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科学の場における神の取り扱い[1]

 それが何者であるかは重要ではない。それが存在することが問題だ。それはつまり、我々の営みが根本から崩れるということだから。

 

***

 

 舗装された坂道を、自転車で駆け抜ける。その横には、眩しいほどに白い、一面の花畑。ただ無言で広がっているその光景に、レルマは目を細めた。

「ここも、ちょっと前までは、まっくろな毒沼だったのにねぇ」

 レルマはどこか他人事のように呟いた。この花畑はもう何年も前からそこにあった。レルマは毎日のようにそれを見てきた。それでも、レルマはその光景に未だ慣れることがなかった。

 駐輪場で鍵をかけると、最低限の荷物だけが入った、小さな茶色いリュックを背負って歩き出す。エントランスに抜ける道もまた、夥しい数の柔らかい花びらに覆われていた。風が吹くたびに、濃密な甘さが喉の奥まで入り込んでくる。地面を覆い尽くす白が朝日を反射する。

 白い花、白い建物。何もかもが同じ色で塗られた中に、レルマの青いツナギと、赤く短い癖っ毛だけが、異物のように浮かび上がっていた。小柄で棒のように細い体にやや余る青い服は、清掃員としての、レルマなりの「仕事着」だった。

 ふと見上げると、建物の壁から生える、数輪の白い花が目に入った。

「また切らなきゃ……」

 レルマはため息混じりに呟く。

「でも昔よりはずっとマシかぁ」

 

 レルマは、ニュースで初めて「あの人」を見た時のことを思い出した。

 

 あの人ーー今では多くの人に「神様」と呼ばれる人物は、一瞬で世界を花で満たした。毒も病も、すべて消えた。

 毎日のように行われていた、死者数の報道はもはや無くなった。入院待ちで溢れていた病院も、今や空きベッドだらけになった。商品棚からは、ガスマスクが消え去った。空気清浄機の稼働音も、今ではもう、どこへ行っても聞くことはない。

 人々があの人を崇めるようになるまで、そう時間はかからなかった。

 

 ”浄化”が起こり始めた時のことは、レルマもよく覚えていた。赤黒かった空、腐ったような臭いすら漂っていた空気は、ボロボロのコンクリートから伸び出した一輪の白い花を皮切りに、みるみるうちに塗り替えられていった。それは祝福と言われた。それでも、説明のつかないそれは、どこか気味の悪さもあった。

「すごいけど、すごすぎて逆によくわかんないなあ」

 まいっか。レルマは社員証をかざし、軽い足取りでエントランスに歩いていった。

 

***

 

かつて、地上は致命的なレベルで汚染されていた。

大気は有害物質を多く含み、川や湖は重金属で満たされ、致死性の病が広がっていた。人類は火星への移住計画を現実的な選択肢として検討していた。

 

そうした状況を、ある一人の科学者「ヴァーデルラルド」が、独自技術により一変させた。

地表は無数の花で覆われ、有毒ガスの痕跡は消え、数週間のうちに環境は回復し始めた。

 

現在、ヴァーデルラルドは「神」として扱われている。少なくとも、多くの人々にとっては。

 

さて、そのヴァーデルラルドが、我々の研究施設Aに所属したいと言ってきた。

動機は「科学者を支援し、ともに次のステージへ歩みたい」とのこと。

君は、この申し出をどう考える?

 

A職員・ジルケ

 

 イェレイはそのメールを三度読み返した。

「……なんで僕に?」

 こういった”相談”は、もっと上層で完結するはずだ。というより、この人、メールでも敬語を使わないのか?

 イェレイは、猫のように吊り上がった、大きな青い目を何度も瞬かせた。どこか清涼さを帯びた目に、ディスプレイの文字が反射する。

 イェレイは顎に手をやり、眉間に皺を寄せて画面を凝視する。しかしやがて観念したように目を閉じ、頭に手を伸ばした。柔らかくウェーブのかかったベージュのベリーショートが、指の間をさらりとすべり、微かな衣擦れの音がする。

 無機質な蛍光灯に照らされたデスクの上には、部下から受け取ったばかりの事務書類と、付箋やメモ帳、そして神……否、ヴァーデルラルドに関する全ログを印刷した分厚いファイルが、神経質なほど丁寧に並べられていた。

 イェレイはファイルに目をやる。穴だらけの資料。それでも無理やり内容を補完し、何度も、何度も何度も目を通し、理屈を重ね、思考実験を重ね、イェレイが辿り着いた結論は「僕たちは決して神に到達できない」ということ、それだけだった。

 イェレイは苦笑する。別に僕だって、「神」なんて言葉を無批判に受け入れるほど、素朴じゃあないんだけどな。

 イェレイはメールの返信ウィンドウを開く。まあ、あの人は嫌がるだろうけど。内心苦い顔をしながら、イェレイは静かにキーを叩いた。ヴァーデルラルドと私達の目的は一致しています、受け入れを前提に段階的な接触を提案します……

 

***

 

「ふんふん、ふ〜ん」

 レルマは鼻歌を歌いながら、床にモップを滑らせる。

「ふん、ふ〜ん」

 レルマが所属する施設Aは、国内でも有数の巨大総合研究所だった。ゆえに、レルマが掃除すべき範囲はとてつもなく広い。それでも、適度に体を動かせ、誰にも急かされないこの仕事を、レルマは気に入っていた。

 レルマが意味もなく上機嫌でモップを滑らせる、そんな時だった。

「すまない……」

「わっ!」

 レルマの背後から突然声がかかった。地獄のような掠れ声だった。その人物の足音があまりに静かだったからか、あるいはレルマの意識が単に向いていなかっただけか、レルマはその場で小さく飛び上がった。

「いや……驚かせるつもりはなかったんだが……」

「ああいえ! 勝手に驚いただけですから!」

 そう言いながら、レルマはその人物をちらりと観察した。背丈は小柄なレルマと同じくらいか、それより少し高いくらい。声は男性にしては高く、女性にしては低い。髪は大量の整髪料で固められた鋭いオールバックで、何より特徴的だったのは、真っ黒なアイメイクと、明らかに肩幅の合っていない大きな革のジャケット。目つきは鋭く、まるでこの世の全てに反抗しているかのようだった。

 しかしその物腰は、驚くほど柔らかかった。

「仕事中すまないが、F棟への行き方を聞きたい……この職場に来て、日が浅くてな……」

「ああ、F棟かあ! 僕、案内しますよ!」

「いやしかし……仕事中じゃあないのか……?」

「ちょうど僕も、そっちに行くつもりだったんです!」

 その言葉は半分嘘だった。F棟に清掃に行くのは本当だったが、それはいつものルーチンから外れる動きであった。ルーチンを大切にするレルマにとっては珍しいことであったが、それ以上に、レルマはこの人物が気になった。レルマはとびきりの笑顔を向けて、その人物に言った。

「じゃあ行きましょう! ついてきてください!」

「あ、ああ……」

 その人物は戸惑ったように頷きながらも、素直にレルマに従った。


 

「この建物、迷いますよねぇ。僕も入ったばっかりの時は、何がなんだか全然サッパリでしたよ!」

「あなたは若く見えるが……ここに来てもう長いのか?」

「はい! 高校卒業してすぐここに来たので!」

「ほう……」

 レルマは片手でモップを担ぎ、つかつかと歩く。その人物もその隣に並んで歩く。

「っていうか、その声大丈夫ですか? もしかして風邪じゃあ……」

「いいや、これは昨日叫びすぎただけだ……ライブハウスでな」

「ライブ行ってきたんですか!」

「ああ……ステージに立つ側としてな……」

「すごい! どんな曲歌うんですか!?」

「政治的主張……だな」

 この言葉でようやく、レルマの中でこの人物の内面と外見が一致した。レルマは率直に疑問を投げかける。

「政治的主張って、どんなのですか?」

「そうだな……あなたは感じたことがあるか? この世界の神……ヴァーデルラルドに対する、無条件な称賛と崇拝の空気への嫌悪感……いや、危機感と言った方がいいかな……を」

「うーん、別に感じたことはないかなぁ。だってヴァーデルラルドは、実際に世界を救ったわけですし」

「それはその通りだ……そしてあなたは素直な人間だ……。だが俺は捻くれているものでな……世界全体が”それ”に染まっていくことが、気持ち悪くて仕方がないわけだ……」

「ううーん、まだあんまりピンとこないなぁ」

 そうしているうちに、目の前には灰色のパネルが無機質に連なるF棟が見えていた。壁に書かれた「F」の字を見ると、その人物は足を止め、レルマの方を向く。

「ありがとう……ささやかだが、これは礼だ……」

 そう言うと、その人物はポケットから小さな飴を取り出した。それは透き通ったレモンのような色をしていた。

「え、いいんですか! ありがとうございます!」

 レルマが飴を受け取ると、その人物は背を向けて、手を振り去って行った。

 レルマは早速、飴を口に放り込んだ。直後、強烈な冷たさが喉を通り抜けていった。

「これ、のど飴ッ……!」

 飴が舌の上で溶けきったあとも、冷たさは喉から脳の奥へ抜けるようだった。気づけばレルマの頭の中は、いつもよりもずっとクリアになっていた。

 

***

 

「もう五分過ぎてるな……」

 イェレイは壁の時計を見て、小さく呟く。イェレイは狭い会議室の中で、件のメールの送り主、ジルケを待っていた。しかしいくら待っても、ジルケは一向に来る気配がなかった。

 意味もなく上を見る。壁も天井も曖昧な灰色で統一されていて、こちらの頭まで鈍くなっていきそうだった。時計の針が、カチ、カチと音を立てる。いつだって、目上の人を待つ時間は永遠に感じられる。イェレイはぼんやり考えた。

 イェレイがもう一度資料に目を落とした、その時だった。壁の向こう、遥か遠くから、カツカツと、鋭く、重く、力強いヒールの硬い音が響いてきた。

 ジルケだ。イェレイは考える間も無くそう思った。ジルケの足音は「何メートル先の部屋の中にいても聞こえる」と、研究者の間で有名だった。

 程なくして、扉が勢いよく開けられる。

「すまないな、前の会議が長引いてしまったもので」

 すべてを圧するような低音の声が響く。

「いえ、大丈夫ですよ。あなたが忙しいことはわかっていますから」

 イェレイは立ち上がって頭を下げた。そして、もう一度上を見る。ジルケの顔は、見上げなければ見えないほど高い位置にあった。イェレイの身長も決して低い方ではなかったが、ジルケを見下ろせる人など、この世界、少なくともこの研究所には誰もいないのではないかと思った。加えてこの人は肩幅も広い。喧嘩なんてしたら、僕なんて一瞬で捻り潰されてしまうだろう。一つに束ねられたボリュームのある髪が、さらにその圧を強めている。職務に関係ないとわかっていても、そう思わずにはいられなかった。

 そもそもこの人が女なのか男なのかすら、未だにイェレイにはわからない。しかし三十年と少し生きてきた中で、イェレイはそのような問いを持つこと自体が野暮なのだと感じるようになっていった。この世界には、自分も含め、そのような人が多すぎるのだから……。

「さて、座って話そうか」

 ジルケが椅子に座り、続いてイェレイも座った。

「ヴァーデルラルドの件だが……」

 ジルケは腕を組み、背もたれに体重をかけて言葉を続ける。

「予想はしていたが、君は受け入れ派なんだな」

「まあ、そうですね。あの人の申し出は、我々にとっても、人類にとっても、プラスになると考えたので」

 その言葉に、ジルケの眉がぴくりと動いた。

「あなたはどちらかと言えば、受け入れたくない……ですよね?」

「どちらかと言えばではない。完全に、受け入れたくないな」

「それはなぜ?」

「あれ自体を警戒しているからだ」

「あれとは?」

「ヴァーデルラルドのことだ」

 ジルケは平然と言ったが、イェレイの顔は僅かにこわばる。ヴァーデルラルドを「あれ」呼ばわりするなんて、一般人が聞いたら卒倒してしまうのではないか。

 しかしジルケは構わず続ける。

「君は妙だと思わないか? 単独で成功した、設備まで自前で用意した研究者が、急に私達のような凡庸な集団と接触したいと言っているのだぞ? 私は警戒しているんだ。あれの言うことは理に適っていない」

「ですがあの人は、研究者を支援したいと言っています。それは立派な動機では?」

「ならばやり方はもっと他にあるだろう。あれは世界に『神』であるということにされた。不必要にカリスマ性を身につけた。そんな人間がこの研究所に来れば、ここの研究員たちの研究態度はどう変わる? 一般が私達に向ける目は? 私はそういう人間の力学も含めて警戒しているんだ」

「なるほど……?」

 イェレイが返答を考えていると、ジルケはさらに背もたれに体重をかけた。椅子からミシリと音が鳴る。それから再び口を開いた。

「本音を言おう。私はあれが気に食わない」

「はい?」

「あれがいなくとも、いずれ科学者たちは汚染を解決していた。別になんの根拠もなしに言っているわけではない。技術の発展速度とその効果の出現速度、汚染の進行速度と、科学に熱心な……少なくとも予算を削減したりはしない政府に政権交代したことを考えれば、十分に対処可能だった」

「……それはわかります。ですがヴァーデルラルドは、僕たちのスケール感よりも遥かに速いスピードで、それこそ世界を一瞬で変えるほどの浄化を達成しました。汚染による死者も出ている中で、そう悠長なことを言っていられなかったのも事実です。であればヴァーデルラルドは世界に必要だったのではないでしょうか」

「短期的にはな。しかしあれは、科学を破壊した」

「どういうことですか?」

「別に単純な話だ。多くの人間が言う通り、あれは『説明のつかない奇跡』で環境を塗り替えた。問題なのは、汚染による環境の変化は因果関係が明快だったが、あれの『奇跡』は因果を無視していることだ。説明できないものは科学ではない。それが一度でも認められれば、我々のこれまでとこれからの積み重ねはどうなっていく? 百歩譲ってこれまでの研究が無駄になったのは良いとして、これからの我々は、その土台の上に、どうやって次なる研究を重ねていく?」

「確かに……」

 イェレイは目線をずらし、小さく呟いた。研究という営みが、秩序立って積み重ねられた、何百年にもわたる強固な地盤の上に成り立っているのはイェレイも強く実感しているところだった。しかし……

「ジルケさんの言うことはもっともです。確かにあの人は僕たちの信じてきた科学を根底から覆しました。ですが現象が起こった以上、僕たちはそれを無視するわけにはいかない。まずはあの人のやったことを受け入れて、冷静に検証していかなければならないフェーズかと……」

「君は建設的だな」

 ジルケはふっと小さく笑う。

「ま、さっきのは年寄りのただの愚痴だ。忘れてくれて構わない」

「ジルケさんは年寄りではないと思いますが……」

 イェレイの言葉に再び小さく笑うと、ジルケは先ほどの柔らかいトーンから硬い声に戻し、言った。

「実はもう、トップはあれを受け入れる方向に動いている。あのトップは考えがあるようで、ただ空気を読んでいるだけだからな。研究員達のヴァーデルラルドへの憧れを汲み取ったというわけだ。研究員の中にも……というより研究員の多くにとって、あれは憧れの対象だからな」

 そう言うと、ジルケはおもむろに立ち上がった。

「ま、君に私の懸念を共有できて良かったよ」

 ジルケは扉の方へ踵を返す。が、イェレイは咄嗟に立ち上がった。

「待ってください!」

「なんだ」

 ジルケが振り返る。

「どうして僕なんですか? 僕のような、その、組織の中間的なポジションにいる人間なんかに、あなたのような人が……」

「君は上にも下にも人気がある。爽やかで、人当たりがよくて、誠実だからな。つまり私は、君の影響力の強さを見込んで話をしたんだ。それに、君なら私の考えにも真剣に取り合ってくれると思ったからな」

 それだけ言って、ジルケは部屋を後にした。イェレイはただ立ち上がったまま、それを見送った。

 

***

 

「ですから、時に科学には合理よりも非合理が優先されるべき時があるのですよ。我々は未知を捉えようとしているのですよ? 我々にもわからないことが我々の合理で測れますか? 科学者とて人間なのだからまず成果を出すにはロマンというものを大事に……」

 あの人また演説してるなあ。レルマはモップをかけながら横を見た。

 廊下で議論……というより一方的に持論を展開していたのは、ここ数年、かなりの頻度で見かける人物だった。いつもよれたニットを着ており、背骨が心配になるほどの猫背で、何より、妙によく通る早口が常に廊下に響いていた。ここを通る人は、いやでもそちらに注意が向いてしまうのではないだろうか。

 そもそもここにいる人たちは、やたらと話が長い人ばかりだけど。

 そうしてなんとなく横を向きながら掃除をしていた、その時だった。

「レルマくん、久しぶり」

 レルマの正面から、晴れた朝の風を思わせる声が聞こえた。

 レルマは正面を向き、少し見上げる。そして、顔を輝かせた。

「イェレイくん!」

 イェレイは笑いながら、手をひらひらと振っていた。それを見て、レルマの中にふわりといくつもの感情が湧き上がってくる。

 イェレイの白い肌と澄んだ青い目、柔らかいベージュの髪は、無機質であるはずの蛍光灯を柔らかく反射しており、まるで神聖な光を纏っているかのよう。そして皺ひとつないシャツと淡い水色のネクタイは、内面の清廉さがそのまま形になったかのよう。レルマを見つめる深い瞳は、幼い頃に美術館で見た、宗教画の天使を思い出させる。それでいながら、その目は気高い猫のような知性と鋭さもたたえており、レルマの心の奥にそっと触れてくる。薄くたおやかな唇は、精巧な彫刻品を思い起こさせるが、それでも、その笑顔は春の陽を思わせる穏やかさで、レルマの気持ちはどこまでも晴れやかになっていった。

 そこまで思ってレルマはふと我に返り、もう一度笑って誤魔化す。

 イェレイは優しく、しかし少しだけ遠慮の混じったトーンで言う。

「仕事中ごめんね。でもせっかく会えたから、話しかけちゃった」

「いいんだよぉ全然! 僕も会えて嬉しい! ここのとこずっと研究所の中でも全然会えなかったし、イェレイくん忙しいだろうから、お茶に誘っていいのかも迷ってて……」

「僕の都合で気を遣わせちゃったね」

「いいんだよぉ!」

 レルマはイェレイの手を勢いよくとり、力強く握った。しかし直後、その手の中の、今にも折れてしまいそうな繊細な指先に、レルマは内心、冷や汗が吹き出すのを感じる。そしてイェレイに気づかれないように、そっと力を緩めた。

 レルマがそっと手を離すと、イェレイは先ほどのニットの人物の方を見た。

「レルマくん、ヨヨギのこと見てたの?」

「あのニットの人、ヨヨギさんっていうの?」

「そう。僕の直属の部下じゃないから、よく知らないんだけどね」

「それだったら、僕の方があの人のこと詳しいかもね! 僕ここで、よくあの人の話聞いてるから!」

「あっはは、それはそうかもしれないね!」

 二人の笑い声が廊下で響きあう。それからレルマは廊下を見回して言う。

「それよりもさ、ここ、懐かしくなぁい? ここで二人で一緒に、迷子になったの!」

「そうだったね。たまたま同じ時期に入所して、たまたまここで会って、たまたまここで迷子になったんだっけ」

「そうそう! でも良かったよ、ここで会えたのがイェレイくんで!」

「結局二人とも大遅刻したけどね」

 イェレイは眉を下げて笑った。レルマも一緒に笑った。

 しかし、ふと、イェレイの視線がわずかに泳ぐのが見えた。もしかしてさっき握りすぎてしまっただろうか。レルマはそっと、上目遣いで聞く。

「イェレイくん、もしかしてさっき握ったの、痛かった……?」

「え、いや、全然そんなことはないよ?」

 イェレイは不思議そうな顔で否定する。

「じゃあさ、イェレイくん、もしかして最近、何か悩んでる?」

「別に悩んでなんて……」

 イェレイは一瞬目を逸らしたが、すぐに観念したように目を閉じた。

「いや、どうせもうすぐに出回る情報だし、言ってもいいか……」

「なに、どしたの?」

「このラボにヴァーデルラルドが来ることになったんだ」

「へ?」

 レルマはポカンとした表情でイェレイを見た。

「ヴァーデルラルドって、あのヴァーデルラルド?」

「そう、あのヴァーデルラルド」

「すごいじゃん、それって!」

「え」

「だって、あのヴァーデルラルドでしょ!?」

「そうかな……」

 イェレイはまだ浮かない顔をしている。レルマは首を傾げた。

「何か問題があるの?」

「うーん、問題があるっていうより……わからないんだ。あの人がここに来るのが本当にいいことなのか。僕は基本的にはいいことだって思ってたんだけどね。色々考えてるうちに、よくわからなくなってきちゃったんだ」

「そっかぁ……」

 有名人が来るのに、悪いことなんてあるの? レルマは一瞬そう思ったが、ふと、先日の、レモン色の飴をくれた掠れ声の人物を思い出した。

「たしかに、みんなにすごいって言われすぎてる人だと、色々あるかぁ」

「えっ、レルマくんもそう思うの?」

「やー、そういうこと言ってる人がいたなあって、思い出しただけなんだけどね」

「そっか……」

 イェレイは一瞬、視線を落としたが、すぐに前を向いて言った。

「まあ、何があっても、僕たちはやることをやるだけだね」

「そうだね!」

 レルマが手を上げると、イェレイはそれに応えるようにハイタッチした。それからそれぞれがそれぞれの仕事に戻っていった。レルマの手のひらには、しばらくの間じんわりとした熱が滲んでいた。しかしそれも徐々に冷めていき、レルマの手を薄ら寒さが覆っていった。

 

***

 

 その翌日から、研究施設内は、異様な慌ただしさと緊張感、それから、どこか妙な熱気のようなものが現れ始めた。それは、研究においては完全に部外者であるレルマにも、はっきりと感じ取れるものだった。

 この空気は苦手だなあ。レルマは下を見ながら、努めてその空気に呑まれないよう、モップがけに勤しんだ。

 遠くからカツカツと重い足音が響いてくる。レルマはぼんやりと音の方向を見た。その人物は完全に手元の端末に目をやっており、気がついた瞬間には、レルマは数メートルほど弾き飛ばされていた。その人物とレルマが衝突したことに気づいたのは、数秒経ってからのことだった。

「おっと、すまない。大丈夫か?」

 その人物はレルマに手を差し伸べる。

「あ、はい。大丈夫です」

 レルマはその手を取る。その人物の顔を見て、レルマは思い出した。何かの冊子で見たことがある。この人はジルケだ!

 レルマに怪我がないことを確かめると、ジルケは再び同じように大股で去っていった。その後も、研究員と思わしき人々が慌ただしくレルマの横を通りすぎていく。

「ずっとこんな調子が続くのかなあ……」

 いやだなあ。レルマは下を見て、耐えるようにモップをかけた。

 しかしそのような日々は、唐突に終わりを迎えた。

 

***

 

 その日の朝は、やけに明るく、静かだった。

 レルマはいつものように、自転車をとめて、真っ白な花畑の上を歩き出す。陽の光を反射する花びらがひどく眩しく見え、レルマはわずかに眉をしかめた。

「おはようございまーす」

 レルマはいつものように清掃用具を取り出し、研究所のエントランスに出向いた。キャスター付きのバケツを横に、部屋の隅からモップがけを始めた、その時だった。

 認証コードの音とともに扉が開き、エントランスに勢いよく風が吹き込んだ。レルマは咄嗟に目を庇うように腕を上げて、眼を閉じる。それから、ゆっくりと入口を見た。

 レルマは薄目でそれを見つめた。まず見えたのは、白くて眩しい光の塊のようなものだった。レルマは目を凝らす。いや、あれは光ではない。人間だ。あれはテレビで何度も見たあの人、ヴァーデルラルドだ。

 ジルケを始めとした、何人もの職員に囲まれたヴァーデルラルドが、ゆっくりと歩いてくる。足取りは重くゆったりしているが、どこか浮いているようにも見えた。ヴァーデルラルドの、マントのような白い布が大きくはためく。すべてがスローモーションに見えた。レルマはただ、口を開けて見つめることしかできなかった。

 その時だった。レルマの足に、キャスター付きのバケツが当たり、転がっていく。レルマがそれに気付いたのは、バケツがヴァーデルラルドの足に当たった時だった。

「わっ、わっ」

 レルマは走っていく。

「すみません! あれ、ストッパーが止まってなかったかな……」

「大丈夫ですよ」

 頭上から、温かい、慈愛に満ちたような、それでいて冷たい深海のように底知れない声が降ってきた。

「あなたは清掃の方ですね。いつも感謝していますよ。我々はあなたのような方々に支えられているようなものですから」

 その声は、ゆったりとしており、どこか子供を寝かしつけるような響きすらあった。微かな息遣いすら聞き取れるほど静寂を孕んだ声であるのに、耳の奥でひどく響いて離れない。抗えない重力のようなものを感じ、レルマはしばらく顔を上げられなかった。

「大丈夫ですか?」

 レルマの目の前に、そっと手が差し伸べられる。それは白い革の手袋に覆われており、一切の体温が感じられなかった。レルマはようやく、上を見る。そこにあったのは、テレビで何度も見たヴァーデルラルドの「顔」、無機質なセラミックの白い仮面だった。反射した仮面の表面が、レルマの間抜けに開かれた口元を映し出す。

 仮面は鼻から上をすべて覆い、その目が何を宿しているのか、確かめることさえできない。唯一露出された口元には、優しい微笑みがたたえられており、その唇は、無機質な仮面とは逆にひどく生々しく感じられた。

 レルマが手を取ると、優しく導くように、上へと引き上げられた。立ち上がったヴァーデルラルドは、遠くから見た印象より何倍も大きかった。視界いっぱいに広がった白が、一人の生身の人間であると理解するのに、数秒の時間がかかった。見上げた頭部の輪郭はもはや曖昧で、光そのものが形をとっているようだった。

「すまないが清掃員の方、私達は行かなければならないのでな」

 ジルケがふいに口を挟んだ。

「あっ、はい!」

 レルマは急に現実に引き戻されたように、小さく飛び上がって返事をした。

「それでは、またお会いしましょう」

 ヴァーデルラルドはレルマに微笑みかけ、ジルケ達とともに去っていった。レルマが自身の生身の感覚を取り戻したのは、それから何分も経った後だった。

 [2に続く]

 

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