ここ数日の異様な空気への不安から、レルマは自然とそちらに近づいていた。
イェレイが気づき、レルマに優しく手を振った。その横で若い研究員が、信じられないというような顔でレルマとイェレイを交互に見る。レルマは構わず駆け寄った。
「イェレイくん! 久しぶり!」
「ちょっと久しぶりだね、レルマくん」
イェレイは優しく笑いかけた。レルマは迷わず、率直に思ったことを口にした。
「あのさ、最近の研究所の空気、なんか……変じゃない……?」
「そうだね。ヴァーデルラルドが来てからかな、僕もそう思うよ」
「僕も変だと思いましたけどねっ!」
横から若い研究員が口を挟む。レルマはそちらに目をやり、さっと観察した。
声は変声後の少年のよう。身長はレルマより高いが、イェレイよりは低い。服装は線の細さを強調するような柔らかいブラウス。ゆるやかなウェーブのかかったショートヘアと、丸くて大きな目、長い睫毛に小さな口元が印象的で……
そして何より、その眉間には深い皺が寄り、目元はレルマに対する敵意に塗れていた。その研究員はイェレイに向かって続ける。
「皆、安易に浄化という言葉を使いすぎです! それに、いくら優秀であろうと、ヴァーデルラルドとて一人の研究者です! 無闇に持ち上げたり、恐れたりするのは、研究態度として不健全だと思います!」
「そうだね、フーレ。その通りだと思うよ」
「というか、このちんちくりんは誰ですか!?」
突然、レルマに矛先が向けられた。えっ、とレルマから小さく声が漏れる。レルマが小さく固まっていると、一拍遅れて、イェレイの冷静な声が降ってきた。
「フーレ、人にちんちくりんなんて言葉、使っちゃいけないよ」
「す、すみません……」
「僕じゃなくて、この人に謝ってね。この人はレルマくん。僕の友人なんだ」
「友人!? イェレイさんの!?」
「そう。長い付き合いのね。だからフーレにも、レルマくんには敬意を持って接してほしいな」
「なっ……ゆ、友人……」
フーレと呼ばれた研究員は、大きく目を見開き、口を開けたり閉じたりしている。レルマは特に驚かなかった。イェレイの後輩と思わしき人からそのような反応をされるのは、初めてではなかった。
「じゃあレルマくん、そろそろ行くね。今日も会えて嬉しかったよ」
そう言うと、イェレイは背を向けて歩き出した。真っ白なシャツが蛍光灯の光を反射し、規則正しい靴音が遠ざかっていく。
フーレはそれを見ると、レルマに顔を近づけて、小声で言った。
「お前、イェレイさんと仲がいいからって、調子に乗るなよ……!」
そうしてフーレは早足で去って行った。レルマはそれを追うことなく、ただ黙って見送った。
「イェレイくんって、やっぱ人気なんだなあ……」
レルマはポツリと呟く。
今度一緒に、お茶に行けないかな? 本当に言いたかったことってそれだったなと、レルマは一人になってからぼんやり思った。
***
「研究所は変だし、変な人に変な絡まれ方もしたし、僕、結構散々な目にあってる……?」
ぶつくさと一人で呟きながら、レルマは各所に置かれたゴミ袋の取り替え作業を行っていた。
その時だった。レルマはどこからか異臭を嗅ぎ取った。異臭の元は、廊下に置いてある、何に使うのかもわからない箱型の機械だった。機械の中心部からは、白と黒が混ざったような煙が出ている。
「絶対まずいよね……」
レルマは端末から上司に、機械の写真とともにその旨を送った。それから端末をポケットにしまい、考える。報告したから、もう行っていいかな? でも放っておくのもなんだしなあ。レルマが迷っている間に、上司からの連絡が返ってきた。レルマはその内容を見る。
「この機械のことは、トールードに報告してください。この時間はA-三〇六にいると思います。緑色のコートをいつも着ているから、すぐにわかると思います」
仕事増えたぁー! レルマはしばしの間、宙を見て、それから、小走りでA棟の三〇六号室に向かった。
三〇六号室には、いくつものデスクが並んでいた。いずれのデスクにも数枚のディスプレイとキーボードが置かれており、この部屋で何が行われているのか、専門外のレルマにもなんとなく想像がつきそうだった。人はまばらで、デスクで作業をしている職員が数人いる程度。人の声はなく、コンピュータが動く唸るような音と、職員がキーを叩く無機質な音だけが響いていた。
レルマは恐る恐る部屋の中に入っていく。部屋中をキョロキョロと見回し、緑のコートの人物を探す。緑……緑……いた。その人物は特に苦労することなく見つけることができた。緑のコート、正確には緑のモッズコートを着た人物は、部屋の最奥にいた。
その人物は、レルマが「緑のコート」という単語から想像していた姿と、やや違う風貌をしていた。前髪のある艶やかな黒い長髪を持ち、ディスプレイを眺めるその目は、全てを見透かすような、透き通った灰色の目をしている。それはまるで、いつかテレビで見た遠い国の巫女のようであり……。
しかしその物腰は、驚くほど柔らかくなかった。
「あ? 誰だテメェ? 何見てんだ、ああ?」
よく通る、透き通っているが、妙にどすのきいた声が響いた。整った口と眉は激しく歪められ、レルマを睨みつけるように目は細められていた。
突然の乱暴な態度に、レルマは面食らった。やっぱり僕、結構散々な目にあってるよね!?
レルマの中に、微かな怒りが湧いてきた。どうして初対面の僕が、こんなことを言われなくちゃいけないんだ。レルマは自分にできる中で最大限、毅然とした態度で、手元の端末の画像を見せた。
「あのですね、この機械から煙が出ていたので、上司の人に報告したら、あなたに言ってくださいと言われてきました。あなたがトールードさん、ですよね?」
レルマの手は微かに震えていた。しばしの沈黙が走る。あれ、人違いだったらどうしよう。レルマに不安が押し寄せてきた、その時だった。
「ああーーーーッ! 俺の三号!」
「さんごう?」
目の前の人物は叫び出した。
「おまえっ、これっ、ケムリっ……マジかよォーーーーーッ!」
「え?」
「わりぃ、お前、この機械どこで見た? 礼はやるから、案内してくれ」
そう言うとその人物は椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、レルマの手を引いて部屋の外に向かっていった。
「えっ、えっ?」
「俺これどこに置いてあんのか覚えてねえんだ。お前さっきまでそこにいたんだろ? ってわけだから、連れてってくれ。な?」
「いいですけど……」
この乱暴な感じの人と一緒にいるの、割とつらいなあ。ていうかこの部屋とあの機械、結構距離あるんだけどなあ。口には出さず、レルマはその人物、トールードを先導した。
レルマは歩きながら、トールードをさっと見る。この人、座っていた時の印象よりも、背が小さい。レルマはその背丈に対して、勝手に親近感を持った。
「あの機械って、なんなんですか?」
手持ち無沙汰になったレルマは、親近感に任せてトールードに尋ねた。
「あれはだな、俺の作った機械だ。何を計測してるかっつうと……」
そこからトールードは長い説明を始めたが、レルマには何一つとして理解できなかった。レルマは自分の頭から煙が吹き出すのを感じる。
「……っつうわけで、ま、無断で置いてるんだけどな! 俺の有能さに免じて、黙認されてるって感じだな!」
そう言うとトールードはガハハと笑った。この人、ただ乱暴なだけじゃなくて、倫理的にもあんまり良くない人だ! レルマはさっと警戒モードに入った。
しかし、いや、だからこそ、レルマは気になった。
「あなたは、ヴァーデルラルドのことをどう思いますか?」
「あ? なんだ急に? 信者かお前?」
「違いますけど……」
なんなんだこの人。レルマは帰りたくなった。しかし機械の場所までは、まだ距離があった。仕方なくレルマは続ける。
「僕、ヴァーデルラルドみたいな有名人が来るのって、良いことだと思ってたんです。でも、実際に来てみたら、研究所の空気がおかしくなっていっている気がして……イェレイくんとかも迷ってたみたいだし、本当にこれでいいのか、わからなくて」
「あー、そういうことな。俺はそもそも興味ないな」
「興味ない?」
これは新しい意見だ。レルマの関心は再び高まってきた。トールードは続ける。
「みんな神だの浄化だの言ってるけどよ、俺は極めて! すっげー! どうでもいい! クッソくだらねえと思ってる! 俺たちは研究者だぜ? 自分の好奇心に従って動くことこそが正義だ! 逆に言えば、それ以外はどうでもいい! だからだな、神だろうとなんだろうと、俺の邪魔をするなら排除するだけだ!」
「はぁ……」
「ただまあ、今は一旦様子見してやるっつう感じだな」
「でもみんな、良いか悪いかで話し合ってる感じがしますけど……」
「んなもん犬にでも食わせとけ! そんなことより飯の話した方が百倍有意義だ!」
なんだこの人……。レルマは返す言葉を見つけられず、ただ曖昧に頷いた。
そうしているうちに、件の機械の元に辿り着いた。
「あちゃー、派手にやってんなぁ……」
トールードは艶やかな髪を乱雑にかきむしった。
「ああっ、せっかくの髪が……」
「髪ぃ? 俺、素で直毛だから心配いらないぜ。ケアとかなんにもしてねえしな!」
トールードはなぜか自慢げに言った。
「とにかく、案内感謝するぜ。礼は明後日までに用意する。明後日の午後以降、またA-三〇六まで来てくれ」
そう言うとトールードは、しゃがんで作業を始めた。レルマはその背中に「はーい」とだけ控えめに言って、仕事に戻っていった。機械の異臭が、しばらくの間こびりついて離れなかった。
***
「ジルケさんは、ヴァーデルラルドがなぜこの研究所を選んだか、ご存じですか?」
イェレイはこの日初めて、以前から気になっていた素朴な疑問をジルケにぶつけた。ジルケは腕を組みながら、イェレイの顔を見ている。イェレイは続けた。
「確かに僕たちの研究所も規模としては大きいです。ですが研究所など他にいくらでもあります。それなのに、どうして僕たちのところなのか……」
「私も知らない。あれは真意を語ろうとしないからな」
ジルケは表情を変えず言った。イェレイはわずかに目を伏せ「そうですか」と小さく言う。しかしジルケは変わらない態度で続けた。
「だがいくらかの推測はできる」
イェレイは視線を上げる。
「推測、といいますと?」
「ヴァーデルラルドが軍事関係者から嫌われているのは知っているか?」
「軍事?」
予想もしていなかった単語に、イェレイは小さく目を見開く。
「それは……初耳です」
「そうか、なら面白い話をしてやろう。ヴァーデルラルドの花はな、地表だけじゃなく、兵器からも生えてきたんだ」
「はい?」
まるで意味がわからず、調子はずれな声が出る。しかしジルケは淡々と続けた。
「馬鹿みたいな話だろう? 私も最初は、ジョークか何かかと思ったよ。だがな、軍用機の開発をしていた友人に聞いたらどうやら本当らしいんだ。ミサイルからも、戦闘機からも、穴という穴から花が生えてきて、軒並み使い物にならなくなったらしい。写真もあるぞ。見てみるか?」
イェレイが「ぜひ」と頷くと、ジルケは個人用の端末を操作し、画面全体に拡大した写真をイェレイに向けた。戦闘機のエンジン部分からは、幾多もの濃緑の蔓が伸び、しなだれるように床に広がっては、点々と白い花を咲かせている。星のような花弁は緩やかにそりかえり、それはいつか論文で見た、百合という花に似た形状をしていた。
「これが馬鹿みたいに真面目で堅物の友人から送られてきたんだ。話によればこの戦闘機も、花が咲いた時点で飛ばすことすらできなくなったらしいな。どうだ、笑えるだろう?」
イェレイはもう一度画像を見る。それは笑えるというよりむしろ、ある種の神秘性、いや、それ以上に畏怖の念を感じさせるものだった。破壊の象徴である戦闘機を、生命の象徴である植物が、いとも簡単に、穏やかに侵食している。それはまるで……。
しかしイェレイはその感情を脇に置き、ジルケの顔を見た。
「ですがどうしてそんなことが? 兵器だけにこの現象が起こっている以上、地表の浄化の副作用とも考えにくいのでは……」
「恐らくこれはヴァーデルラルドが意図的にやったことだ。でなければ君の指摘通り、兵器にだけこの現象が起こるのはおかしいからな。あの人間は自らのテクノロジーを応用して故意に兵器を無力化したというわけだ。関係者の中でもこの見解は概ね一致している」
「……そうなんですね。ですがなぜヴァーデルラルドはこんなことを?」
「素直に考えれば平和のためだろう。あるいはもっと合理に寄ったもので、『環境汚染の大きな原因になるから』あたりか。ま、戦争は汚染を加速させるだけで、環境にとっては何もいいことがないからな。地表を花で満たした行動を考えれば、兵器を無力化させたこととも一貫性がある」
「まあ、確かに動機は納得できます。ですが僕が見た資料には、あのテクノロジーでそんなことが可能だとは書いてありませんでした。僕には信じられないのですが……」
「その資料というのは、ヴァーデルラルドが残した記録のことか? あれにすべてが書いてあるとは思わない方がいい。君も勘づいているだろうが、あれは正式な科学のプロセスを踏んでいないからな」
「それは……はい」
イェレイは穴だらけの資料を思い出す。一般的な実験ノートからも、論文からも大きく外れた形式の資料。僕たちの共通言語から逸脱した資料。
「ヴァーデルラルドはあのテクノロジーを、表向きは地表だけに使用した。そして秘密裏に兵器にも使用した。だから私達のような兵器開発に携わらない一般人は、それが地表にしか使えないものだと思い込んだ」
「はぁ……」
「やろうと思えば人体であっても苗床にできるのだろう。まあ、コンクリートまみれのこの世界を花で満たした時点で、怪しいとは思っていたがな、まさか兵器のような物体にまで使えるとは驚きだよ」
「そうですね……」
コンクリートの話は確か資料でも軽く触れられていたはずだ。しかしそこから兵器にまで使用可能というのは……あまりに飛躍が過ぎないか? しかし実際に起こっている以上、その事実自体は受け入れるしかない。
「前置きが長くなった。そういうわけだから、私たちの施設のような”クリーンな”研究所を選ぶとなると、相当数は絞られる。その中でこの施設を選んだとなれば、まあ妥当な結果なんじゃあないか? あくまで私が推測した理由の一つだがな」
「そうか……いえ、そんな事情があったんですね……」
「ん? なんだその顔は?」
「いえ……僕には知らないことだらけだなと思っただけです……」
***
翌日。レルマがある部屋の前を通り過ぎると、微かに甘く食欲をそそる香りがした。思わず立ち止まる。なんだろう、ケーキかな? ここって誰でも入れる休憩室だよね? 入ってみようかな?
そうして立ち止まっていると、扉が開き、中から人が現れた。その人物の顔を見て、レルマの表情がパッと明るくなる。
「あなたは!」
「あなたは……!」
真っ黒な濃いアイメイクに、あらゆるものに殺意を振り撒くような反抗的な目。大量の整髪料で固めたオールバックに、個性的な掠れ声。肩幅に合わないあのジャケットこそ着ていなかったが、見間違いようがない。前にF棟に案内して、政治的主張の話をしてくれて、それから飴をくれた人だ!
相手の方もレルマを覚えていたようで、「あの時は世話になった」と、どこかぎこちなく応じた。それから、その人物は何か考えるように視線を上にやり、しばらくしてレルマに聞いた。
「今、時間あるか……?」
「用件にもよりますけど……」
「チーズケーキを食べて欲しいんだ……」
レルマが部屋に入るとまず、机の中央に置かれた、穴だらけの巨大なホールケーキが目についた。そして次に、それを囲む二人の大人……長身で筋肉質な人物と、例の巫女のような緑の乱暴者、トールードが目に入った。トールードはレルマを見るなり、意外そうに目をパチリとさせた。
「お前〜! 昨日ぶりだな! っつーかここで会えたなら、わざわざ三〇六で渡す手間が省けたな。ほら、これ、礼だ」
そういうとトールードは、棚からチョコレートの包みを出して、レルマに投げた。微妙に溶けていた。
顔がしわくちゃになったレルマをよそに、トールードは飴の人物の方を向く。
「っていうかゼゼ、こいつの知り合いだったのか?」
「ああ……前に世話になった相手だ……今回も助っ人に来てもらった……」
「若者っすか。頼もしいっすね」
筋肉質な人物もレルマを見る。どういう状況だろう。レルマの困惑した表情を察してか、飴をくれた人物が口を開いた。
「そういえば自己紹介がまだだったな……俺はゼゼ。最近ここの研究所に移ってきた新入りだ」
親切な態度に、レルマの気持ちも自然と上がる。
「ゼゼさんっていう名前だったんですね! 僕は清掃員のレルマです! あれ? でもあなたはライブやってたって……」
「週末ミュージシャンってやつだな……本業は研究だ」
次にトールードが口を開いた。
「俺はトールードだ。昨日会ったけど、自己紹介はちゃんとしてなかったよな?」
「……レルマです」
「ふーん、レルマか。いい名前じゃねえか。名付け人に感謝すべきだな」
最後に口を開いたのは、長身の筋肉質な人物だった。
「俺はゲラシーっていいます。一応ここで長いこと研究員やってます。それで……」
ゲラシーはケーキを指さした。
「汚くて非常に申し訳ないんですけど、食べて欲しいっていうのは、このケーキなんすよね」
ケーキはホールのまま、好き放題フォークを刺した跡が残っていた。
「だから俺はあれほど、ケーキは切り分けてから食べるべきだと言った……」
「フツーに俺たち、自分の年齢なめてたっすね」
「おじさんなのはオメーだけだ! 一緒にすんな! ってかオメーの彼氏が作るケーキ、いつもデカすぎんだよ!」
「しょーがないでしょう。俺の彼氏、俺らのこと中学生か何かだと思ってんすから」
レルマはそのやり取りを、どこか遠くに見ながら聞いていた。横から、ゼゼが気を遣ったように話しかける。
「すまない。この空間はあなたにはアウェーだな……」
「あっ、いえ、全然気にしないで!」
「俺が誠心誠意フォローする……」
ゼゼが新しいフォークを出し、椅子を用意する。ゲラシーが心配そうに尋ねた。
「食べかけですけど、平気ですかね? 嫌だったら、今からでも断ってくれていいですからね?」
「いえ、全然大丈夫です! むしろ食べたいです!」
「ならいいですけど……」
確かに見た目は散々だったが、その香りは、目の前のケーキが上質であることを示しているようだった。
「いただきます!」
手を合わせて、レルマはケーキを食べ始めた。その様子に、三人の大人たちは目を丸くする。
「若者、つえー……」
「さすがっすね」
それから数分もしないうちに、皿は空になった。
「ごちそうさまでした!」
レルマが再び手を合わせる。三人の大人たちは目を見合わせた。
「やばいっすね。俺、つい見入っちゃった」
「なぁ、俺たちってもう若者じゃねえの? 凹むんだけど」
「世間的には怪しいが研究者の中では若い方だ……ゲラシー以外は……」
「あっ、また俺だけ仲間はずれっすか」
三人を横目に、レルマはウォーターサーバーに水を取りに行く。いつの間にか、三人の話はヴァーデルラルドの話題へと移っていた。
「俺この前、初めて直接ヴァーデルラルドと話したんすけど、圧、超やばいっすね」
「筋肉ムキムキのお前でもそう思うのかよ」
「いやぁ、あれは筋肉で超えられるやつじゃないっすね」
レルマが席に戻ると、ゼゼが話しかけてきた。
「噂で聞いたんだが、あなたはヴァーデルラルドの目の前に行ったことがあると……?」
「あ、そうなんです。バケツが転がってっちゃって、それで、大変だーってなって、ヴァーデルラルドのところ行っちゃって、なんかもうすごくて! でも、これだけムキムキのゲラシーさんでも圧を感じるって聞いて、なんか安心しました」
「いや、あれは圧感じない方が無理でしょう。ジルケとかならわからないですけど……」
「でもジルケ、ヴァーデルラルドに身長ギリ負けてね?」
トールードが口を挟むと、ゼゼはため息混じりにトールードを見た。
「だからお前は、体の大きさで強さを測るくせをやめろ……」
「それで言ったらトールード、割と最弱寄りっすよね?」
ゲラシーも口を挟む。言葉が飛び交う中、レルマはタイミングをはかって、一番気になっていることを聞くことにした。
「あの、ゲラシーさんは、ヴァーデルラルドのことをどう思いますか?」
「お前それホットトピックなん?」
横からトールードが茶々を入れるが、それを無視してゲラシーは答えた。
「俺はあの人のやってること、科学じゃないと思います」
「そうなんですか?」
「資料見ましたけど、かなりブラックボックスありますし、噂によれば、あの技術は高度すぎてヴァーデルラルド本人しか使えないらしいじゃないですか。再現性がないんじゃあ、それは科学と呼んじゃいけないと思います」
「はぁ……」
「それはそれとして、役に立つんならそれでいいと思います」
「え?」
レルマは目を丸くする。ゼゼもゲラシーに顔を向けた。ゲラシーは続ける。
「俺たちの役に立ちたいって言ってるんでしょう? で、実際に役に立ってるらしいんでしょう? ヴァーデルラルドと共同で研究してる研究員の中で、もう評判になってますよ、『奇跡が起きた』って。だったら拒む理由はないと思いますよ。俺たちがそれを科学として成り立たせながら、共存してくのが一番っす」
「へぇ、お前そんなこと思ってたのかよ」
トールードは頭で手を組み、背もたれに寄りかかる。しかしゼゼは思い切り顔をしかめた。
「お前はうまく共存できる稀有な人間なんだろうが、多くの人間は取り込まれるものだぞ……? だからこそ俺は警戒しているのだが……?」
「別にそんなに難しいことじゃないっすよ。役に立つか立たないか。そういうシンプルな基準を持って見ればいいだけです」
そう言うと、ゲラシーは手元のハーブティーに口をつけた。よくわからない品種のよくわからない匂いが、静かに香る。レルマが退室しようかと、周りを見回し始めた時だった。
「あっ、そうだ!」
ゲラシーが言う。
「俺たちこの時間はたいていここにいるんで、よかったらレルマさんも一緒にどうぞ!」
「えっ」
「俺たちはいつもスナックを持ち寄って、ここで食べているんだ……」
ゼゼも続けた。
「でもこいつらが持ってくるスナック、センスねえんだよな!」
トールードが口を挟む。
「その割にはいつも自分が一番食べてるじゃないすか」
ゲラシーの言葉にトールードは小声で「うるせーな」と言う。
「まあとにかく……この時間にここにくれば、あなたはお菓子が食べ放題というわけだ……」
「そっすそっす。やっぱ若者には、いっぱい食べてほしいっすからね」
「来るか来ないかはあなたの自由だが……俺たちはいつでもあなたを歓迎しているということは、覚えておいてくれ……」
「若い人の話って、いっぱい聞きたいっすからね」
一瞬の沈黙。ワンテンポ遅れて、レルマは顔を輝かせた。
「え、やった!」
***
「案の定、だな」
ジルケは腕を組み、言う。
「そうですね」
向かいに座るイェレイも、相槌を打った。
「研究所はあの人間に呑まれつつある」
「元から素質がある人はいました。ですが、最初は懐疑的だった研究員ですら、あの人が実際に異様な速さでプロジェクトを進めるのを見てから、様子が変わり始めているそうです。表向きは科学者としての体裁を保つために、あの人を否定しているようですが……」
「私も聞いているぞ。奇跡だなんだと、話題になっているようじゃないか。表向きどう取り繕おうと、皆があの人間の言いなりになるまで、秒読みといったところか」
「言いなりだなんて……もう少し研究員たちを信じてもいい気もしますが」
「君は本当に……まあ、そういうところが君の好かれる理由なのかもしれないな」
ジルケの言葉に、イェレイは苦笑する。
「イェレイ君。君はヴァーデルラルドをどう思う?」
「直接関わったわけではないので、正確なところは分かりませんが……僕の知る限り、今のところ怪しい動きはありません。加害的な振る舞いも一切ない。それどころか、過剰なくらいに他人に敬意をもって接しているとも聞きます。行動だけを見ても、本当にただ、ただただ、この研究所と人類の役に立っているだけです。おかしな言い方ですが、ヴァーデルラルドは純粋な善意の塊といった印象です」
「純粋な善意の塊な……」
「だからこそ危ういという見方もできますが……正直、僕はまだ立場を決め切れていません。わかっていないことがあまりにも多すぎるので……。確かに善人である気配はします。それでも本当に善人なのか。それでいて、仮に善人だったとして、その力の大きさ故にあの人を信頼していいのか……」
「君にとっては善意が重要なのだな」
「いえ別にそういうわけでは……いや、そうなのかな……」
「君のそういうところは嫌いじゃない」
ジルケは小さく笑った。
「このまま問題がなければ、ヴァーデルラルドはもうじき正式にこの研究所に所属することになる。研究所はさらに変わっていくだろう。だが、私は変わらないからな。私は今後も、あの人間を神だとは言わないし、奇跡なんて言葉も浄化なんて言葉も使わない」
「そういうことを言う人が一番危ないとも言いますが……」
「ならば、私がそうなったら、君が指摘してくれ」
ジルケは不敵に笑った。そんなことできるかなぁ。イェレイは曖昧に返事をしながら、内心で首を傾げた。
***
「おっ、イェレイさん、お疲れっす」
「ああ、ゲラシーさん……お疲れ様です」
イェレイが会議室を出ると、自販機横で缶コーヒーを飲むゲラシーがいた。ゲラシーはひらひらと片手を振っている。サスペンダーによって強調された胸筋に、相変わらずすごい体の厚みだなあとぼんやり思う。
ゲラシーは、いつもの飄々としたトーンで言った。
「見ましたよ、さっきおんなじ部屋からジルケ出てきたでしょ。最近よくあの人とサシで話してるんですって?」
「まあ……そうですね。ありがたいことに、信用してもらえているみたいで」
「っていうかイェレイさん、もう敬語使うのやめてくださいよ。もうアンタは、俺より偉くなったんですから」
「そういうあなたこそ、ベテランなのに誰にでも敬語、使ってるじゃないですか。だいぶ崩れてはいますが」
「これは自己防衛っすよ」
そう言って、ゲラシーは一口コーヒーを飲む。それからゲラシーは奢りましょうかと申し出たが、イェレイは断った。そういうことをさらりと言えるのはこの人らしいなと、イェレイはゲラシーの顔を見る。ゲラシーは視線に気づいてか気づかないでか、口を開いた。
「イェレイさん達は、なんの話してたんですか? っていうかこれ、聞いてもいいやつですかね」
「聞いても大丈夫なやつですよ。ただヴァーデルラルドの話をしていただけですから」
「ああ、ヴァーデルラルドねぇ……」
ゲラシーは宙を見て、続ける。
「ヴァーデルラルド本人については、今のところいい噂しか聞かないっすよね。つっても俺は、無条件に褒めるつもりもないですけど。でも直にあの人の活動とか見たら、案外ころっといっちゃうのかもしれませんね」
「どうでしょうね……あなたの考えていることは、いつも読めるようで読めないですから」
「別に俺は単純っすよ。役に立つか立たないか、そういう基準でものを見てるだけっす……あれ、この話、前にもどっかでしたな……まあいいや。とりあえず俺が思ってるのは、あの人のやることが実際に俺らの役に立って、動けばいいし、使えればいい。それだけです」
「僕もあなたみたいに割り切れたらいいんですけどね……」
イェレイも宙を見る。その時だった。
「ええ、ええ、やはり、そう思う方もいますよねぇ!」
やたらと芝居がかった声とともに、一人の人物がやってきた。その人物はキツネのような切長の目をしており、髪は顎のあたりで綺麗に切り揃えられた、ストレートのボブカットだった。耳にはいくつもの銀のアクセサリーがついている。
「おっ、ニエラ、久しぶりっす」
ゲラシーが片手を上げて言った。ニエラと呼ばれたこの人物は、ゲラシーの知り合いであるらしい。イェレイは聞いた。
「そう思う方もいるって、どういうことですか?」
するとニエラはにこやかに目を細めて言った。
「あなたはイェレイさんですよね? お噂はかねがね。そう思う方というのは、ゲラシーさんの意見、つまり、利用できるものはとことん利用し尽くすべきということです!」
「いや俺、そこまでは言ってないすけど……」
ゲラシーは小声で言葉を挟むが、ニエラは続ける。
「あの人間、ヴァーデルラルドは明確に我々の利用対象となります。それならば徹底的に使い倒すのが合理! いや、それ以上に、我々ならヴァーデルラルドを飼い慣らすことさえできるでしょう! 我々は世界でもトップレベルの科学者集団なのですよ? そんな我々が束になってかかれば、いくら神と呼ばれた人間であろうと、懐柔することは可能……そう思いませんか?」
イェレイは一瞬、返答に迷った。その間にゲラシーが答える。
「いや、俺はもっと穏やかに共存したいですけど……まあ、概ね近い考えではありますよね。みんな、警戒するか、恐れるか、持ち上げるかで、ちょっと俺らと見てる軸が違うんですよね。もっと、本質的に何が重要なのかっていうのを見極める必要があると思うんですけど……」
「あの、素朴な疑問なんですが」
イェレイが口を挟むと、二人はイェレイに顔を向けた。イェレイは続けた。
「お二人の意見は、無駄が削ぎ落とされていて美しいと思います。ヴァーデルラルドの影響力に惑わされず、ただ研究の役に立つかだけを見ているのは、研究者としての理想の態度の一つかもしれません。ですが今の段階で、そこまで単純化していいものでしょうか。僕たちが見ているものは、そんなに簡単なものでしょうか」
「はぁー……イェレイさん」
イェレイの言葉に、ニエラは大袈裟にため息をつきながら首を横に振る。それから眉を下げ、ぐっと顔を近づけて言った。
「あなたは無駄に問題を複雑にするタイプですね?」
「僕が問題を複雑にしているのではなくて、問題が複雑なんです」
「具体的に、どう?」
「現時点で思いつくのは、多くの研究員が影響……特に悪い方向に影響されていることそのものでしょうか。チームで動く以上これは無視できません。あとは……今は不確実な要素が多いので……これから慎重に評価していく必要があると思います。僕には潜在的な問題がないとは思えません」
「一番に思いつくのが、その程度の軽い問題ですか」
軽い問題? イェレイは眉をひそめるが、ニエラは顔を引き、つまらなそうに目を細めて続ける。
「私はもっと生産的なことを考えた方がいいと思いますがね。ま、価値観は人それぞれですし、いいんじゃあないですか? あなたがそこで足踏みしている間に、私たちは先に進んでいきますよ」
「ですが……」
「まあ、ゲラシーさんの意見も聞けましたしね。私の考えが孤独でないことを知れて、良かったですよ。収穫、大収穫です」
そう言うとニエラはくるりと背を向け、コツコツと靴音を響かせながら去っていった。ゲラシーは「相変わらずマイペースな奴だなぁ」と呟く。
「ゲラシーさん……」
「ん? なんすか」
「僕たちはそんな浅いレイヤーで議論していていいのでしょうか」
イェレイの口から、疑問とも主張とも、確認ともつかない声が出た。自分でも、思ったより抑揚のない声が出たと思った。イェレイはニエラの背中を見ながら返答を待つ。
ゲラシーの答えはシンプルだった。
「でもあんま深いとこまで潜ってったら、なんにもできなくなりますよ」
***
ある朝、イェレイがIDカードをかざしてラボの扉を開けると、エントランスの椅子にぼんやりと腰掛ける人影が目についた。
何かおかしい。イェレイが小走りで近づくと、そこには呆けた顔で宙を見るニエラがいた。口は半開きで、目の焦点はどこにも合っていない。先日の、過剰に演技がかり、自信に満ちたニエラはどこにもいなかった。
明らかに異様な状況に、イェレイは思わずニエラの肩を揺らした。
「ニエラさん、どうしたんですか、大丈夫ですか?」
するとニエラは緩慢な動作でイェレイの方に視線を向け、力のない声で「ああ……」と言った。
「何かあったんですか? 気分が悪いですか? 医務室まで一緒に行きましょうか?」
「気分は悪くないですよ……むしろ最高です……」
「え?」
「私はただ……ヴァーデルラルド様はお美しく、素晴らしい方だと思っているだけです……」
会話になっていない。イェレイは無理やりにでもニエラを医務室に連れて行こうと思った、その時だった。
「そいつ昨日、ヴァーデルラルドに”お話しましょう”されてたぜ」
背後から、平坦だが透き通った声が聞こえてきた。
振り返ると、緑色のモッズコートに、長い黒髪を揺らすトールードが無表情で立っていた。片手には、コーヒーの入ったロゴ入りの紙カップを持っている。
「お話しましょうされてたって、どういうこと?」
「知らねえの? あいつ最近、『お話しましょう』つって、研究員を自分の部屋に引き込んでんだぜ。で、帰ってきた研究員は、なんかどことなく様子がおかしくなってるっつう話だ」
イェレイは再びニエラを見る。「なんかどことなく」どころの変化ではない。
本当は「お話する」以上のことがされたのではないか。いや、しかし、ヴァーデルラルドならば「お話」しただけで、人をこうも変化させることは可能なのではないか。
「トールード、ヴァーデルラルドの、その、『お話しましょう』について、もっと詳しいことは知らない?」
「知らねえな。自分でお話されてくればいいんじゃねえの?」
「君っ、ふざけ……まあいいや。とりあえず僕は、ニエラを医務室に連れていく。何か異常が起こってるのは間違いないからね」
「そうかよ。ま、がんばれなー」
そう言うとトールードは、手を振りながら去っていった。イェレイはニエラの脇に自分の肩を通すと、なかば無理やりに、ニエラを医務室まで連れて行った。
医務室に行っても、変化の原因はわからなかった。