ヴィンスと魔法の王冠
小さな王冠が、洞窟の奥、ひとりきりで光っていた。
それは主を待つように、ひとり静かに呼吸していた。
残り三年
「村は本当に退屈で疲れるな、カーリィ」
「また村に行ってきたのか、ヴィンス」
木製の扉を開けて、ヴィンスと呼ばれた若い人間がやってきた。扉の音とともに、ヴィンスの一つに束ねられた艶やかな長髪が揺れる。カーリィは手元の本から視線を上げ、目を細めてヴィンスを見た。
「いつも言っているだろう、ヴィンス。村の皆とは根本的に話が合わないんだ。無理をしてまで村に行く必要はない」
「カーリィ、私もいつも言ってるが、二人だけの閉じた人間関係は健全とは思えない。二人だけで対話していれば、考えは狭まり偏っていく。だから無理をしてでも村に行く必要があるんだ」
「ふぅん? ”退屈な”村の人々が、お前の考えを押し広げてくれると?」
「少なくとも、私達の中だけでは得られない感覚を与えてくれるさ」
ヴィンスはそう言って、荷物を下ろした。それから自分の茶を用意する。カーリィはその後ろ姿をしばらく見つめたのち、言った。
「私はお前という理解者が一人いれば、それで十分だがな」
それを聞いて、ヴィンスは自嘲気味に笑った。
「そう思えるお前は、ある意味成熟しているのかもな」
そう言ってヴィンスはカーリィの向かいに座り、続けた。
「私はまだ理解し合いたいと思ってしまうんだ、村の皆と。いや、理解なんかできなくたっていい。ただ……”話”をしたいだけなんだ。そんな願い、無意味だとわかっているのにな」
「別に、そう思うのは自然なことだろう。お前はただ人間をやっているだけだ」
そう言ってカーリィは、手元の茶に口をつけた。
二人は双子の魔術師だった。有能で村人から頼りにされる存在ではあったが、その偏屈な性格により村からは孤立していた。ゆえに、二人は村から離れ、森でひっそりと暮らしていた。……が、近頃のヴィンスは村に頻繁に通うようになっていた。
ヴィンスは束ねた長髪をほどいて、ため息混じりに言った。
「私が口を開けば、すぐに『難しい話はやめてくれ』だの『もっと楽しい話をしようよ』だの……私は十分に簡単で楽しい話をしているつもりなのだがな。専門知識など何もいらない、ただのこの世界の枠組みの話だ」
「ほう? どんな話をしたか、私に聞かせてみろ」
「色々あるが……そうだな、特に印象的だったのは、私達の性別の話だったな」
「頻出話題だな。また『あんたは男なんだから』とかなんとか言われたのか? あるいは、私のことを『あのお姉ちゃんは』、とか?」
「『お姉ちゃんは』だ。私は『その言葉がカーリィの人格を歪める』と何度も話しているのだがな。どうも、尊厳に関わる話だと理解していないらしい。性別は本来ただの記号に過ぎない。しかし今となっては意味を持ち過ぎた。だからこそ慎重に扱うべきだと思うのだが」
「いいさ。私はもう彼らに理解されることを諦めた。お前は自分の心の安全だけを考えろ。お前が私を守ることで傷つくのなら、お前は何も話さなくともいい」
「お前の尊厳は私の尊厳でもある。何度否定されようと、諦めるわけにはいかないさ」
「お前はいつも、それを言うな」
「ああ。私が説明するのは、自分のためだけじゃない。黙って傷つく人間がいる限り、誰かが言わなければならないと思っている」
「お前は本当に難しい挑戦をしているな。心から尊敬するよ。いや、皮肉ではなく本気でな。男か女、どちらかが割り当てられることが当然の世界で、お前は人々に、自分の内面の在り方を広げるよう求めているのだから。切実な違和感を持たない限り、それはあまりに抽象的で理解し難いのも無理はない。人はどうしたって、自分の枠組みの中でしか考えられないものだ」
「だからこそ、枠組みを疑うことが重要なのだ。別に、完璧に実践しろと言っているわけではない。私自身、それができているかわからない。ただ、ほんの少しでいい。少しだけでも、その枠組みを問い直す姿勢を持ってほしい。それだけなのだが……それが、伝わらない」
「そうだな。……私は、何を言えばいいかわからないよ、その件に関しては。私は理解させることを放棄した”怠惰な人間”だからな」
「まあ、私はもう少し頑張ってみるさ。私は理解されたがりの”厄介な人間”だからな」
そう言うと、ヴィンスは少しだけ目を伏せた。
「自覚はしているんだ、カーリィ。私はきっと説明しすぎるんだ。黙ることを知らない、子どもなんだ」
「……別に子どもではないと思うが。まあ、無理はするな」
そう言って、カーリィは空になったカップに口をつけた。
残り二年
「ただいま、カーリィ」
「……おかえり、ヴィンス」
木製の扉を開けて、ヴィンスがやってきた。カーリィは手元の本から視線を上げ、ヴィンスを見た。歩くたびにヴィンスの艶やかな長髪が揺れる。一方で、その顔には疲れと落ち込みの影が見えた。
「何かあったのか、ヴィンス」
「今日は夏至祭の準備をしてたんだ。普段は僕たち、魔術でみんなに貢献してるけど、ああいう場に行くと自分がいかに無能か思い知らされるね。みんな本当にテキパキ動くんだ。あんなに混沌としてる中でも、自然に自分の仕事を見つけられるみたい」
「私達は普段の役割も求められる知性の性質も違うのだから、当然だろう」
「それはわかってるけどね。それでも僕はあたふたするばっかりで、自分がとんでもない役立たずに思えて。実際に『うすのろ!』って言ってくる人もいたし、それなりに落ち込んでるよ。僕もカーリィみたいに”超然と”できればいいんだけど」
「それはわからないぞ? 私も同じ状況になれば、お前以上に落ち込むかもしれない」
「ははっ、そうは思えないけどな!」
そう言うと、ヴィンスは自分のティーカップを持ってカーリィの向かいに座った。
「カーリィも、明日の夏至祭に行かないかい?」
「興味ないな。おっと、『初めから拒絶していたら、得られるはずのものも得られないよ』というのは無しだぞ。私は去年、行ったんだからな」
「そうだねぇ。カーリィも僕も、あんまり馴染めないで帰ってきたんだっけ」
「そうだ。村が喜び一色に染まって、それ以外の感情を認めまいとするあの空気が異様で、本当に気味が悪かった。あれは村全体を巻き込んで、『楽しんで当然だろう?』という同調圧力をかけてくるじゃあないか」
「僕もその点に関しては同意だね」
「それでもお前は行くのだろう?」
「ああ、行くよ。大衆は何に熱狂するのだろうみたいに”分析”するつもりで行けば、それなりに有意義な時間は過ごせるんじゃないかな」
「つまりお前は、祭りそのものは面白いと思っていないんだな」
「それでも勉強する姿勢は大事だろう? 話し合うには、こっちから歩み寄らないと始まらないからね。……まあ、正直、気が重いけどさ」
ヴィンスは、肩をすくめながら笑った。その笑いには力がなかった。
「お前のそういうところは本当に尊敬する」
カーリィはそう言って、カップを軽く傾けた。その向かいで、ヴィンスは窓の方へ視線を投げたまま、瞬きもせず何かを考えている。窓の外からは、夕方になった今もなお、遠くから無邪気な子供の声が聞こえてきた。カーリィはそんなヴィンスを見ながら、ぽつりと言った。
「お前、本当に”村人らしい”喋り方が板についてきたな」
「えっ、急にどうしたんだい」
「別に。ふと思っただけだ」
「まあ、僕も努力してるからね」
そう言うと、ヴィンスは再び窓の外へ目を戻した。それを見て、カーリィは静かに茶に口をつけた。茶の温度は冷め切っていた。
残り一年六ヶ月
「ただいま、カーリィ」
「おかえり、ヴィン……ヴィンス? その髪はどうしたのだ」
カーリィはわずかに目を瞬いた。ヴィンスの髪は、あの艶やかな長髪ではなく、耳元で切りそろえられた短髪になっていた。
「ああ、村の人に切ってもらったんだ。この方が、”受け入れられやすい”と思ったからね。入り口なんて、広いに越したことはないだろう?」
「……それは本質ではないと思うが」
「本質じゃないところが重要なんだよ」
ヴィンスは力なく笑った。カーリィが片眉を上げたのを見て、ヴィンスは言葉を続けた。
「実際、良いことだらけだったんだ。髪が長いっていうだけで話してくれない人もいたけど、そういう人も話せるようになったし。今まで仲良くしてくれた人も、『かっこいい!』って言って、もっと優しくしてくれるようになったんだ」
それを聞いてカーリィは、一瞬だけ眉をひそめた。それを見て、ヴィンスは苦笑する。
「わかるよ、カーリィ。お前は美人と言われて嫌がったことがあったもんね」
「ああ……そんなこともあったな」
「覚えてるよ。『村人どもは、”他人の容姿を貶すこと”は罪だと自覚しているのに、”褒めるならば良い”と思っている。しかしどちらも本質は同じだ。容姿によって評価することそれ自体が無礼で下品極まりない』、でしょ?」
「そんなこと言った気がするな。今も同じようなことは思っているが」
「わかってるよ。僕だって、かっこいいねっていう言葉を無批判に受け入れるほど愚かじゃない。でも、それを利用してでも……いや、そんな言い方はずるいね。とにかく僕は……受け入れてほしいと思っちゃうんだ」
ヴィンスは微笑んでみせたが、それは明らかに無理やり作ったような笑みだった。ヴィンスは切ったばかりの後頭部を無意識に何度も撫でている。
「お前は、自分の髪を大切にしていると思っていたんだがな」
「必要な犠牲だよ、みんなに受け入れてもらうために」
その言葉はどこか淡々としていたが、ヴィンスはすぐに視線を伏せ、肩をすくめた。
「ほんと、笑えるよね。髪一本で……」
カーリィは黙って頷き、静かに続けた。
「思うところは色々あるだろう。いくらでも話は聞くぞ」
「ありがとう、でも、村の人のことを悪く言うのはちょっと、ね」
「そうか? まあ、話したくなったら話せ」
カーリィがそう言うと、ヴィンスは薄く笑って去っていった。ヴィンスは自分の片腕を強く掴んでいた。カーリィはその手の震えに気がついたが、黙ってその背中を見送った。
カーリィの視界の端で、床に落ちたかつてのヴィンスの長い髪が、夕日を受けてほのかに光った。カーリィはしばらくの間、無表情でそれを見つめていた。
残り一年三ヶ月
「ただいま、カーリィ」
「おかえり、ヴィンス」
カーリィは手元の本から視線を上げ、ヴィンスを見た。扉を開けて入ってきたヴィンスの顔には、明らかに覇気がなかった。短く切られた髪は乾いた藁のようで、以前のような艶はどこにもなかった。
「僕もお茶、飲もうかな」
「私がやる」
カーリィは立ち上がり、キッチンに向かったヴィンスを遮るように、茶葉の入った容器を開けた。
「今日もお茶出してくれるんだ。カーリィ、最近妙に優しいよね。最近ずっとこんな感じ」
「あのな、この際だからはっきり言わせてもらう。お前はもう、村に行くのをやめろ」
「え」
カーリィの珍しく強い語気に、ヴィンスは気圧され、困惑の顔でその目を見返した。カーリィ自身も戸惑ったように、一瞬黙り込んだ。それから小さくため息をつくと、先ほどよりは幾らか優しく「座って話そう」と言った。
二人が向かい合って座ると、カーリィの方から口を開いた。
「お前は本当に、村人と”仲良く”しているのか?」
「してるよ」
ヴィンスは心外そうに、即答した。
「みんな、僕に対して親切にしてくれる。いろんな話を聞かせてくれるし、食べ物だってくれるよ」
「なら質問を変えよう。お前は”自分の話をどの程度村人に聞かせている”?」
「自分の話なんて、するわけないよ」
カーリィは目を見開いて何か言いかけた、が、それに被せるようにヴィンスは続けた。
「いや、するわけないっていうのは嘘かも。たまにしかしないっていう程度。みんなにとって、僕の話はややこしすぎるし役に立たないし、何よりつまらないからね。そう、たまにはするんだ。たまには。でもわかっちゃうんだよ。どれだけ易しい言葉を使っても、どれだけ言葉を尽くしても、みんな、受け入れているフリをして、本質的には何も理解してないっていうこと。でも、これでも、受け入れてくれているだけまだいい方なんだ。前は受け入れるフリすらしなかったからね」
「受け入れるフリは、受け入れないことよりも悪質じゃないのか」
「それでも、対話を続ければいつかはわかってもらえると信じてる」
「その対話すら碌にできていないだろう」
ヴィンスの顔がこわばり、言葉が詰まる。
「お前が今享受しているのは”条件付きの隣人愛”だ。その証拠に、お前はあれほど大切にしていた髪まで失った」
「そう……だけど……」
ヴィンスは目を泳がせながら、机を向く。
「お前が本当にしたいのは、表面だけの浅い交流ではなくて、対話を通じた深い相互理解だろう? それができないのなら、自分を削ってまで村に行く意味などない。いや、意味がないどころか、有害だ。お前は今すぐに村に行くのをやめろ」
「カーリィ……」
「前にも言ったが、私はお前という理解者が一人いれば、それで十分だ。だが、お前は違うのか?」
「違うよ」
ヴィンスは力無く、しかしはっきりとした言葉で言った。
「前にも言ったけど、僕は二人だけの閉じた関係は不健全だと思う。それに、僕は、多くの人に理解されたいって思わずにはいられないんだ。閉じた関係が不健全だと思うのは真っ当な感覚だと思ってる。でもみんなに理解されたいっていうのは……わかってるよ、汚れた欲求だよね。自分でも情けないと思う。どうして僕はこうなんだろうね……」
「汚れてなんかいない。お前は私よりもよほど真っ直ぐに物事に向き合っている。それだけだ。ただ、今だけは、村から少し距離を置け」
「無理だよ……明日はみんなで、昼食を食べる約束をしてるんだ」
残り一年
「ただいま、カーリィ」
「おかえり、ヴィンス」
カーリィは手元の本から視線を上げ、ヴィンスを見た。髪は相変わらず艶を失っていたものの、その目には、久しぶりに何かを見据える意思が宿っていた。
「今日は吟遊詩人が来たんだ」
この日はヴィンスの方から、積極的に話し始めた。
「みんなもう、その人に夢中でね。観察していたらわかったんだ。今までの僕に足りなかったのは芸術性だったんだって」
「はあ?」
「僕の話はそのままの状態じゃ受け取ってもらえない。だから、僕の話は、みんなが楽しみながら受け取れるように加工しなくちゃいけないんだ。それで、思いついたんだ。物語を作ろうって」
「はあ」
「物語の中に、僕の思想を織り交ぜるんだ。説教くさくならないように、あくまで自然にね。そうすれば僕は言いたいことが言えるし、みんなは楽しんでくれるし、良いことしかない! っていうわけ。どうかな?」
「そうだな、物語の有効性は私も理解できる。お前にやる気があるのならやってみたらいい」
「実はもう、アイデアは思いついてるんだ。だから後はもう書くだけ。テーマは、”心の痛みを抱えているのに黙ってる人の話”なんだ」
「なんだそれは。お前そのものじゃないか」
「へへ、そうなんだよね。でも、あくまでこれは、愚痴じゃなくて、”考えるきっかけ”にしてもらうだけ。これを読んでくれれば、みんな、そういうのをちゃんと考えるきっかけになると思うんだ。それに、僕の書いた話からこういう思想が出てくるっていうことは、僕もそういう痛みを抱えてるって、気づいてもらえるかもしれないしね」
ヴィンスは嬉しそうに笑った。だがその笑顔には、どこか焦りのようなものが混じっていた。カーリィの視線にはかすかな翳りがあった。だがヴィンスは、それに気づくことなく早口で続けた。
「大丈夫だよ。今回は本当に、ちゃんと届く気がする。カーリィも楽しみにしててよ! ああ、これでやっと、みんなに本当の僕をわかってもらえるな! なんか、変な言い方だけど、やっと救われた気持ちになった気がするよ!」
カーリィはその目を静かに見つめた。何も言わずに、ほんの数秒だけヴィンスの顔を見つめたまま、言葉を探していた。
「……それは、伝わるといいな」
カーリィは祈るように呟いた。
残り六ヶ月
「ただいま、カーリィ」
「おかえり、ヴィンス……」
扉を開けてヴィンスが入ってくる。艶のない髪はもう見慣れたものだったが、その声と表情は、これまでには無かったほどに強い苛立ちと焦燥に塗れていた。
ヴィンスは乱暴に椅子を引き、背もたれに体を叩きつけるようにして座った。そして、静かだが確実に怒気を孕んだ、異様に張り詰めた声で話しだした。
「僕が作品をみんなに渡してから、もう三週間だよ。三週間あったんだ。なのに、感想をくれたのは五人だけだ。三週間も期間があるのに、それでも読み終わらないほど、みんなの読む速さは遅いのか?」
「少なくとも、私達よりは遅いだろうな。まあ気長に待て」
カーリィは静かに返したが、声音には微かな緊張が滲んでいた。カーリィはヴィンスを見つめる。ヴィンスの目はもう焦点が定まらず、机の木目を何度もなぞっていた。その指は机の上で、無意味に何度もこすり合わされている。
「違う。気づいてる。本当はわかってるんだ。『読むね』なんて言葉、ただの社交辞令だったってこと。本当はみんな、読む気なんて全く無いってこと。『忙しいから後で読む』とか言う割には、昼寝ばっかりしてたりするじゃないか。ずっと噂話ばっかりしてるじゃないか。僕の話より、誰が誰を好きだとか、そんなことの方がずっと大事なんじゃないか。僕の作品には価値がないのか? 僕の主張には何の価値もないのか? 僕には何の価値も……」
「私は面白いと思ったぞ」
被せるように、カーリィは言った。ほとんど衝動的に口を開いていた。
「面白いストーリーの中に主張がうまく組み込まれている。文章もわかりやすくて、すらすら読めた。読んでいて本当に楽しかったし、それでいて、強い痛みも感じた。まあ、お前そのもの過ぎるとは思ったがな、私はお前の才能に驚いているぞ」
その言葉にヴィンスは、顔を上げて自嘲気味に笑った。
「カーリィは優しいな。カーリィはよく褒めてくれるよ。僕が仕込んだメタファーにも気づいてくれるし、僕の本当に言いたいことも受け取ってくれる」
「まあ私はお前のことをよく知ってるからな……それでも、五人は感想をくれたんだろう?そいつらは何と言っていた?」
「面白かった」
「何?」
「面白かったって、それだけ。とてもじゃないけど、僕の意図を理解しているとは思えなかった。みんな、僕の物語を……そう、まるで見世物小屋でも覗くように、ただ眺めて、笑って、それで終わりだったんだ。派手な部分だけ拾って、あとは何も気にしない」
その声に、カーリィの眉根が歪む。しかしカーリィが言葉を発する前に、ヴィンスは畳み掛けるように続けた。
「よくわかったよ、みんな僕に関心なんてこれっぽっちもないって。あんなにも思いを込めたのに。なのに、誰も届いていない。誰も、見ようとしてくれない。あんなにも、魂を削るようにして書いたのに……そもそも“僕自身”なんて、最初から必要なかったのかな……」
カーリィは言葉を探すように、わずかに視線を彷徨わせた。しかし何を言っても、今のヴィンスには届かない気がした。
残り三ヶ月
「ただいま、カーリィ!」
「おかえり、ヴィンス……?」
扉が開いた瞬間、カーリィは違和感を覚えた。ヴィンスの声は、いつもの疲れたものでも、怒りに滲んだものでもなかった。妙に明るく、浮いていた。明るすぎた。
カーリィが本から顔を上げると、ヴィンスは興奮したように、息を整えながら言った。
「すごい噂を聞いたんだ! ”魔法の王冠”ってやつ! なんでも、”どんなことでもできる無限の力を与えてくれる”らしいんだ!」
「誰だそんなふわっとした噂を流した奴は……」
「でもこれがあれば! 僕はみんなに思いを伝えられるかもしれない! 真にみんなと理解しあえるかもしれないんだ! なんたって、無限の力を与えてくれるんだからね!」
「いや、だが……」
「こんなに時間が経ったのに、僕の作品を読んで感想をくれたのはたったの八人だったんだ。しかもみんな、面白かっただとか、その程度の浅いものばっかり。こんなのもう、魔法の道具に頼るしかないじゃないか!」
「いやしかしな……何の信憑性もないだろう、その話」
「それが、ただの噂じゃないんだよ! 吟遊詩人も、村の長老アーベルさんも、昔から伝わる本にも記録されてたんだ! 伝説の村ラーデルンでは、実際にその王冠が使われて、一夜にして栄えたって話! 今はもう滅びちゃったらしいけど」
「ラーデルンが滅びたのは知っているが……」
「それでも、当時の繁栄の痕跡は残ってる。古い礎石や水路跡、歴史の断片だよ。それでさ、もっと詳しい情報を知るために、アルセリオまで調べに行こうと思うんだ。知ってるでしょ、アルセリオにすごい大書庫があるの! これがあれば、僕はみんなに本当の思いを届けられるかもしれない!」
「ほおん……」
カーリィは興味なさげに唇を歪めたが、ヴィンスの興奮の裏に、どうしようもない焦燥と狂気じみた希望の匂いを嗅ぎ取った。カーリィは敢えて話題を逸らすことにした。
「まあ、ほどほどにな。逆に聞くが、お前は無限の力で何がしたい? 真に理解し合うとは、どういうことを指す?」
「僕はただ、みんなにわかって欲しいんだ。僕が何を考えてて、何を感じてるのかってことを、わかってほしい。共感して欲しいとは思わない。反対意見があってもいい。ただ、理解はして欲しいんだ。僕が書いたあの物語には、全部、全部、込めたんだ。でも結局、それを読んだ人たちは、誰も僕を見ていなかった」
一瞬言葉が途切れ、ヴィンスの目が虚空をさまよった。しかしすぐにカーリィを見つめ直す。
「カーリィは? 無限の力で何がしたい?」
「私は、お前とずっと……」
カーリィは一度だけ目を伏せ、小さく息を呑んでから、視線を上げて言った。
「そうだな、ケーキをたらふく食いたいな」
「へ? ケーキ?」
「そうだ、ケーキだ。朝起きたら、無限にケーキが湧いてくる。昼にも夜にも、違う味のケーキが無限に湧いてくるんだ。夢のようじゃあないか?」
「そんな、ケーキだなんて……カーリィがそんなこと考えてたの、全然、想像もしなかった」
「ふふ、他者理解なんてそんなものだ」
「そうかな……」
「次から私のあだ名は”ケーキの魔人”でいいぞ」
「はは、ケーキの魔人ねぇ……」
ヴィンスは、力なく笑った。しかしその目は、遠いどこかを見つめていた。
残り二ヶ月
「ただいま、カーリィ」
その言葉は、この日も聞こえてこなかった。カーリィは独り言つ。
「まだ帰ってこないのか……」
ヴィンスは「魔法の王冠に関する文献を探しに行く」と言ったきり、もう何週間も帰ってきていなかった。
「無事だとは思うがな……」
カーリィは一人で茶を飲んだ。その茶はもう冷め切っていた。
残り一ヶ月
「ただいま、カーリィ」
この日のヴィンスの声は本物で、ヴィンスは疲れを滲ませつつも、にこやかな表情で部屋に入ってきた。
「おかえり、ヴィンス。随分と遅かったな」
カーリィの声には苛立ちが滲んでいた。
「ごめんごめん、ずっと一人にさせちゃって!」
「そこはどうでもいい」
ヴィンスの声には、不自然な明るさと、それだけではない何かがあった。カーリィは苛立ちながらもどう出るべきか悩み、一歩引いて、ヴィンスに喋らせることにした。
「旅の成果はどうだった?」
「十二分にあったよ! アルセリオに行ったら本当にあったんだ、王冠に関する詳しい記述が! それに、実際に王冠を見に行ってもみたんだ!」
「はあ!? 実際に見に行ったのか!?」
「うん。王冠はとある洞窟の奥深くに封印されててね。それで、実際に行ってみたんだ。そしたら、封印を解くには特別な魔術が必要っぽそうなんだけど、僕の力なら解けそうだったよ。そんなに高度な魔法は使われてないみたい」
カーリィは呆気に取られ、言葉が出なかった。それを見て、ヴィンスは慌てて言う。
「あっ、でも、封印を解いたわけじゃないから安心して! っていうか、そもそも使うのも、やめとこうかなって思ったし……」
「……なんだ、使わないのか?」
「うん、僕にはちょっと違うかなって……」
そう言って、ヴィンスは笑って肩をすくめた。しかしその仕草とは裏腹に、ヴィンスの表情はどこか曇っていた。その指先は無意識にこすり合わせられている。それから、しばし目を泳がせたのち、今にも消え入りそうな声で言った。
「……カーリィ、もし僕が、どうしようもない選択をしようとしてたら、止めてくれる?」
「当たり前だろう? 私が気づければ、だがな」
「そっか……」
ヴィンスはそれ以上何も言わず、視線は宙をさまよい、カーリィのほうを見かけては逸らす。それは、何かを言いかけてやめたような、わずかな揺らぎがあったが、その時のカーリィには、いつものただの曖昧な間にしか見えなかった。
残り一週間
「たらいま、カーリぃ」
「おかえり、ヴィンス」
この日のヴィンスは、明らかに顔が赤く、足元もふらついており、呂律も回っていなかった。このようなヴィンスを見るのは、最近ではもう珍しいことではなかった。
カーリィはコップ一杯の水を持って、ヴィンスを見下ろした。
「また飲んだのか」
「お酒をのむと、本当のコミュニケーションができるんらよぉ」
「本当はわかってるくせにな……」
カーリィはヴィンスに無理やり水を飲ませると、ベッドまで運んで行った。
残り六日
「ただいま、カーリィ」
「おかえり、ヴィンス……おや、今日は酒を飲んでいないな」
「気分が悪いんだ……」
ヴィンスは焦点の合わない目で、カーリィの向かいに座る。
「今日ね、村人のアランにさ、ちょっと真剣な話をしてみたんだ」
「どんな?」
「心が壊れてる人がどんなふうに見えるか、って話。そうしたらアラン、『それって普通にビョーキだろ、医者にかかるべきだ』って笑ってた。……僕の話をしてたかもしれないとは、少しも思ってなかったみたいだね」
そう言うと、ヴィンスはカーリィの返事を待たず、ふらついた足取りで寝室に入って行った。
残り五日
「ただいま……カーリィ」
「おかえり、ヴィンス。どうした、疲れているな?」
「別に……農作業の手伝いをしてきただけだよ」
「あの村では、農民以外の人間も巻き込んで農作業するのか」
「別に、そういうわけじゃないけど……」
そう言うと、ヴィンスは目を伏せ、口を閉じた。そして再び口を開こうとしたが、結局は何も言わず、黙って背を向け、自室のベッドに倒れ込んだ。
残り四日
「ただいま……カーリィ」
「おかえり、ヴィンス」
カーリィが立ち上がった時、椅子を引く音がギィと響いた。その時だった。
「っ! うるさい!」
ヴィンスが突然声を荒げた。カーリィはびくりと肩を上げた。怒鳴った本人も驚いたように、すぐに口を閉ざした。部屋は一瞬で静まり返った。カーリィはしばらく動けずにいた。
残り三日
「ただいま、カーリィ」
「おかえり、ヴィンス。珍しく早いな」
「今日はカーリィとたくさん話したいなって……」
そう言うと、ヴィンスは茶を淹れて、いつになく饒舌に語り始めた。それは生きた思想の話などではなく、過去の思い出話ばかりだった。カーリィはどこか遺言じみたものを感じたが、それを遮る言葉は見つからなかった。
残り二日
「ただいま……カーリィ……」
「おかえり、ヴィンス。よくこの雨の中、村まで行ってきたな」
「村じゃないよ……洞窟に行ってきたんだ……」
「は? 何? 洞窟?」
「別にちょっと気になっただけ……深い意味はないよ……」
残り一日
この日、カーリィは村まで食料を買いに出掛けていた。市場で果物を物色していると、背後から村人達の話し声が聞こえてきた。
「ほら、あの子、お姉ちゃんじゃない。最近毎日ふらふらしてる子の……」
「ヴィンスだろ。あいつやばいよな、どうせ酒か何かだろ?」
「子供の頃はもうちょっと利口だったのにねぇ」
「ていうかあいつ、”都合のいい奴”だと思われてるの、気づいてねえのかな?」
「気づいてないんじゃあないの? だって、あんな……」
カーリィは振り返ろうとしたが、何も言わず、ゆっくりと店を離れた。頭の中で、ヴィンスの顔が浮かぶが、すぐにそれを振り払う。
夜、いつもより静かに扉が開いた。
「ただいま、カーリィ」
「おかえり、ヴィンス」
「実はあの時、僕もいたんだ」
「何?」
ヴィンスの唐突な発言に、カーリィの思考は追いつかなかった。ヴィンスは続けた。
「カーリィが果物買ってる時。僕もいたんだ。だからあの話全部聞いてたよ。薄々気づいてはいたんだよね。僕を笑ってる人がいるってこと。でもなんかもう、実際にそれ聞いてさ、全部どうでも良くなっちゃったかも」
ヴィンスの口元は、笑うように歪んでいた。しかしその目は虚ろで、もはやどこを見ているのかわからなかった。カーリィは咄嗟に言葉を発した。
「だが悪口なんて誰だって言われるものだ……私だって……」
「やっぱりあれ、悪口だよね」
カーリィは口をつぐむ。
「ああ、僕……頑張ったんだけどな」
ヴィンスの目は明らかに沈んでいた。しかしその奥には、憑き物が落ちたような、どこか不自然に明るい光もまた宿っていた。カーリィは違和感を言葉にできないまま、ただヴィンスを見つめることしかできなかった。ヴィンスは背を向ける。言いようのない気配に、カーリィの呼吸がわずかに浅くなった。
残り零日
その日は、いつもなら聞こえるはずの鳥の声がなかった。風がやけに大きく窓に吹き付ける音で、カーリィは目を覚ました。カーリィが寝室を出ると、既にヴィンスの姿はなかった。代わりに、テーブルに一冊の本が置かれていた。その本は古く、見覚えのないもので、そこには栞が挟まれていた。
栞は、ヴィンスが愛用していたものだった。カーリィは栞の挟まれたページを開く。そこには小さな王冠の挿絵と、それにまつわる長い文章が書き記されていた。カーリィはなぞるように文章を読む。
「何……? この王冠は被った者に無限の力を与える、と、”されている”が……」
カーリィの眉間に皺が寄る。
「この王冠は被った者を宿主として、その魂を啜る存在である……被った者は王冠に寄生され、癒着し、もはや王冠そのものとなる……これは、被った者に力を与えるのではなく、被った者が王冠そのものとなり、王冠の力を自分の力であると錯覚するものである……」
カーリィは視線を彷徨わせ、続ける。
「また、王冠は宿主の感情を極限まで増幅させることで、その力を最大限引き出す……」
読み終えると、カーリィはしばらく虚空を見つめた。しばらく見つめ、そののち、静かに本を閉じた。
「堂々と机に置いて、栞まで挟むなんて、ヴィンスにしてはあからさまなアピールだな」
カーリィは寝巻きを脱ぎ、旅装に着替えた。ローブを羽織り、本を小脇に抱える。
そして扉を開ける。
「間に合ってくれ……」
カーリィは村に向かって走り出した。空が、赤黒く染まっていく。
村へと続く坂道の途中で、カーリィは足を止めた。息を呑む。
地面に倒れ伏した人々の身体が、もがき、痙攣し、呻いている。まるで何かに取り憑かれ、内側から焼かれているようだった。皮膚は不自然に蒼白く、黒ずんだ斑点と浮かび上がる血管が、内側から蠢いているようだった。口からは泡と粘液が漏れ、目は虚ろで、獣のような苦悶の声を上げている。子供も、大人も、老人も、皆一様に。
村を囲む木々はしなだれ、葉は赤く染まり、焦げるような音すら立てていた。足元では、地に堕ちた鳥が痙攣している。空で雷が鳴る。時間だけが、歪んでいるようだった。
カーリィは静かに呪文を唱え、村の中に歩を進める。どこもかしこも、倒れ伏し、もがき苦しむ人々でいっぱいだった。カーリィの心臓が早鐘を打つ。それでも、カーリィは歩を進めた。
そして村の中央、かつて神聖とされた祭壇の前に辿り着く。
「カーリィ、来てくれたんだね……」
そこには、王冠に飲み込まれ異形の姿と成り果てたヴィンスが、まるで王そのもののように鎮座していた。王冠は本の挿絵からは想像もつかないほどに鋭く、歪み、肥大し、有機物のように脈動している。禍々しいそれは宿主に食い込み、衣服は裂け、皮膚はもはや元の色を留めていない。ヴィンスの体はもはや人間ではなく、王冠と一体化した歪んだ肉の塊だった。
祭壇はもう本来の姿を留めていない。石でできた神聖な台座は、金属とも肉ともつかない物質に覆われ、まるで王冠がこの場所すら侵食しているようだった。王冠の根のような枝が、石畳にまで這い、血のような液体を滴らせている。
周囲で呻く村人たちとは対照的に、祭壇に腰掛けるヴィンスの顔には、穏やかな笑みが浮かべられていた。それは安らぎすら感じさせるものだった。ヴィンスは無邪気に問いかける。
「っていうかなんで? なんでカーリィは平気なの?」
「防御魔法だ。あの本と、お前の魔法の癖から分析して即席で作った。いや、ほぼお前の魔法から考えて作った」
「さっすが、カーリィ! 僕のことをよくわかってるんだねえ!」
ヴィンスは声をあげて笑った。その声はヴィンスのものだったが、どこか奇妙に澄んでいて、何か別のものが語っているようにも聞こえた。それとは裏腹に、カーリィは険しい顔で言った。
「もうやめろ、ヴィンス。お前の願いはこんなことではなかったはずだ。お前はただ、村人とわかり合い……」
「言ったでしょ! もう全部どうでもいいって! 村人どもは味わえばいいんだ! 僕がこれまでどれだけ苦しんできたかを! 理解されないっていうことが、どれだけつらいことなのかを!」
カーリィの胸がちくりと痛む。防御魔法の限界か、あるいはそれ以外か。それでも真っ直ぐに見据えて言った。
「お前はこうなりたかったはずはない! 私が、お前と王冠を分離させる方法を探してやる! だからそれまで、力を抑えてくれ!」
「できるわけないよ! 今更力を抑えろだって? なんで僕がそんなことしなきゃならないんだ! それに、どっちにしろ無理だよ! 王冠と被った人間を分離させる方法なんてどこにもない! 誰の話にも、どの文献にも、そんな話はどこにもなかった!」
「それでも、本気で探せば……」
「僕はこの世界で誰よりも深く王冠を調べた人間だ!」
ヴィンスが叫んだ瞬間、空が裂けるような雷鳴が轟いた。どす黒い雲が渦巻き、カーリィの身体を突き刺すような圧力が包み込む。
「どれだけ調べたと思ってるんだ! 書庫に閉じこもって、誰にも頼らず、誰にも理解されず、それでもずっと! 僕はずっと!」
「誰よりも調べたのだろう! ならばそこに突破口があるはずだ!」
「わからない奴だな!」
その瞬間、王冠が腐肉のように泡立ち、膨れ、破裂音を立てて内側から触手じみた器官を噴き出した。そのうちの一本がカーリィの頬を掠める。痛みが走り、血液が勢いよく飛び散った。
「カーリィ……?」
ヴィンスの目が揺れる。その奥に、一瞬だけ葛藤の影が揺らめく。が、次の瞬間には王冠の脈動がヴィンスの首筋を走り、表情が塗り替えられた。
「見せてみろよ、カーリィ! お前の正義ってやつを! お前はいつでも! 自分だけは正しいことをしていますって顔で、おすまし顔してたよなあ!?」
王冠が点々と腫瘍のように膨れ、パチンと音を立てて破裂した。内側からは血に似たどす黒い液体が滴る。腐臭に似た臭いが、カーリィの鼻腔を刺す。
その時だった。カーリィの足に、冷たく硬い感触が走る。足元を見ると、そこには自分の背丈には見合わないほどの長剣を持った子供が倒れ伏していた。子供はカーリィを見上げると、震えながら呟いた。
「こ……これで……たおして……たすけて……」
「はっ……なんだこの生意気なクソガキは!」
王冠から勢いよく触手が伸びる。子供を切り裂かんとしていたところを、間一髪、カーリィが抱き抱えて避ける。子供までもを傷つける異形の王冠に、もはやヴィンスの意思は感じられなかった。
カーリィは剣を拾うと、無言でゆっくりとヴィンスに近づいた。
「なんだぁ、カーリィ! お前は俺を殺すのか! 自分の、たったひとりの片割れを! お前にそんなことができるのか、なあ!?」
カーリィの手は震えていた。しかし、刹那、王冠の口元が歪み、微かに動いた。
「タスケテ」
瞬間、カーリィの震えは止まった。カーリィは力強い歩みで王冠に近づくと、剣を振りかざし、もうそこにはいないヴィンスの心臓めがけて、剣を勢いよく突き刺した!
一瞬、すべてが止まった。直後、鋭くつんざくような、肉と骨が裂け、内臓が破け散るかのような凄まじい叫び声が辺りに轟き渡った。それとともに、異常なほど大量の濃厚な血液が噴き出す。飛び散った液体には微かな肉片や血管の断片が混じり、その感触がカーリィの肌に不気味にまとわりつく。吐き気を催しそうになるが、カーリィはそれを振り払いながら、剣を握りしめて踏みとどまった。
何秒、あるいは何分が過ぎたのかもわからない。気がつくと、カーリィの辺りは静寂に包まれていた。顔についた血液をぬぐうと、まず鼻を突いたのは鉄錆のような濃密な匂いだった。指先には、どろりとした粘度のある感触がまとわりついて離れない。王冠は砕けた肉塊のように地に転がり、今もなお血管のようなものがぴくりと痙攣している。それも数度、名残のように痙攣を繰り返したあと、ふっと力を失ったように沈黙した。
カーリィは小さく息を吐いて、残骸を見つめる。
「私は、お前さえいれば……」
カーリィは言いかけて、やめた。今それを直視すれば、何かが破綻する気がした。
カーリィは張り付く髪をかき上げ、空を見る。どす黒い雲は晴れ、赤黒かったそれは澄み渡った青さを取り戻しつつあった。遠くから、かすかな呻き声が聞こえ始める。建物の陰から、ゆっくりと立ち上がる人影がひとつ、またひとつと現れ始めていた。カーリィはそれを確認すると、そっと防御魔法を解き、静かにその場を後にした。
一週間後
カーリィは市場にいた。村はすっかりいつもの賑わいを取り戻していた。果物の山が並び、子どもが走り回り、大人たちは大声で笑っている。カーリィは二つ、リンゴを取ろうと両手を出し、ふと思い出したように片手を引っ込めた。
リンゴを一つ手に取ったその時、後ろから肩を叩かれた。
「あんたがカーリィさんか! 聞いたよ、あんたがあの怪物を倒してくれたんだって? ほんと、ありがとうな!」
振り返る間もなく、次々と村人たちが集まってきては、口々に感謝の言葉をカーリィに浴びせた。村人の一人が言う。
「いやあ、あの騒動も今となっちゃいい思い出だな」
何人かが頷く。
「ヴィンスの奴、ちょっと神経質すぎたんじゃないか?」
「でもさ、心の傷なんて、誰にでもあるもんだろ? 甘えてたんじゃないの、あいつ」
「それにしてもカーリィさん、やっぱ強いわ。あんなの一撃なんでしょ?」
誰かが笑いながら言う。
「でもさぁ、大変だったろ? 家にあんなの抱えてたらさ」
「よく平気だったなあ……俺だったらとっくに逃げ出してるよ」
それらの言葉に、村の人々は一斉に同調の相槌を打つ。そこにあったのは、何事もなかったかのような穏やかさだった。
カーリィは口を開かなかった。カーリィは無表情のまま、手にしたリンゴをそっと棚に戻した。
風が吹き、どこか遠くで子どもの笑い声が響いた。誰かが言う。
「これで、やっと全部終わったな」
昼の光が、カーリィの影を長く引き延ばしていく。
ー終ー